ファダン実家から情報おたよりが来たわ!
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続く数日を、アイーズとヒヴァラは似たような流れで過ごす。
黒いミハール駒にのって五つ沼に行き、その水面の色が見るたび異なっているのに、飽きず驚いていた。
ファダン大市から、アイーズ母の筆による便りが届く。
父バンダイン老侯は北町詰所の警邏部長やナーラッハとともに、全市の巡回騎士にむけてヒヴァラ誘拐の件が不当であることを通達していた。現時点においては、とくに市内外で不穏な事象は起こっていないらしいが。
ヤンシーが叩きのめした二人組は、ファダン市内の牢で黙秘に徹している。怪しすぎるものの、アイーズ達に直接暴力をふるったわけではない。よってこのままだと、留置期間いっぱいで罰金放免されることになるかもしれない、と母の便りは首邑での詳細状況を伝えていた。
「うーん! そんなら俺、あのあやしい二人組に、一発くらい殴られてたらよかったのかなー?」
「冗談じゃないわよッ! 打たれどころが悪かったら、大変なことになっちゃうんだから!」
台所食卓に座り、隣から通信布をのぞき込んで平和に言い放ったヒヴァラに、アイーズは思わず突っ込んだ。
と言うか、このひょろひょろヒヴァラが理不尽な暴力にさらされる場面なんて、想像するだけでアイーズの豊かな胸の奥が冷える。
自分がさくら杖を回して盾をつくるから、後ろに引っ込んでいて欲しいとアイーズは思う。
ヤンシーと母が三白眼をぎんぎんに光らしているが(※後者はより怖い)、ヒヴァラ・ナ・ディルトを嗅ぎまわっている者たちの気配はつかめない。
ディルト侯の私的配下は、傭兵やちんぴらの類ではなく、本物の一般人としてファダンに入り込んでいるのかもしれなかった。そうなると実に都合が悪い。
私服巡回騎士と偽って近寄って来たあの二人組だって、アイーズの目にはごく普通の勤め人にしか見えなかった。マグ・イーレの出身者にありがちな、西イリー特有の間延びするような訛りも聞かなかった、と思う。
ふー、とアイーズはため息をついた。
「これじゃ、ファダンに帰るのはもうちょっと先になりそうね……。お義姉さん、迷惑かけて本当にごめんなさい」
「なーに言ってるのさ、アイちゃん! わたしは大歓迎だって」
ダアテは屈託なく笑い、欠けた歯の穴をきらっとのぞかせる。
「ようし。いか酢にんじん、たくさん仕込んでおこう」
息子二人がファダンに寄宿して暇に倦んでいたダアテは、むしろ嬉しそうだった。
アイーズはもう一通、母が転送してくれたオウゼ書店からの便りを開いて読む。
いわく、版権がらみの予想しえない問題が起こってしまったため、校正原稿の送付はもう二回りほど先になる見込み……と、令嬢秘書ヒュティさんがうつくしい字で書いてきていた。
「あらら、大変だわ」
「版権の問題って……。なに?」
「刊行予定の訳本が、他の書房とかぶっちゃったんですって。時たまあることなのよ」
首をかしげるヒヴァラに、アイーズは説明した。
ティルムン原著をイリー訳する際、イリーの書房はティルムン書房と版権契約を取り付けるものだ。しかし両者の間にある物的距離、文化的価値観の相違、単なる誤訳うんぬんといった様々な要因によって、その約束が反故にされてしまうことがあった。ティルムンの人気本が同時複数訳されてしまう事態は、どこの書房も避けたいところであるが。
「えーっ! それじゃアイちゃんのした翻訳の仕事が、無駄になっちゃったってことー?」
「ううん、違うのお義姉さん。問題になっているのは、向こうで人気の男性向け教養本。わたしが最近訳したものは、作業が遅れるってだけなのよ」
「あ、なーんだ」
これはアイーズにとって朗報である。
ここ浜域の長兄アンドール邸でもティルムン語訳の仕事はできるけれど、するならやっぱり腰をすえて集中したい。慣れたプクシュマーの狩猟小屋の机で書きたかったし、ヒヴァラがらみの心配にとらわれながら訳すのも気が散りそうだ。
仕事は仕事で、まわってきた時に張り切るとして……。もう少し、ヒヴァラの呪いの謎に取り組めるのはありがたい、とアイーズは思った。




