始まらなかった物語、再会▷再開
「♪ルルッピ ルルッピ ルルッピ♪」
「♪ドゥ~~♪」
はなにかかったようなかわいらしい声に、ひょうきんな調子の合いの手がはさまった。
「ぷっ!」
「ふふふふー」
ふかふか横向きにまるい小さな女の子と、ひょろひょろ細長い男の子は、一緒に歌っていたはずが同時に笑いに転げおちる。
自分たちの間だけで通じる、お決まりのねた。それが今日もお互いのつぼにはまって、二人は楽しかった。
学校からの帰り道、ふたりは川の土手を歩いている。
着ている外套はおそろいの空色、胸元に小さな渦巻きのような流水紋が刺繍されていた。
女の子と男の子は、ここファダンの準騎士なのだ。ともに騎士修練校の生徒、という意味である。
「抜き打ち試験の答案、親に見せるのやだなー」
ふがー。
鼻にしわを寄せていう女の子に、男の子が小首をかしげて問いかける。
「アイーズは、十点満点中の八点だったじゃん。それでも怒られんの?」
短く切った、くるくる金の巻き毛が囲むほそみ顔。
男の子は丸い瞳をきょとんとさせて、横を歩く女の子を見下ろした。
「うん。間違ったところ、とことん復習させられるの。勉強でもなんでも、五割六割できてれば十分だと思うんだけどなぁ……。ヒヴァラは、そう思わない?」
アイーズと呼ばれた女の子は、高いところにある男の子の顔を見上げて言った。
ゆるやかに波打つ明るい鳶色の巻き髪が、ふあんふあんと春風に揺れる。
「思うよー」
同調するように言ったけど、ヒヴァラはアイーズの豊かな髪を見ていた。
春の夕陽に照らされて、ぴかぴか真新しい銅貨みたいに光る髪。その下まるい顔の中で、やっぱりきらきら輝いている瞳。
きらきら、ふあんふあん……。
そこに、ちらっと白いものが混じる。土手ぎわにある古い林檎の樹から、白い花びらが春風に流れてアイーズの髪に着地したのだった。
「……でもね。俺、そもそもが親とかにどうこう言われないから。うるさく言われるアイーズのほうが、ちょっとうらやましいかなあ」
「そうなの? それじゃあ、わたしがうるさくしてあげようかー!」
「げぇ、やだあ」
歯を出して、にこーッと笑ったアイーズの頬っぺたが赤いりんごの実みたいである。鼻にしわを寄せて、でもヒヴァラの頬もゆるっと笑った。
さー。
再び向かい風がゆるやかに吹いて、アイーズの髪にもう三枚ほど花びらがくっついた。
本当はそれを取ってあげたいのに、ヒヴァラは手をのばせない。
かわりに、今日こそは言おうと決めてきたことを打ち明けだす。
「……あのさ。実は俺、アイーズに話があるんだ」
「むッ、何かしらね? ヒヴァラが気に入ってたうちの貯蔵りんごは、さすがにもう在庫切れよ! 食べつくしちゃったわッ」
「いや、じゃなくってね」
もじもじ言いよどむひょろのっぽの同級生に、ひょうきんな顔を向けてはいる。けれどアイーズは、内心でわくわくしていた。
――よーし、ようやくわたしに告白する気なのねッ! ついにヒヴァラが、わたしの彼氏になってくれるのかな?? 大丈夫よヒヴァラ、どんと来なさーい! だってわたしも、君がだーい好きなんだからね。
「相談したいことがあるんだ。……ちょっと、やばい話」
しかしヒヴァラは眉根をよせて、子やぎみたいなかわいい顔をくもらせた。
アイーズの期待がしぼむ。あれれれれ……?
「え、何それ? どうしたの、ヒヴァラ……何か大変なの?」
少し慌てたアイーズは、ヒヴァラと一緒に立ち止まった。
土手の道がふたつに分かれている。橋を渡るか、そのまま歩き続けるか。二人の家は離れていた。
「アイーズ、助けて」
低く絞り出すような声で言われて、アイーズはどきりとした。
こんな表情のヒヴァラを見るのは初めてだった……静かで目立たない優等生、学科はお任せで将来は文官になりたいらしい、男の子。
お弁当のりんごを分けてあげたら、びっくりするくらい面白がって喜んだその子が、自分に助けを求めている!
「他の人じゃ、だめなんだ……。俺の話きいて、助けてくれるかい?」
泣き出す寸前のようなヒヴァラの瞳は、あんまり哀しすぎにみえた。アイーズの胸のうちが、かッと熱くなる。
――何よ……、誰かにどこかで、いじめられてるのッ!? つらいことがあるの?
「わかった、ヒヴァラ。話きくわよ!」
ぽっちゃり厚みのある身体をふーんと張って、アイーズは言った。
「わたしだって、君を助けたいッ」
双眸にのせた哀しみはそのままに、ヒヴァラはほろッと笑う。
「ありがと、アイーズ……。そいじゃね、明日の帰りに、土手のはじまりにある……あのでっかいりんごの木の下で待っててくれる? すごい長い話になりそうだから」
「わかった。わたしは女子家政学で、君が海洋学のあとだから……そうだね、また一緒に帰ろう」
「……約束、してくれる?」
やっぱり今日のヒヴァラは変だ、とアイーズは思う。こんなに不安いっぱいの様子、とりすがるような目で自分を見下ろしてくるなんて。
――こりゃ、真剣深刻な話なんだわ!
「約束する。わたし全力で、君を救うッ」
ふかふか髪の真ん中の、まる顔をきりりっと引き締めて、アイーズはずどーんとヒヴァラに言った。みじかい足先をどっしり地につけ踏ん張って、見るからにゆるぎなき低重心のその構え!
目の前のアイーズがあんまり頼もしく見えたから、ヒヴァラはほろほろッと笑った。色じろ頬ぺたを少し赤くして、寂しさの中にうれしさ安堵をまぜた笑顔で、やさしくアイーズを見下ろす。
「約束だよ……。じゃまた、明日の朝に授業でね!」
それで二人は、その日は別れた。
土手の分かれ道、橋を渡る左とそのまま右とを、それぞれ足早に歩いて家に帰った。
……その日の帰りが遅くなって、家族にがみがみ怒られたとしても。土手に立ち止まってヒヴァラの話を聞けばよかったと、アイーズはずっと後悔している。
翌日ヒヴァラは、騎士修練校に来なかった。
男子と女子の共通授業にいなくて、とうとう一日が終わってしまう。
学校には来なくても、待ち合わせには来るかもしれない。そう思って、土手のはじまるところにある大きな林檎の木の下でアイーズは待った。
宵闇に星々がまたたく頃までアイーズは粘ったけれど、やっぱりヒヴァラは来なかった。
独りぼっち。ふかふか鳶色髪に白い花びらをいっぱいくっつけて、アイーズはどうしてと思う。
最後に見た、泣き笑いのようなあのやさしい顔だけが、いつまでもいつまでもアイーズの心の中に浮いていた。
ヒヴァラがどこへ行ってしまったのか、アイーズは教師たちにたずねてみた。けれど、おうちの都合で学校をやめたそうですよ、としか教えてもらえない。
こうしてアイーズ・ニ・バンダインの日々から、ヒヴァラ・ナ・ディルトは忽然といなくなってしまった。
前に進むはず、始まるはずだった小さなすてきな物語は、凍りついたように止まってしまって色あせた。
果たせなかった約束だけが、アイーズの胸の中でながく疼く。
やがて約束はアイーズの心の奥底に沈み込んで、少年への想いと一緒に眠ってしまう。
時が流れた――。
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・
「♪ルルッピ ルルッピ ルルッピ♪」
はなにかかった低めの声が、青空の下のやわらかい陽気の中にとけてゆく。
「♪ドゥ~~♪」
さらに低くおどけた合いの手。
自前のねた歌に自分で突っ込みを入れて、アイーズは上機嫌だった。
夏に向かう晴天はどこまでも水色に透明。仕事を終えた達成感と開放感が、その青さの中に突き抜けて行きそうだ。
田舎道には他に誰の姿も見えないから、アイーズは気兼ねなく鼻歌まじりに歩いている。のっしのっしのっし。
……相変わらずふかふかした姿には、いまや貫禄が加わっていた。
灰青色のふくろ外套に、たっぷりした黒いふくろ股引。その先ちょこんとくっついた足先は、今でもやたらめったら小づくりで華奢だ。右手には桜材の杖を握って、それでさくさく地をついて歩いている。
――これでしばらくは、ゆっくり休めるわねっ。お鍋を煮込んで、本をいっぱい読みましょう!
白いまるぽちゃ顔に、きらきら笑みがこぼれている。毛織の丸帽の下、あふれ出た鳶色巻き髪までが風に揺れて楽しそうだった……ふあんふあん。
ここまでかかりっきりだった大仕事を、アイーズはようやくまとめて送り出した帰りなのである。
一番近い小集落の店でもお便り配達は頼めるけれど、アイーズは大切な原稿を速達で送りたかった。
準街道をちょっと行った先にある町まで足をのばし、無事に書束の包みを送り出して、今のびのびと帰り道をたどっている。
騎士修練校を卒業して七年。
アイーズは翻訳士として、ようやく波に乗ってきたところだった……いや、まあ、さざ波くらいのものだけど。
他者に評価されるのはやっぱり良い。自分があらたに正イリー語で紡いだ文献が、誰かの役に立っていると思うと嬉しかった。
そして自分ひとり、誰にも頼らず生きていくためのたつきをつみ重ねている、と実感できるのはこういう時だ。
――ひとり、で?
自分で自分の考えに突っかかって、アイーズは歩き進みながらひょいと空を見上げた。
≪あなたのような明るく利発な女性となら。温かい家庭を築いてゆけると思います≫
そう言ったあの人のことは、普段からあんまり思い出すことがない。
前に会ったのは先週だったか、仕事がひと段落ついたのだから会いに行くべきなのだろうが……。めんどう、あまり考えたくなかった。ふあんふあん、アイーズは頭を振る。
――だめよね。あの人があってこそ、わたしはこれからも安心して翻訳士でいられるんだから……。
ちがうよね。ちがうでしょ。ちがうったら、ちがうってば。
アイーズの豊かな胸の奥底で、何かがわめきさざめいている。それにふたをするように、アイーズは嘆息をかぶせた。
「♪ルルッピ……」
このねたには、合いの手を入れてくれるやさしい存在がいたっけ、とアイーズはぼんやり思う。
ひょろんとかわいかったあの子は、……今ごろ元気でいるのかな。
――もうじき、夏が来るんだわ……。
初夏を先取りしたような陽気の日だ。胸もと谷間の奥に微妙なむれを感じて、アイーズは口をゆがめる。
薄着になるのは好きではない。ちょっと油断した隙に、知らない誰かの意地わる冗談ねたにされてしまう。ゆっさりかさばる豊かな胸を、かくしておくのは大変なのだ。
見上げる空は、縹色。あかるく青い、本当のはなだ色。
けれどその下で、自由なはずのアイーズはいまだに迷っている。
――本当にこのままでいいのかな、……わたしの前に広がる道。その中で一番安全なひとすじを選んでも?
迷うからには別の道を進みたいのだ、たぶん。
そうしてそこを進むのに、一緒に歩きたいのは……きれいなあの人ではない誰か。けれどそれが誰なのかも、今のアイーズにはさっぱりわかっていない。
「♪ルルッピ~~」
鼻と口からふしゅーと息を吐きつつ、またしてもアイーズは自前のねたを口ずさんだ。
気分を上げたいときに、彼女はいつもこれを口ずさむ。口ずさんで、一人で合いの手を入れている……。もはや幸運のおまじないみたいなものだった。
ざ、ざ、ざ……。
なだらかな起伏の向こう、前方から足音だけがやって来た。
アイーズが道の先を見やると、背の高い人がこちら向きに歩いてくる。
背丈に対して身幅のやたら細いその男性は、こんな良い陽気の下で頭巾を深くかぶっていた。泥みたいな色の外套は、遠目にも傷んで見える。
アイーズは慌てて目をそらした。
――武器を何も持っていないから、流しの傭兵でもなし……。ちょっと珍しいくらいのぼろぼろっぷりだわ? 怖ー、はやく行き過ぎよう。
かかわるべきでない風来者。男性をそんな風に見てとって、アイーズは下を向いた。歩く速度をぐんぐんはやめる。
――大丈夫。向こうは手ぶらだけど、わたしは杖を持っている。いちゃもん因縁をつけてくるようなら、一発むこうずねにお見舞いして、その隙に全力疾走……。
「アイーズ……?」
悶々と心の中で身構えていたアイーズは、声をかけられて思わずひょいと顔を上げてしまった。え、空耳?
「アイーズ、だよね?」
道の反対側のはじ、行き過ぎかけていたその男が、立ち尽くしてアイーズを見ていた。
外套頭巾の下、驚いたようなまなざしがすれすれに見える。
しかしこんなもしゃついた顔の男を、アイーズは知らない。ずいぶん濃いめの金色のひげが、男の顔の下半分を覆っていた。
「……アイーズ。アイーズ・ニ・バンダイン」
男は、こちらに一歩踏み出してきた。
アイーズはぎくりとしたが、同時に退いちゃいけない、とも思う。わたしは知ってたはず、この人を――……。
片手を頭巾にかけて、男はちょっとだけ目元をあらわにした。その瞬間。
ぱ・ぱーん!!!
何かが弾けた音がして、アイーズの全身がぶるっと震えた。ひらめくように思い出す!
「……ヒヴァラー!?」
アイーズが叫ぶと同時に、男は横倒しにざっと倒れこんだ。その脚に、小さな矢が二本突き立って揺れている。
「当たった!!」
誰かが道の向こうで叫んでいる。
「ちょ……ちょっと、一体なんなのッ」
アイーズは思わず、倒れた男に向かって駆け寄った。助け起こすつもりで手を差し伸べたが、男はその手を取らず、激しく頭を振る。
「に、にげろ……にげてっ、アイーズ!」
丸い小さな双眸が、記憶のままのあの哀しげなまなざしが、アイーズを見る。
――ヒヴァラ! まちがいない、わたしのヒヴァラだわッ!
アイーズは確信した。しびれるような衝動が全身を駆け抜ける。
そして口では逃げろと言っても、男が本当に言いたいことがアイーズに伝わってきた。
≪アイーズ、助けて≫
ひうん、しゃーッ……再び矢の迫る音がする。
きいーんッッ!!
ぐるぐるぐるっと瞬時回転させたさくら杖の盾で、アイーズはそのしゃらくさい一撃をはじいた。
護身・イリー棒道、その基本中の基本受け!!
右手中心に回転させる杖の後ろ。アイーズがさっと振り向いた時、地べたに倒れ転がる男の顔が、あの日の少年の顔とはっきり重なった。
≪アイーズ、助けて≫
もう、アイーズは迷わなかった。
すぱッと男の腕を引っぱり上げて、その脇下に自分の小さな肩をもぐらせる。
ずるるっ、アイーズは男を引きずって、道を外れ路傍の木立の裏手にまわる。それは大きな樫の古樹だった。
――飛び道具を持ったやつらに狙われているなら、何がなんでも遮蔽物が要るわ。けど……ここはちょっと、木々の間隔が開きすぎね!
もっと密度の高いところへ行かなくては、と森の中へすばやく視線をめぐらせる。しかし走る足音が、ざかざか近づいてきてしまった。追手だ!
「何だ? やつは一人じゃなかったのか?」
「盾にするつもりで、通行人を人質にしたのかもしれん!」
声も近づいてくる。大きな樹の後ろ、ヒヴァラは荒い呼吸を何とか静めようとしているらしい。
支えるアイーズの頭のすぐ脇で、ヒヴァラの胸がぶるぶる震えている。
「……大丈夫よ、ヒヴァラ。どうにかして、君を助けるからね」
アイーズはささやいた。
……と言うよりもアイーズの胸にあふれた思い出が、いつのまにかそう囁かせていた。
動転必至のなりゆきだ、とアイーズは思う。とんでもないことに巻き込まれかけているのだから当たり前、……それなのに胸の奥はどこか澄んで、冷静だった。
――今度こそ、ヒヴァラを助ける。ヒヴァラを救うために、わたしが今するべきことは……!!
ぎゅうっ……。
「いざ、来たれ……」
アイーズが支えるヒヴァラの身体、その右腕が、一瞬だけ彼女の肩を強く抱いた。
「――いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え」
はっとして、アイーズはすぐ上にある男の顔を見上げる。
哀しげな瞳でアイーズを見下ろしながら、ヒヴァラは早口で不思議な言葉を紡いでいた。
「集い来たりて 我が敵を、薄闇の眷族を撃て――」
ぼ、ぼッ……。
アイーズとヒヴァラ、二人の周りに明るい火の玉がふたつ浮く。アイーズは自分の目を疑った。
――えっ……えええええ? 炎っ!?
ぼぼぼぼぼ……!
手のひら大の火の玉は、アイーズがまたたきをする間に無数に殖える。と、それぞれがぐるっと宙で回転した。
「――くだれ 火柱!」
ぶ・わぁ――ッッ!
熱風のようなものが、一瞬アイーズたちの周りをめぐってから吹き過ぎていく。
「ぎゃああああッ」
「うげぁああああー……」
かと思うと、おそろしい叫び声が背後であがる!
さっと木陰から顔を出して、アイーズはびくりとした。
巨大な火の玉に包まれた人間の姿が二つ、伸び上がるようにしてその炎に溶けていった。
ごく一瞬のこと、ほとんど影のような体の輪郭がうっすら見えただけ……。けれど、アイーズにはわかった。
ヒヴァラを追って矢を射かけてきたあの二人、彼らは滅びた……死んでしまったのだ!
から、からんッ。
男たちの手中から投げ出され、燃焼をまぬがれた小弓ふたつが地面に落ちる。乾いた音が妙に大きくひびいた。
同時に火柱はふいと空気に立ち消える……。アイーズの眼前には、木立と道だけが広がっていた。
今あなたが見たのはただの幻ですよ。のどかな風景がそんなことを囁いているように、アイーズには思えた。
「アイーズ」
低く呼ばれて、アイーズは我に返る。
ずずず……と樫の木の幹に背中をすべらせて、ヒヴァラはへたり込んでいた。へたり込みながらも手をのばして――。
ずぶりッ! ずぶぅッッ!!
右腿裏に刺さっていた矢を、次いで左ふくらはぎに受けた方を、ヒヴァラは自分で引っこ抜いてしまった。
「ちょ、ちょっと何してるのヒヴァラ! 血がッ」
「ごめんよアイーズ。……本当に、ごめん」
ずれた頭巾のふちから、赫いものがはみ出している。頭にも傷を負ったのか、とアイーズはどきりとしたが、それは血ではなくてヒヴァラの髪だった。アイーズの記憶の中のヒヴァラにない、燃える炎のような色の赫髪。
その前髪の下、ヒヴァラは涙をにじませている。苦しげに哀しげに、耐えきれないものをぎりぎりに我慢しているくしゃくしゃの顔。
「呪われちゃってるんだ……俺」
ゆがめた唇が、小さくつぶやく。その顔を見て、アイーズは自分の身体の震えをぎーんと抑えつけた。
「ファダン騎士訓、その第十三ッ」
はなにかかった低い声で、アイーズは小さくうなる。
「何はともあれ、応急処置ッ。止血!」
かくしを探って、しゅぱっと手巾を取り出した。小弓の刺さっていたふくらはぎ部分、その上にぎりっと手巾をまわす。
アイーズはヒヴァラの泣きべそ顔に、むりやりの笑顔を向けた。ありったけの貫禄をこめてうなづく、鳶色巻き髪がふあんと揺れる。
「安心するのよ、ヒヴァラ。わたし今度こそ、君を助けるからね!」
「アイーズ」
「約束したものね! 君と」
長いあいだ凍っていた物語が、めざめて今、動きだす。