書斎
門をくぐった瞬間、視界に飛び込んできたのは、無数に広がる白色のポピーだった。
雨がしとしとと降り続く曇天のもと、白い花びらは薄暗さの中でかえって輝きを放ち、不気味なまでに幻想的な景色を形作っていた。まるで、花の一つ一つが秘密を隠しているかのようだった。
「……ここが、兄さんが見つかった花畑です」
ロゼの言葉に、マーズは息を呑んだ。その異様な美しさの中に、死が埋もれていたという事実が信じられなかった。
と、そのとき、ヨボヨボとした足取りの老紳士が一人、屋敷の玄関から姿を現した。痩せぎすで、顔には深い皺が刻まれ、白い髪は綺麗に撫で付けられていた。
「ロゼ様……」
声は掠れながらも丁寧だった。年の頃は六十を少し超えたくらいだろうか。
「ただいま、屋敷には誰もおりませんので、ご安心ください。ただ……あと二時間もすれば、お戻りになるかと存じます」
マリーは、白いポピー畑をじっと見つめた。できることなら今すぐにでも現場を調べたかったが、雨のせいで土は深くぬかるみ、踏み込めば痕跡を壊してしまいかねない。
「……残念だが、天候には抗えませんね」
マリーは静かに呟いた。その声音には、わずかな苛立ちと諦念が混じっていた。もっと早く依頼があれば……あるいは何かが残っていたかもしれない。犯人が証拠を隠滅するには、既に十分な時間があった。
「では、中へどうぞ」
ロゼに導かれ、マリーとマーズは屋敷の中へと足を踏み入れる。重々しい扉が閉まる音が、背後で鈍く響いた。
通された応接間は、どこか昔の劇場を思わせるような装飾が施されていた。赤いビロードの椅子、金の縁取りのランプ、そして古めかしい時計の音が、静かに時間を刻んでいた。
「彼は執事のレオナルドです」
ロゼがマリーとマーズに向けて紹介する。
「祖父の代からこの家に仕えていて、私が最も信頼している人の一人です。今も、こうして私を支えてくれているんです」
レオナルドは一礼し、柔らかく笑んだ。
「光栄です。ご主人のために、お力添えできれば幸いです」
「本来なら、父やクラリモンド叔母が応対すべきですが……彼らは調査に非協力的で、私がこうして皆さんを呼んだことも反対していました」
ロゼは椅子に座りながら、静かに続けた。
「そこで……父には、“学生時代の友達が悩み相談に来ている”と説明し、レオナルドに協力してもらって外出させているんです」
「なるほど、うまく立ち回られましたね」
マリーが短く応じた。
書斎の扉が重々しく開くと、ほんのりと墨と革のにおいが漂ってきた。
「ここが兄の……書斎です」とロゼが言いながら、扉を押し開ける。
部屋は屋敷の東の端に位置しており、曇り空の下に広がる白いポピー畑が、窓から一望できるようになっていた。ガラス越しの雨に濡れた花々は、光を含んだように白くぼんやりと浮かんで見える。
部屋の中は、思ったよりも簡素だった。豪奢な装飾はなく、木製の重厚な机が中央に据えられ、両脇には床から天井までの本棚が並ぶ。壁には小さな肖像画が一枚。無口な兄の性格をそのまま映したような空間だった。
マーズが真っ先に本棚へ歩み寄る。
「ふーん……なんだか、古い本ばっかりだね。あ、これ、哲学書だ……“実存と倫理の断章”? なにこれ、難しそう……」
マーズは、好奇心で本の背表紙を指でなぞる。マリーは部屋の中を無言で歩き回り、窓辺に立ってポピー畑を見下ろしていた。
「この棚、全部難しい本だね。こっちは……“時計技術史”? へえ、こんなの読むんだ……」
マーズが口にしたその一言に、マリーの視線が静かに向けられる。彼は窓から離れて、本棚の前に立ち、無言のまま本の並びをじっと見つめる。背表紙には、科学、機械、歴史、そして時計に関する文献が多く並んでいた。
「兄は、時計に興味がありましたの。昔、父が使っていた懐中時計を修理してくれたこともあります」とロゼが口を開いた。
「時計の修理を? 自分で?」マーズが振り向く。
「ええ。趣味みたいなものだったと思います。ですが、仕事ではなく……兄は家の外にはあまり出たがりませんでしたから。屋敷で静かに本を読んで、花畑を眺めて、それが日常でした」