ディルト侯の計画って? きな臭すぎるわね
「ヒヴァラ君が、奥さまのお兄様の……ディルト侯の、隠し刀ですって??」
何だそりゃ、とアイーズは素で思った。
「……バンダイン嬢。あなたも翻訳士であるなら、ご存じでしょう? ティルムンと言う国が、いかにすぐれているか」
覚悟を決めたように、レイミア・ニ・ディルトは少し抑えた調子でアイーズに話しかけた。
「ええ」
「わたくしは当地へ行ったことはありませんし、ティルムン語もできませんが、イリー語版の訳本はよく読みます。我々イリー人の文化技術の及ばない、おそろしいほどの先進文明です」
「……」
「わたくしどもの父は、若い時分にティルムンに外遊し、イリー諸国及びマグ・イーレの後進性に気づいて危機感をいだきました。そこでかの地へ年少の同邦人を送りこみ、ティルムン当地流の教育を身につけさせてはどうか、と考えついたのです。父の案を、わたくしの兄は継承しました。兄は……」
ぴしッと背筋をのばして座っているレイミア・ニ・ディルトではあるが、そこでさらに胸を張ったようにアイーズには見えた。
「わたくしの兄は機会を得て、公務執行のためティルムンに長期滞在していました。仕事のかたわら、現地の知己をつのってこの留学計画の準備をしたのです……」
レイミアは、軽く頭を振った。
「現在のわが国には、そのような定期的留学を行えるほどの財力がありません。しかし公の制度が整うのを待っていては手遅れになってしまいます。そこで兄ダウルはディルト家の完全私費と言う形で、留学生を送り込むことにしました。ヒヴァラはその計画のために、わたくしが生んだ子です」
アイーズは、かぱっと口を四角く開けた。
「あの子は、年齢の割によくティルムン語ができたでしょう?」
一瞬なにを聞かれているのかわからなくなったが、少年時のヒヴァラについてレイミアが問うているのだと理解し、アイーズはうなづいた。
「はい」
「あの子の父親のファートリ侯は、たいへんな適役でした。幼いヒヴァラにティルムン語の基礎を伝授して下すったようで、わたくしとしても感謝しておりますの」
ヒヴァラと言う子をはさんで、ファートリ侯とは父母であり、……そして夫婦であったレイミアの言葉は、アイーズにとってティルムン語よりはるかに難解に思われた。
いいや、言っている意味はもちろんわかる。しかしそれを口にするレイミアの考え方が、さっぱりわからなかった。
何をどうしたら、夫だった人のことをそんな風に……。適役だなんて、乾いた表現で言えるのだろう?? 計画のためにヒヴァラを生んだ……。それではファートリ侯のもとへ嫁いだのも、やはり計画だったと言うことなのか。
「あの。ファダン巡回騎士の方々が、ヒヴァラ君のお父さまのファートリ侯も、今現在ファダン領内にいないようだと言っていたのですが?」
お腹の中が不快になってくる。くらくらしそうな頭をきっと上げて、アイーズは小卓のむこうのレイミアに言った。ヒヴァラの母はやはり乾いた調子で、しかし小首をかしげる。
「そうですか? わたくしはヒヴァラを送り出して役目を終えましたので、こちら実家へ戻ってきたのです。離縁のあとのこと、ファダンの色々については存じません。……ああ、けれど。ファートリ侯は一度、こちらへいらしたんですわ。ずいぶん前のことになりますけれど」
レイミアがマグ・イーレのディルト家に戻ってしばらく経ったある時、ヒヴァラの父ファートリ老侯がここを訪れたのだと言う。息子に会うまでは帰らないと粘り、帰宅したディルト侯と二人で長く話し合った後に、顔を真っ青にして出て行ったらしい。
「……とうさんが」
思わず口からもれたのだろう。低い低いヒヴァラの囁き声が、アイーズの耳元で聞こえた。




