35.お互いに背中を押しているから
「やったぞゼレウスっ! ついに奴を倒したぞッ!!」
拳圧の奔流に呑まれて消えた魔物に、リーシャが興奮した様子で叫ぶ。
ゼレウスの背中から身を乗り出すほど喜ぶリーシャだったが、彼の纏う雰囲気が変わっていないことに気を引き締め直した。
「! ゼレウス、まさかまだ……」
「ああ、奴は死んでいない」
「あれでか!? そんな、どうするっ?」
「いや……おそらく」
一瞬、ざわざわとゼレウスの髪が逆立つ。
しかし瞬きひとつする間もなく収まったそれに、リーシャは『気のせいか』と自身の目のほうを疑った。
「もう戦える状態ではないはずだ。今は帰還を優先する」
「そうか……わかった。エレイナたちの無事も確認したいもんな」
「ああ。そのまま我の背に掴まっていろリーシャ。登るぞ」
「身体はもう大丈夫なのかゼレウス?」
「ああ。お前の治療のおかげだ」
心配しつつも、リーシャはゼレウスの背にしっかりとしがみついた。
「‶未知の世界〟……か」
海溝の外ではなくどこか遠くを見ながらそう呟くゼレウスに、リーシャは不思議そうに首を傾げた。
海溝を駆け上り、崖上へ。
ゼレウスはリーシャを背負ったまま、地上へ向けて海底を歩き始めていた。
(やっぱりすごい奴だな、ゼレウスは……)
さっきまであの激闘を繰り広げていたというのに、その疲労の影すら見せない。
彼にとって恐ろしいはずの海底の世界。すでに呪言は解除しているが、その恐れだって。
「む、見ろリーシャ」
ゼレウスが前方を視線で示し、リーシャも顔を上げる。
「おお、マーメイドが来てくれたか! あれは──」
蒼さの向こうの人影へリーシャが目を凝らした、その瞬間。
「うわ、なんだ!?」
視界の蒼さが消え、突然周囲が明るくなる。
と同時にゼレウスがその場に倒れ込んだ。
「どわぁっ!?」
横這いに倒れる彼といっしょに、背負われていたリーシャもその上に倒れ込んでしまう。
彼の重石にならないようすぐさま離れようとはしたが、戦いの消耗で思うように身体が動かなかった。
「す、すまんゼレウス! 大丈夫か!?」
「む……身体が、急に重く……」
「! そうか、水が…………じゃああれはネザリー殿か!」
突如現れた透明な空間。海を真っ二つに割るこの現象には見覚えがあった。
‶海闢王〟の二つ名どおりのその魔法。
ゼレウスを助けるために展開されたようだが、少々タイミングが悪かった。
流石の彼も激闘の疲労はあったようだ。でなければ周囲の水がなくなった程度で倒れはしなかっただろう。
とはいえもう焦る必要はない。ここで倒れたまま泳いでくる彼女……遠くで手を振るネザリーの救助を待てばいいのだから。
「はぁあ~~~っ助かった…………いや、まだネザリー殿に裏切られる可能性があるのか……うへぇ~~……」
「ふ……その時はその時だ」
リーシャの辟易とした顔に、仰向けになったゼレウスが苦笑する。
どこか朗らかな彼の笑みに警戒の色はなく、もうネザリーのことを疑ってはいないようにも見えた。
もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。
彼は念のため疑っていただけなのかもしれない。仲間の……リーシャたちの安全のために。
「……心配をかけたな、リーシャ」
リーシャは脱力した身体をどうにか起き上がらせ、仰向けになっているゼレウスに対し馬乗りの体勢になった。
そのまま離れようとしたが、ふと掛けられた柔らかな声に取りやめる。
「心配? 私が、ゼレウスを? ……確かにそう……かもな。すまない、私なんかが……」
「何を謝っているのだ? それに『私なんか』などと……お前ほど立派な者はそうそういまい。お前は恐怖を克服したのだ。抗いがたい恐怖に打ち勝ち、我を救ってくれたのだ。‶旧魔王〟である我にもできないことを成し遂げたのだ。誇りに思ってくれなければ我の立つ瀬がない」
「! ……ふ…………ふふ、あはははははッ! そうだな、私はあの‶旧魔王〟を超えてしまったんだな! ハハハハッ!」
「そうだ。見上げた奴だリーシャ、お前は……本当に」
リーシャが快活に笑うと、ゼレウスも穏やかに、慈しむように微笑む。
対等になりたいあまり、受け入れられずにいた感情。
‶心配〟なんてされたくないと思っていた。だからゼレウスを心配している自分をつい卑下してしまった。
でも。
(ゼレウスが背中を押してくれたから私は乗り超えられた。けど……ゼレウスだって同じなんだ……。ゼレウスだって、私がいるからできるようになることがあるんだ。たとえ私がゼレウスほど強くなくても……お互いに背中を押しているから、‶並び立てる関係〟なんだ……)
だってそうじゃないか。
向かい合ったり、背中を合わせたりしていれば、互いの背は押せないのだから。
受け入れられずにいたその感情を、これからはきっと──
「……む、どうしたリーシャ?」
「ん~? 疲れたんだ。いやか?」
身じろぎして仰向けになったゼレウスの胸へ、リーシャはぱたりと倒れ込む。
安堵と達成感のある疲労に、なんとなくそうしたくなったのだ。
「いやではないが……」
「じゃあこのままだ。ゼレウスも倒れるほど疲れてるんだろ? しばらくこのまま休めばいい……それとも私は重たいか?」
「そんなことはない」
「じゃあこのままだ」
ゼレウスの胸元に頭を預ける。
しばらくそのままでいると、とくんとくんと脈打つ彼の鼓動が聞こえてきた。
それがなんだか少し、早いリズムを刻んでいるような……。
「……なぁゼレウス」
「なんだ」
「血を吸ってもいいか?」
「…………なんだと?」
ゼレウスが心底怪訝な顔をするが、リーシャはあえてそれを無視した。
「いいのかダメなのか、答えていいのはそれだけだ」
「む……ならば……いいだろう、好きにしろ」
その答えに小さく笑みを浮かべると、リーシャは身体を起こし前方を確認する。
(ネザリー殿はまだかかりそうだな……帽子で隠れて見えないはずだから…………よし)
自身の筋肉で止血していたとはいえ、ゼレウスはかなりの出血をしていた。
さっき倒れてしまったのも、もしかしたら貧血気味だからという可能性もある。
だから吸うのはちょっとだけだ。ちょうど、ちょっとだけで済む。
「いくぞ、ゼレウス……?」
「ああ」
了承を取り、ゆっくりと彼の首筋へ唇を寄せる。
細く短く吐いた息が首筋に当たって、彼は少し身じろぎをした。
その反応が恥ずかしくて一瞬ためらってしまったが、リーシャは意を決して口を開く。
しかし顔が熱くなってしまっている理由はそれだけではないだろう。
この行為に込められた本来の意味を思い返すと、やはり照れくさい。
「っ……」
皮膚を貫く小さな牙の痛みに、ゼレウスの身がほんの少しだけ硬直する。
魔族の血はヴァンパイアの食糧にはならない。だからこの行為は食事ではない。
これは一種の儀式だ。
ヴァンパイアにとって大切な、誓いの儀式。
「やっぱり、まずい」
「……だろうな」
味は最悪だったが、本能的なものだから仕方ない。
けど気分は晴れやかだった。
血を吸い終わり身体を起こしたリーシャは、苦々しく困ったように……でも楽しそうに笑う。
ゼレウスもまた眉尻を下げ、困ったような楽しいような笑みを浮かべた。
珍しい表情だ。
それが見られたことをリーシャはひそかに喜ぶ。
「それで、なぜ我の血を吸ったのだ? 魔族の血を飲んでも腹は満たされないはずだろう。まさか八百年の間にそれが変わったわけではあるまい」
「もちろんだ。しかしマーメイドにとっての海神龍と同じように、ヴァンパイアにとっての血液は神聖なもの。ヴァンパイアの血液信仰はゼレウスも知っていることだろう。だから詳しいことは秘密に──」
「あ、あの~……」
「!!?」
得意げな顔で語っていたリーシャだったが、ふいに掛けられた声にびくりと肩を跳ねさせる。
「あ、ね、ネザリー殿……ああ、たす、助けに来てくれたんだなっ? ありがとう。あー…………早かったな? 思ったより」
「あ、いえ、遅れて申し訳ありません。エレイナさんもルフゥさんといっしょにこちらへ向かっておりますので、ご心配なく」
「そうか……。…………」
「……あの、それでその……い、今……あの、見ちゃってたんですけど……も、もしかしてリーシャさんいま……」
大丈夫、何をしていたのかは角度的に帽子で見えてないはず。
なのだが、リーシャの鼓動はどんどん強まってきていた。さっきのゼレウスよりも、遥かに早く。
やがて意を決したようにネザリーが言う。
「もしかしていまっ、‶キス〟してましたっ!!?」
「……………………はっ?」
顔を赤くし直視もできないといった様子で頬を抑える彼女は、完全に誤解していた。
──やばい。私としたことが。
帽子のおかげで見られることはないと高を括って、重大な可能性を忘れていた。
見えないということは、あることないこと勘違いされる可能性もあるということを。
「してるわけないだろォ!? い、今のは、その……えっとだなァ!」
「‶キス〟だと? リーシャの名誉のためにはっきりと言わせてもらうが、断じてそのような不埒なことはしていない。我はいまリーシャに吸血されただけ──」
「よっしゼレウス! 今から息止め我慢大会だ! これからは自力で潜れるようにな! いいな!?」
「なに? いいだろう」
「じゃあスタート!」
仰向けのまま、ゼレウスが素直に息を止めた。
よし、これで彼は余計なことを喋れない。
「あ、キスではないんですね。早とちりしてしまいました、ごめんなさい。でも……吸血? 確かヴァンパイアの間ではそれって……」
「…………」
沈黙。
リーシャが選んだ選択肢がそれだ。
誤魔化さず、言い訳もせず。
彼女が思い出さない可能性、あるいは知らない可能性にすべてを賭けた。
が、素晴らしいことにネザリーは記憶力も優秀らしい。
「そうだ! 聞いたことがあります! たしか‶巡血の──!」
「ネザリー殿ッッッ!!」
ああもうダメだ。彼女は無事答えに辿り着いてしまった。
だからリーシャはネザリーの言葉を無理やり遮った。
そしてゼレウスの身体の上から離れると、ネザリーに歩み寄る。
その時、仰向けで息を止めたままのゼレウスが目を閉じるのが視界の端に見えた。
リーシャの服装はいつもの普段着──黒の外套と、同じく黒の丈の短いワンピースだ。
彼はおそらく下着を見てしまわないようそうしてくれたのだろう。
(もしかしたら下着を見られてしまったかもしれんが……いっそ構わんッ!!)
もちろんゼレウスなら、という注釈は必要だが……妙に潔くなるリーシャだった。
「も、もしかして秘密な感じですか……?」
口元に手を添えこっそりと囁くネザリーに、リーシャはコクコクと頷きを返す。
「あ、いや、というか本来の意味ではないんだ……ほら、親愛を籠めて……な?」
「ああ~~、なるほどですっ! 確かに、ヴァンパイア同士ではないですもんね。でしたら言うなればあれは……‶半巡血の誓い〟……でしょうか」
「しーっ! しーっ!」
口元に人差し指を当て背後のゼレウスを気にする様子を見せるリーシャに、ネザリーも同じポーズを返しながら茶目っけたっぷりに微笑んだ。
‶巡血の誓い〟。
ヴァンパイア同士が交わす、その誓いの意味。
‶永遠の愛〟である。
愛し合うヴァンパイアの二人が互いに吸血し、自らの内に相手の血を取り込むことで変わらぬ愛を誓いあう。
詳しい発祥は知らないが、たぶん八百年前にはなかったはずだ。
だからゼレウスは知らない。
……知らないままでいい。だって──
(これは私だけの……私自身への誓いだ。だからお前は知ってくれてなくていいんだ)
リーシャが穏やかな表情でゼレウスへ振り返ると、彼はまだ息を止めていた。
そして限界が近いのだろう……顔を赤くしていた。
「うおーゼレウスっ!? ほったらかしにしてすまんっ!」
「まだ……いけるぞ、っ我は……!」
「もういいよっ! 我慢大会終わりっ! お前が優勝!」
「ふぅ……そうか……む、我は誰と競っていたのだ?」
「あ、フュージアさんっ」
ゼレウスに我慢大会の終了を告げると同時に、ネザリーがそう言って振り返る。
ネザリーの視線の先では、フュージアを腰に佩いたエレイナと、彼女を引っ張るルフゥが泳いでこちらへ向かってきていた。
聴覚のいい彼女にはフュージアの声が聞こえたのだろう。
エレイナもまた手を振りながら何か喋っているようだが、水に阻まれてリーシャとゼレウスにはまだ聞こえない。
だけど、どうやら二人とも無事だったらしい。
立ち上がるゼレウスに手を貸しながら、リーシャはほっと息をつく。
そして帽子を抑えながら、泰然とした笑みを浮かべるゼレウスをちらりと見上げた。
……彼らのような‶ひたむきさ〟が欲しかった。
ひたむきに求め続ける‶望み〟が。
だけど、欲しいと嘆くばかりで気づけずにいたのだ。
もうすでに自分がそれを持っていることに。
(ゼレウス……私はこの戦争を終わらせるぞ。お前たちといっしょに、笑って生きるために)
永遠の愛というほど浮かれた感情ではない。
でも、込められた意味はきっと同じだろう。
‶最期の時まで、あなたといっしょに〟
リーシャが誓いに籠めた意味は、そんな想いだった。




