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第5話 シャーリー②

妹が意識を取り戻したときには、そこに兄はいなかった。

妹は病院の一室にいた。痩せ細った身体からは沢山の管が伸びている。


それは奇跡のような話だった。


母の死を偶然耳にした父の友人が家を訪れ、ベッドに伏せっている妹を発見し、家から連れ出して治療を受けさせたのだ。父の友人は盗掘者としてベテランの域にあり、知り合いやバベルの果実を用いて妹を恐るべき病から救った。


治療の甲斐あって、次第に妹は自分の足で歩けるようになった。


父の友人はそのことを大いに喜び、妹が退院するとき、まるで懇願するように自分の屋敷に来てくれないかと誘った。病魔から救ってくれた父の友人に妹は好意を持っていたし、この世界に一人で生きることは妹の年齢では余りに寂しく、辛いことだった。こんな自分で良ければと、妹は答え養子縁組が結ばれた。


身体が回復すると妹は学校に行けるようになり、同い年の友人も出来て、日々の充実から元の家族のことを思い出す日が減った。そんなある日のこと、一人の盗掘者が義父の屋敷を訪ねてきた。


応接間に通された盗掘者は妹に向かって深く頭を下げた。野卑にも見える風貌の盗掘者は「あなたの兄に命を救われた」といって丁寧に感謝の言葉を述べた。


「探すのにずいぶん手間取ってしまった」


そういって顔を歪める姿は大きな後悔が見てとれた。


妹は話を聞いて、溢れる涙を抑えることができなかった。

兄が生きていた! 愚かな妹の願いを間に受けた兄は今もバベルを登っているのだ!


零れ落ちる涙は絨毯に幾つものシミを作った。途中から意味が無いことを悟り、袖で拭うのをやめた。


「あ、あに……兄、とは、どこで……!?」


バベルの15階層。いまはもうわからない。盗掘者は申し訳なさそうに目を伏せた。


その日、妹の人生は決まった。


病によって生きてきた時間のほとんどを奪われた少女は、己のたった一人の優しい兄を神から奪い返すことを決めた。



それからしばらくの時が流れる。



「シャーリー、いま考えを翻したって誰もおまえを責めないよ」


国木であるアイセムの葉が匂い立つほどにその緑を増す季節。大きな屋敷の一室で二人の男女がいた。


そのうちの一人、立派な顎鬚をたくわえた壮年の男は荷造りをしている少女へ声をかける。


しかし、大きくなったな。


壮年の男ロイドは義理の娘であるシャーリーの後ろ姿にそんな年寄りじみたことを考えてしまう。はじめてあった時は枯れ木みたいな手足をしていたのに。ロイドは視界が滲むのを感じ咄嗟に顔を逸らした。ここ最近、すっかり涙腺が緩くなってしまっている。


「ごめんねお義父さん。でも行かなくちゃ!」


涙をこらえる義父と真反対に快活な笑顔を浮かべるシャーリー。かつては病魔により子どもでも折ってしまえそうだった手足は年相応の肉をつけ、若者らしい張りをもっている。話ながらも手は忙しなく動き、顔だけ義父に向けながらトランクに物を詰め続けている。


「バベルを登るっていうのは言葉通り、神様のもとへ近づくってことだ。この意味がわからないおまえじゃあるまい」


ロイドはかつては盗掘者の一人だった。20階層までなら徒党を組んで盗掘したことがある最前線組の一人だ。言葉には説得力がある。彼は盗掘で一財産を築いた。今の彼ならばシャーリーを「盗掘者逃れ」させることは十分に可能だった。


「俺は衰えるまえに足を洗った。足を踏み入れるほどに命を削る場所だ、あそこは。おまえの兄さんは間違いなく『選ばれた側』だ。5年も登り続けるなんて正気の沙汰じゃない」


きつい言葉を言っている自覚はある。しかし、少しでも不安や心残りがあるならば止めてほしい。ロイドの紛うことなき本心だった。無意識にいつの間にか腕はシャーリーの肩を掴んでいる。


「俺は娘を二度も無くしたくない」


かつてロイドは妻と娘を同時に亡くした。死産に伴う負担に母体が耐えきれなかったのだ。地下社会の医療はかつての頃と遜色無いぐらいまで進歩しており、にも関わらず起こったこの出来事は医者をして不運であるとしか言いようがなかった。


失意のロイドが死んだ友人の妻を訪ねたのは、何かの奇跡に違いなかった。


震えるロイドの声に振り向いたシャーリーは眉をハの字に寄せていた。これは悪さがバレた時のシャーリーの癖だった。


「ごめんね。私はお義父さんに抱えきれないほどの恩がある。でもね……本当にごめん! 私、お兄ちゃんとの約束を果たしたい」


ロイドだってシャーリーから聞いた兄の話に心が動かないわけがない。その身を犠牲にして家族を支え、病身のたった一人の妹のために命を投げ打ったのだ。その行為には敬意しかない。夜中にグラスを傾けながらその兄へと想いを馳せることも多々あった。


いつの間にかシャーリーは荷造りの手を止め、ロイドの正面に立っていた。


「お義父さん、愛してる!」


負けた、とロイドは思った。血の繋がりに、なんてものじゃない。妹を想い続けた兄の心に負けたのだ。そしてその想いを受けて育った妹の溢れんばかりの愛情に負けた。ロイドは再び滲み出した視界を誤魔化すために顔を背けて言葉を紡ぐ。


「いいか、危なくなったら戻ってこい。バベルは逃げやしないんだ。おまえの兄さんだってそこにいる」


奇しくもシャーリーの兄がバベルに入る際、唯一優しさを示した男と同じ言葉だった。バベルに登る者に残された者がかける言葉はこれしかないのかもしれない。


「お義父さん、ありがとう!」


シャーリーの顔に再び花が咲いた。顔を背ける義父が涙を我慢していることをシャーリーは知っている。その胸の内も。


ただ死期を待つだけだったあの日からこの義父は惜しみない愛情を自分に注いでくれた。ああ、なんて自分は幸せ者なんだろう! 家族を亡くしたと思っていた私に、こんなにもまだ愛してくれている人がいる。シャーリーは義父の横顔を目に焼き付けた。


トランクを背負う。必要なものはつめた。ポケットには盗掘者の証であるブローチが入っている。


「じゃあ……行ってきます!」


かつて病魔に犯された少女はもういなかった。一人の盗掘家がいるだけだ。目はランタンのように光り、ブロンドの髪の一本一本に血液が流れているようだった。


開け放たれていた扉が閉まる。そして小気味良い足音が遠ざかっている。部屋に残ったのは旅立ちを見送った父親だけ。ロイドは天を仰ぐ。


「ああ、シャーリー。愛する我が娘、シャーリー。バベルの神よ、俺の後の人生なんて野垂れ死ぬだけで構わない。だけど……、だけど、どうか……! どうか俺の娘に幸運を授けてくれ……! どうか……!」


現役時代、恨み節だけを聞かせ続けた神にロイドは初めて祈り捧げた。


バベルは生活に溶け込み今もまだそこに立っている。その入り口は人々の欲望を飲み込み、大いなる恵をもたらす果実を作り出す。中は異様な空間になっており、恐ろしい悪魔共が跋扈している。多くの者が果実を求め奔走する中、一心不乱に頂上を求める者がまた生まれた。


このことが地下社会に幸運をもたらすか、それとも大いなる災いをもたらすのか。


それはまだ誰にもわからない。



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