【コミカライズ】白蛇さまの花嫁は、奪われていた名前を取り戻し幸せな道を歩む~餌付けされて売り飛ばされると思っていたら、待っていたのは蕩けるような溺愛でした~
口の中に、甘く不思議な味わいが広がった。
(……ああ、喉の渇きが薄れていく。これは、一体なに?)
目を開ければ、洋装の美青年がこちらをのぞき込んでいた。こぼれ落ちる銀の髪が麗しい。ゆっくりと瞬きをして、音は小さく息をはいた。
「まあ、極楽というのはなんとも洋風なところなのね。どうしましょう、こちらの殿方に言葉は通じるのかしら」
記憶にあるのは、神社までの道すがら睡蓮を見ていたところまで。それが目を覚ましてみれば、信じられないほどモダンな部屋の中にいる。手触りのある夢を見られるほど、音は舶来品に詳しくない。ならば、ここはあの世としか思えなかった。
「お嬢さん、ここは彼岸ではありませんよ」
「……それでは、拐かしでしょうか。申し上げにくいのですが、拐う人間をお間違いですよ。私は確かに立花家の長女音ではありますが、跡取りになるのは妹の有雨子のほうです。両親が私のために身代金を払うことはありません」
「音?」
彼は自分の存在さえ知らなかったのかもしれない。首を傾げる青年を見て、音は胸が痛んだ。
「どうぞこの件はなかったことにして、私を帰してくださいませ。決して誰にも漏らしはしません。それがお互いのためでございます」
淡々と頭を下げながら詫びれば、青年が怪訝そうな顔をした。
(困ったわ。私たち家族のことを話しても信じていただけるかどうか)
青年が頬をかいた。
「僕は人拐いではありません。熱射病にかかって我が家の前で倒れていたあなたを発見し、家の中にお連れしたのです」
「まあ、それはご親切にどうもありがとうございます。大変な失礼をしてしまいまして……」
「いいえ、かよわい女性が見知らぬ男と一緒なのですから、心配されるのも当然です。どうぞ、お気になさらず」
穏やかな声音に、音はほっとする。
「ありがとうございます。すみません、今は何時頃でしょうか……」
部屋の中には、時計が見当たらない。帰りの時間が遅くなれば、また母に叱られるだろう。心配する音に、青年は顔を曇らせた。
「先ほどまで倒れていたのです。もう少し休んで行ったほうがよいでしょう」
「ですが、言いつけられた用事も終わっておりませんし……」
「ああ、あなたが運んでいた荷物のことですね。それは、後から一緒に運ぶということでどうでしょう。まだ時間もそれほど経ってはいませんし」
「……私、用事の内容をお伝えしていたでしょうか」
「いいえ。とはいえ、この先にあるのは、神社だけですからね。用事の内容は予想がつきます」
目を丸くしていると男がちりんとベルを鳴らした。可愛らしいお仕着せを着た女性が、何やらお茶の準備を始めている。
「まずは腹ごしらえといきましょう」
***
テーブルに出されたのは、切り口が美しいバウムクーヘン。その隣には、深い琥珀色の珈琲が並べられている。
「まあ、バウムクーヘン! 実は私が神社まで運んでいたものも、ちょうどバウムクーヘンなのです。お祀りされている神さまが、甘味がお好きとのことで……」
(お会いしたことのない神さまが、本当に甘味がお好きかなんてわからないのだけれど。それでも大切な立花家の務め)
大和の国では、神はとても身近な存在だ。帝都はもとより、それぞれの土地は守り神によって治められている。
その上赤子たちは、神より授けられた名を携えて生まれてくる。祝福を込められた名とともに、神の近くで生きていくのだ。
異国の方にこんなことを話しても伝わらないかもしれない。そう考えた音だったが、青年は黙って目を細めただけだった。
「素敵な偶然ですね。それでは一足先に、頂いてしまいましょうか」
「ですが、お届けするより先に同じものを食べるなんて失礼なことを……」
困惑する音に、青年が吹き出す。
「そんなことで、いちいち腹をたてるような狭量な神さまではないと思いますよ。新しもの好きで異国の甘味を好むくらいです。むしろ、境内の中でまた倒れてしまわないか心配しているのではないでしょうか。あなたはまったく細すぎます」
「ま、まあ!」
倒れていたところを運んでくれたのは目の前の美青年だったことを知り、音は顔を赤くした。
「さあ、冷めないうちにめしあがれ」
「牛乳やお砂糖も入れるのですね」
「珈琲が苦手でなければ、そのままでも構いませんよ」
「……ええと、そうですね」
(お父さまもお母さまも、私とは外出なんてしてくださらない。妾の子に劣る娘を連れ歩くのは恥ずかしいと。だから、そんなハイカラなものを飲んだことないわ)
「もしかして、珈琲は初めてですか。嬉しいな、僕は音さんの初めてを独占できるわけですね」
薫重と名乗った青年は、涼やかな笑みを浮かべると音の手をとった。本気でそう思っているらしい青年の姿に、音は別の意味で恥ずかしさを覚える。
「せっかく縁ができたのです。どうぞ、これからも遠慮なくここにお越しくださいね。これから一緒に、音さんのたくさんの『初めて』を積み重ねさせてください」
その言葉はまるで求婚にも似ていて、再び音は目を回してしまいそうになった。
***
「ただいま戻りました」
神社にバウムクーヘンを奉納しようやく家に戻ってくれば、両親と妹は家族団欒の最中だった。それを邪魔しないように、けれど無視した形にもならないように、細心の注意を払って離れの自室に戻る。誰もいない部屋の中に滑り込み、音はようやく安心した。
音の家族は、少し複雑だ。大地主である父、華族出身の母、音、そして半分だけ血の繋がった妹の有雨子がいる。
父に妾がいたことを母が知ったのは、音が生まれてしばらく経ってからのことだった。産後の肥立ちが悪かった妾が亡くなり、父が有雨子を連れ帰ってきたからだ。
ほとんど同じ時期に生まれた妾の娘。ところが多くの予想とは異なり、気位の高い母は、女性を囲っていた父を責めることはなかった。さらに、音の双子の妹として有雨子を引き取り、可愛がってみせたのだ。
むしろこの家の中で身の置き所がないのは、音のほうだった。
政略結婚だった父母の仲は冷めきっていた。跡取りとなる男児は生まれず、同じ年頃の娘がふたり。となれば、好いた女の子どもを可愛がるのは音にも理解できた。傷つかないわけではなかったけれど。
一方の母はといえば、まるで見せつけるかのように音の前で腹違いの妹を可愛がった。まだずっと小さい頃、音が癇癪を起こしたとき、母は蔑むような目でこう言ったのだ。
『産みの母を亡くした妹をどうして可愛がってやれないのです。なんと心の無い娘でしょう。そもそも立花家の長女だというのに、生まれ持った名前はたった一文字だなんて。まったく恥ずかしい。本当にわたくしの娘なのかしら』
名前にあてられた文字の多さは、神から与えられた祝福の深さに比例すると言われている。祝福の少なさを示すかのように、音は生まれつき虚弱な上、誕生を境にこの辺りの土地では水不足が増え始めた。
いつの間にか父は、妾の子を可愛がる母を妻として認めていた。妹は、母を実母のように慕っている。音の家は、彼女ひとりを置き去りにして、家族として繋がっていった。
ぱらぱらと屋根にあたる雨音を聞いていれば、眠気が押し寄せてきた。夕餉も取らないまま床につく。
今日出会った薫重のことを報告すべきだろうかと迷い、忘れたふりをすることにした。どうせ伝えたところで、男の元に出入りする不良少女だと叱られるだけ。
(それならば、私と薫重さんだけの秘密にしておいたほうがいいわ。……あら?)
常ならば、自分が母にはむかうはずがないことに思い至り、首を傾げた。どうして、今日は反抗的な気持ちになるのだろう。むしろ、どうして普段は反抗的な気持ちにならないのだろう。
眠りに落ちていく途中で掴みかけた疑問は、頭の中で霧散した。
***
音はあれ以来、薫重の屋敷に立ち寄るようになった。
「長いこと神社へ奉納に伺っていたのに、どうしてお屋敷に気がつかなかったのでしょう?」
「あなたが大人に近づいたからかもしれません」
「そういうものでしょうか」
首を傾げる音に向かって、薫重がお茶を勧めた。
「さて、今日もまた音さんの『初めて』を頂こうと思いまして、パンケーキをご用意しました。音さんには、薄餅の方が耳馴染みがあるでしょうか」
目の前に置かれたのは、蜂蜜がたっぷりかけられたパンケーキ。黄金色に輝く蜜に、音の目は釘付けだ。
「まあ、素敵。先日はチョコレート、その前はキャラメル。このままでは、子豚のように肥え太ってしまいそうです」
「もしかしたら、大きく育ったところを丸呑みにしてしまおうと企んでいる、悪い神さまがいるのかもしれませんよ」
「それは大変です」
思わず吹き出した音の頬を、薫重が優しく撫でた。
「音さんが笑っていると幸せになれます。まるで甘いものを食べているときみたいに。優しい香りのするあなたには、ずっと笑っていてほしい」
(そんな、恋文のようなことをおっしゃるなんて!)
頬を染めながら、音はいただきますと手を合わせた。自分の家では食欲もわかず、食事をとれないことさえ多いのに、ここでは不思議なほどお腹が空いてしまう。それは珍しい洋食の甘味だからというだけではないはずだ。
虚弱体質の役立たずと裏で罵られていた音が、屋敷に通うようになってからは病気ひとつしない。生きる力を注ぎ込まれているように薫重は音を満たしてくれる。
(これが、恋というものなのかしら。それなら、叶うはずのない恋ね)
パンケーキを前に固まってしまった音を前に、薫重が話しかけた。
「前から悩んでいたのですが、この地を離れようかと考えているんです」
突然の話に、音はフォークを取り落とした。小さく震える音の手を、薫重がそっと握り締める。
「ついてきてはいただけませんか?」
「私が、ですか?」
「着物にも洋装にも似合うように準備してきました」
指にはめられたのは、白金の指輪。捻梅の中心では金剛石が輝いている。それが意味することを考えて、音はめまいがした。
「どうか、これから先もずっと僕と一緒にいてください」
「……はい」
「それでは、あなたが成人を迎える日にこの土地を出ましょう。これからは、何か困ったことがあったら、僕のことを呼んでください」
嬉しげに引き寄せられ、薫重の香りに包まれた。
甘いお菓子につられて、知らないひとについていってはいけない。それは小さな子どもだって知っていること。けれど、音は夢を見たいと思った。
例え最後は苦界に売り飛ばされることになったとしても、あの家で静かに朽ちていくよりはきっと幸せなはず。
薫重の腕の中で、音は淡く微笑んだ。
***
音の誕生日も、朝から雨が降っていた。
(やっぱりこの家には、私を祝ってくれるひとはいないのね)
わかっていたはずなのに、期待していた自分に気がつき苦笑した。
音と有雨子の誕生日は、音のほうが少しだけ早い。けれど対外的に双子だとしているため、ふたりの誕生祝いは常に有雨子に合わせて行われている。
『姉であるあなたが、妹に合わせてあげるべきでしょう』
当然のように母はそういうけれど、本当の誕生日をお祝いされない寂しさをどう伝えたらよいのか。
けれど、今年は違う。音の誕生日を、薫重は知っている。だから、彼だけは祝ってくれるはず。
(早く時間にならないかしら……。でも、女学校がない日だから、あんまり早く神社へのお務めに向かって、怪しまれても困るわ……)
何度も時計を見ていたから、勘づかれてしまったのかもしれない。
自分の部屋の中でこっそり指輪をつけていたところを、母に踏み込まれた。その後ろには、面白そうな顔で覗き込む妹の姿がある。
「それは何かしら」
「たいしたものではありません」
「やましいことがないのなら、お見せなさい」
(どうして放っておいてくれないのかしら。嫌いなら、いっそ私のことなんて無視してくれればよいのに)
「そうよ、お見せになって」
無邪気な合いの手が入る。有雨子と母はとても気が合うのだ。音などよりもずっと。まるで血が繋がった親子であるかのように。
「これは一体どういうことなの?」
じろりと睨まれ、慌てて左手を隠そうとすれば、腕をひねりあげられた。
「神社へお務めに行くふりをして、カフェーで女給でもしていたの?」
「まあ、お姉さまったら大胆!」
「まったく、立花家の人間ともあろうものがみっとない。そんな指輪、さっさと外してしまいなさい」
左手の薬指におさまった指輪は、母たちがどれだけ引っ張ってもびくともしない。指がちぎれそうなほどの勢いにたまらず悲鳴をあげた。
「お母さま、やめてっ」
「わたくしの娘は、有雨子ひとりだけよ」
掴まれた腕や指先よりも、その言葉が痛い。涙で前が見えなくなった。
***
雨音がする。
結局音に自由は訪れなかった。離れの扉や窓の前には使用人。母は母屋で目を光らせている。
楽しそうに音たちの騒ぎを眺めていた妹は、途中で飽きたようで父と一緒に百貨店へ出かけてしまった。
彼は、音が屋敷に来ないことで落胆しただろうか。それとも、その程度の覚悟だったのかと呆れただろうか。
(駆け落ち、してみたかったわ)
ぽろりと涙がこぼれてくる。無性に切なくて、音は指輪を撫でた。
(でもそれじゃあ、神社への奉納は途切れてしまうものね。だから駆け落ちに失敗したのかしら)
代々引き継がれてきたお務めも、音以外の人間は軽んじている。甘味好きな神さまも、今日のおやつを食べ損ねてご機嫌ななめなのではないだろうか。
「薫重さん、会いたいです」
「僕も会いたかったですよ」
「……え?」
目の前には、焦がれていた薫重が微笑んでいた。
***
「どうしてここに?」
「あなたが呼んでくれましたから。古い誓約に縛られてなかなか大変だったので、呼んでもらえて助かりました」
「古い、誓約?」
薄暗い部屋の中で、薫重の瞳が金色に輝いていた。縦に長かったはずの瞳孔は、すっかりまあるくなっている。そこでようやく気がついた。
(ああ、この方は異国の方ではなかったのね)
むしろどうして気がつかなかったのだろう。彼こそが、この土地に祀られている神であることに。
「あなたが成人するまでは立花家に預けておくという約束だったのです。辛い思いをさせてしまって、本当にすみません。多少現世が歪んでしまおうとも、あなたをさらってしまえばよかった」
(この世が歪む……それは大変なことになるのでは?)
「ええと、あの」
「ひとならざる者が夫では、やはりお嫌ですか?」
「まさか」
(薫重さんだから、そばにいたいのです。神だとかひとだとか、関係ありません)
ふたりの距離がさらに近づいたその時。
「全部お前のせいよ! お前さえいなければ!」
金切り声を立てて部屋に飛び込んできたのは、般若のような面をした母だった。
***
音はとんだ疫病神だ、それは母が常日頃から口にしていることだった。音が生まれてから、立花家が預かる土地ではなかなか雨が降らなくなったからだ。
「それは、お前自身のせいだろう?」
吐き捨てた母の前に立ちふさがったのは、薫重だった。
「薫重さん!」
あのひとは止められない。そう思って叫んだ音だったが、彼女の母は真っ青な顔で手を振り上げた姿勢のままぶるぶると震えていた。
「今すぐ音に返すがいい。お前が自身の娘に勝手に与えた、彼女の本当の名を」
「やめて!」
「彼女の名前は、『雨音』。天にあまねく優しき恵み。命を支える水の声」
「薫重さん、なにを……」
音はへたりこんだ。それは、大和で決してやってはいけないことだ。名前を奪うということは、相手の命を、意思を奪うということ。それは母も、当然わかっていただろうに。
「何がいけないの! そこの娘に、『雨音』だなんてもったいない。下賎の女の娘が、わたくしの娘である『有子』と同じ二文字だなんておこがましいわ」
「お母さま?……」
「その声でわたくしを呼ばないで。その目でわたくしを見つめないで。いつまで経っても、思い出すわ。あの憎たらしい泥棒猫を。お前なんてあの女と一緒に……うぐっ!」
「それ以上、音を、雨音を侮辱するな」
ああ、これは母から父への復讐だったのだ。音は唇を噛んだ。
「名を奪い、勝手に名乗ったところで、本来の意味など失われてしまうのに。愚かなことだ」
無理矢理に奪われ並べられた「有」と「雨」は、「䨖」に変わり、雨ではなく過剰な晴れ間をもたらした。
そう指摘されても、母の目はぎらついたままだ。自身の娘と妾の子どもを入れ換えて育てるくらい、彼女はすべてを憎んでいたのだ。
妾の子として、自分の子どもを可愛がる父の姿は愉快だっただろう。正妻の子として、愛した妾の子どもを無視する父の姿は痛快だっただろう。
なんて悲しい、いびつな家族。けれどその事実に音は、ほっとした。ここまで壊れてしまったら、もう家族ごっこをする必要はないのだから。
じりりりりと電話が鳴った。滅多なことでは鳴らないベルの音が、こだまする。母屋の電話の音が、離れまで聞こえるはずがないのに。
「さあ、早く出た方が良いのではありませんか。取り返しがつかなくなってからでは遅いですよ」
真っ青な顔をいよいよ白くして、母が駆け出した。
「今のうちに、行きましょう。それとも、父親に会いたいですか? 本当のことを知れば、彼はあなたを愛してくれるかもしれません」
――音、どうか許しておくれ! 今まで本当にすまなかった。ああ、こうやって見てみるとお前はあのひとによく似ている――
音の耳に、幻聴がよぎる。初めて父の目に映るかもしれないというのに、音は少しも嬉しいとは思わなかった。
「私の母親が誰であれ、もともと半分は血の繋がりがあったはず。けれど、今までは道端の石ほども興味は持たれなかった。ならば、このまま捨て置いていただくのがよいでしょう。私は、雨音。音という娘など、はじめからいなかったのです」
音もとい雨音の言葉に、薫重が満足そうにうなずいた。
部屋の窓を開けてみれば、外はまだしとしとと雨が降っている。細かくけぶる雨が、火照った肌に心地いい。
これは恵みの雨だ。ひび割れた土地に水がぐんぐんと染み込んでいくように、名前を取り戻した雨音のもとに力が集まってくる。
ああ、普通のひとはこんな風に息を吸うことができたのか。そんなことに驚きながら、雨音は足を踏み出す。その隣には、優しい目で彼女を見つめる薫重の姿があった。
***
「本当に良かったのでしょうか?」
小高い山の上。移動した屋敷からは、空にたなびく濃い霧が見える。夏だというのに、しっとりとした冷たい風が吹き抜けていく。
「何がです?」
「あそこを離れてしまって。だって薫重さんがいなくなったら、あの土地は神さまから見捨てられたということになってしまうのでしょう?」
「大丈夫ですよ。立花家が務めを果たせなくなったら、また新しい家が務めを果たすでしょう。少しばかり荒れるかもしれませんが、あそこを治めてくれる神を見つけるのもそこに住む者の役目です。あなたが心配する必要はありません」
「でも……」
「そもそも雨音を虐げていた人間が住んでいた土地など、守ってやりたいとは思えません。祟り、穢れをばらまいたりしないだけ、ましだと思ってほしいですね」
過激な言葉に、どうしてか嬉しくなる。本当はこんな荒ぶる神にしてしまってはいけないのだろうけれど、真っ直ぐな愛情が彼女には愛おしかった。
名を取り戻した雨音は、日毎に美しくなっている。ようやっと水を得た荒れ地の花のように。雨音の首筋に顔をうずめながら、薫重がうめいた。
「もう待ちきれない」
「まあ、もしかしてお腹が空いてしまったのですか」
くすくすと楽しそうに笑う雨音を引き寄せ、薫重が深く口づける。自分を傷つけることのない牙に舌で触れれば、薫重が堪えきれないようにささやいた。
「そう、僕はずっと空腹なんです。それなのにあなたときたら、僕のことを人買いか何かのように扱って」
「まあ、頭から全部食べられてしまいそう」
甘く体に染み渡る神の息吹きを受け、雨音は目尻をほんのりと赤く染めた。
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