疲れてヒヴァラにあたっちゃったわ(反省)
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南北に長いファダンの領土は、大まかに三つに分けられている。
北から順に、深き森林地帯を含む≪高地≫。中央部の≪中域≫は、湾岸の首邑ファダンまで。そこから南に突き出たファダン岬の部分は、≪浜域≫と呼ばれている。
アイーズの一番上の兄は、この浜域第三分団に配属されて長い……表向きは。
アイーズとヒヴァラを乗せたべこ馬は、とっとこ進んでファダン大市を迂回した。
二人は右手に、海を背にしたふるさとを眺める。実家のあるファダンを目前にしておきながら通り過ぎなければならないのは、アイーズにとって結構つらかった。
「うう……いかすにんじん……」
あわれっぽい声で、背後のヒヴァラがうめく。
「食べたかったの? ヒヴァラ」
「うん……」
「大丈夫よ、浜域にもいか酢にんじんはあるんだから」
「あ、そうなの?」
なーんだ、とヒヴァラはげんきんに安堵した。
ファダン直前の街道上で兄ヤンシーに危ないところを救われてから、アイーズは視界をいつも以上に広く取っている。
いま、街道はひらけて見通しのよい部分が続いているが、通り過ぎる他の騎り手や荷馬車を見るたび、アイーズは緊張してしまう。
マグ・イーレ者らしきさっきの二人連れだって、見てくれは全く怪しいところのない一般人だった。あんな風に油断させられ、付け込まれるのはたまらない……。そう思うと、見る人たちすべてが疑わしく思えてしまう。
「……ね、アイーズ」
「何ッッ」
だからヒヴァラにいきなり話しかけられた時、返すアイーズの言葉はついとんがってしまった。
「……代わるよ。さすがに御し方、思い出してきたから」
「い、……いいのよッ」
「疲れさしちゃって。ごめん」
しゅうんとした言葉に、かえって憔悴したアイーズの気持ちが悲しくなった。
――ヒヴァラあいてにささくれ立って、どうするのよ! わたしってば!
「さっき俺、何にもできなかったから……」
手綱を握るアイーズの両手脇に、ヒヴァラの手がそろそろと左右から寄った。
広げられたその手のひらは、ひょろんと頼りなさそうな指がながい。そしてアイーズの小さな手よりも、ずっと大きかった。
「……」
アイーズは無言で、手綱をヒヴァラの手のひらに移す。
「ありがと。べこ馬、今から俺ね。よろしく」
アイーズの耳にやさしいその声は、たぶんべこ馬の耳にとっても快いのだ。べこ馬は動揺したそぶりを全く見せず、御者がかわっても乱れぬ常足で進んでゆく。
『俺、ちょい後ろの方で妙なんが居らへんか、嗅ぎまわりながらついてくしー』
ティーナの声が聞こえ、次いで現れた赤犬がふっさふっさ、と歩き始めて後方へ流れて行った。
『ではわたくしは先の方へうようよ浮いて、いやな感じの人が来ないか見ときましょ』
ヒヴァラの頭巾ふちから、小さなカハズ侯がぴょいんと跳んで宙にとけた。
やがて馬にかけたのと同様、やさしい調子でヒヴァラが低く言う。
「俺はアイーズに、寄っかかってばっかり」
「……さっき立ち回りしたのはヤンシーよ。わたしだって、何もしていないわ」
自分で聞いていてもげっそりするような、疲れた声でアイーズは言った。
「いーや、お嬢さま啖呵。かっこよかったよ?」
「うそおっしゃい」
「ほんとだよ、敵びびってたもん。俺もびびりまくりだったけど」
ははは、……ふふ。
のんきな声、心地よい声。少年時代になかった西方なまりは、今のヒヴァラの一部になっていた。
普通に話しているだけなのに、どこかアイーズの心をくすぐって笑いにいざなってくれる。疲れた気持ち、心の中のささくれ立ちが、過ぎゆく風の中にほろほろとはがれ落ちていく気がした。
「俺はアイーズに守ってもらってきた。これまでずっと、今も守られてる」
それは少し不思議な言い方だった。どういうこと? とアイーズが問いかける前に、ヒヴァラが言葉をかぶせてくる。
「だから、今くらいは。俺に寄っかかってよ、アイーズ」
「……うん」
アイーズは言われるまま、素直に後ろへもたれかかった。そこに、支えてくれる確かさがある。
「♪ルルッピ♪」
「♪ドゥ~♪」
返ってくるあいの手までも柔らかく、やすらかだった。
真昼間おてんとう様の下にいると言うのに、アイーズは目を閉じ馬上で意識を手放したくなる。……




