37.未知なる世界
石畳の敷かれた大通り。立ち並ぶ家々。
明るい日差しが差し込み、石畳や窓ガラスがキラキラと輝く。
だがどこにも人影はない。
大きな洋館。絢爛豪華で、手入れのされた庭。
赤い花々がたおやかに咲き誇り、青々とした緑と対比を成している。
だがどこか生気が感じられない。
そんな場所にたった一人で‶彼女〟はいた。
「はぁ~~あ、失敗しちゃった」
美しい庭に設置された日除け傘の下。
華奢で優美なデザインのテーブルに着く彼女が、ティーカップに口をつける。
紅茶を一口楽しみカップを置く彼女の髪が、さらりと肩を滑って揺れた。
金色。
細められるその瞳と同じ色の、輝く髪。
「せっかくあの魔物を操れたのに。絶好のチャンスだったのにな~」
あの巨大なウミウシの魔物。
夢を介して接触したあれは、見た目に反して純粋な心を持っていた。
純粋で愚かなあれを操ってかの‶旧魔王〟を始末するつもりだったが、残念ながらその計画は失敗に終わった。
「ていうかまだ生きてるのかしらあの魔物。……でもな~んか嫌な予感がするのよねぇ。どうせもう使えないし、接触するのはやめとこ~。……ん、ぅんん~~っ!」
指を絡め、腕を上げて伸びをする。
身体を弛緩させた彼女は「はぁ~~」と息をつきながら背もたれに身を預けた。
その細い顎に人差し指を当て、小首を傾げる。
「それにしても、マーメイドを疑わせたのはあからさますぎたかしら? でも分断はできてたし~、ジャブみたいに効いてたとは思うのよね~」
イスに腰掛けたまま「シュッ、シュッ」と何度か殴る身振りをしておどける。
が、人の気配のないこの場所には笑い声も上がらない。
しかし彼女は満足そうな顔で立ち上がると、花壇の間の通路を歩き始めた。
(‶全種族の支配〟か……まさか本気とはね。まぁお仲間に話しているのなら真実かしら)
夢の中で接触したあの赤髪の少女が彼に信頼されているのなら、という頼りない前提ではあるが……どちらにせよ最悪の状況を想定して動くべきだろう。
八百年前の世界から蘇った‶旧魔王〟ゼレウス・フェルファング。
彼は魔族を救う英雄か。それとも魔族を滅ぼす毒なのか。
(ま、どっちでも関係ないけど)
均衡を崩す可能性があるのなら排除する。なぜなら──
(あなたがいなくても……この世界はもう完成しているのだから)
赤い花々の咲く庭木の間を抜けて、門の外へ。
彼女の姿もまた、生気のない街のどこかへ消えていった。
◇
声が響いていた。
暗い海の底で。どこからか。
全身の力を失ったように海流をたゆたう彼……あるいは彼女のもとへ。
「……?」
また声が聞こえた。
何を言っているのか、不思議と意味はわかる。
だけど彼女が生きてきた中で、たった二度目の経験。
誰かに話しかけられることがだ。
だから彼女は跳ねるように翻り、姿の見えない声の主へ身振りを交えながら自身のことを必死に伝えた。
一度目の時と同じように。
──そうか。聴覚がないのか。
声が響く。
頭の中だ。響く声は頭の中に直接届いていると彼女は気がついた。
ふと海流が強まり、彼女の身体はより深みへと引き込まれていく。
──それで驚いているのだな。しかし言葉を介する魔物は珍しい……少し話そうか。
沈み込んだ暗い海の奥に、何かが見えた。
頭の中に響く声がより明瞭になる。
──ほう、本を読んだことがあるのか。それで会話ができると。しかし文字の意味を理解できたとは……奇妙な話だ。誰の気まぐれかな。
眼下にある大きな大きな影。
それが語りかけてきているのだと、彼女はようやく気がついた。
その影に向かって、また身振り手振りを交えながら心の声を出す。
──はっはっはっは! 私は溺れないのかだと? 面白い! ははははっ! うん? ……溺れる姿を見るのが好き? ……邪悪な嗜好だなぁ。
巨大で、ヘビのように細長いシルエット。
だが決して貧相には見えない。
ひらひらと揺れるヴェールのようなものが全身から生えているからだ。
まるで無数に枝分かれをした大樹のように。
──まぁ善も悪も私には関係のないこと。さぁ行こう。そのまま海流に身を任せてくれていい。
その言葉に彼女は素直に身を委ね、巨大な影に追従するように運ばれていった。
頭の中で言葉を思い浮かべ、今まで不満に思っていたことを吐き出す。
──これまで出会った誰もが文字を使わなかった? なるほど……すれ違いだな。マーメイドに出会わなかったのは不運……いや、どちらにせよ魔物と会話を試みる者はそういないか。まぁこれからは私が話し相手になろう。私も、マーメイドたちの相手は少々むず痒くてな。
暗い海の底から。
海流を裂き、少しずつ光の差すほうへ。
広い広い海の果てへ。終わりのない、誰も知りえないほど遠くへ。
二つの影は海の蒼さの向こうへ消えていった。