34.もっといっしょに
海溝の暗闇の中、ゼレウスの背中は窪みのすぐ近くにあった。
治療の間ずっと護ってくれていたのだろうが、その必要はないと伝えなければ。
リーシャは岸壁を蹴り出した勢いのまま、ゼレウスの背中に飛びついた。
「ゼレウスっ!」
「む……リーシャ! ……もう傷は癒し終わったのか?」
「まだ痛みはあるが問題ない! そんなことよりゼレウスのほうこそだッ! お前の傷はまだ全然治ってないんだぞ!」
「我は大丈夫だ……」
言葉とは裏腹に息を切らしているゼレウス。
思えばこんな姿を見るのは初めてだ。あのゼレウスがこれほど消耗しているとは。
「……こうやってくっついていれば、その間ずっと治療し続けられる。戦況はどうなった?」
「奴はまた闇に姿を隠した。そしてその身を──っ!」
突如闇の中から飛来した白い影が、ゼレウスの言葉を途切れさせる。
色は同じだがあの人型ではない。
影はゼレウスのそばを高速で通過すると同時に攻撃。ゼレウスの拳と交わり、硬質な音を残して再び闇に消える。
「早い! いやそんなことより最初の形態じゃないのかあれは!? 大きさは私が戦ったのと同じくらいだが!」
「あの姿が泳ぎの得意な形態なのだろう。我が泳げないことはすでに知られているぞ」
今度は闇の中からナイフが飛来する。
しかし今までと比べるとその数は遥かに少なく、リーシャを背負ったままのゼレウスでも弾くことができる程度だ。
「闇魔法だと!? あの形態は海流を……水魔法を操る形態じゃないのか!」
「体色と体格の差異……能力も異なる。あの巨体にならないのは奴も消耗しているからと考えたいところだがな……」
ふと、ゼレウスの言葉にリーシャはほんの少しだけ違和感を覚えた。
考えようによっては‶弱音〟にも聞こえる彼の言葉。
普段の彼ならそんな様子はおくびにも出さないはずだが。
「ゼレウス……お前の治療が終わったら私は離れる。だからそのあとは、私のことなんて気にせず思う存分戦ってくれ。自分の身くらい自分で護れる」
だからリーシャはそう伝えた。
これ以上彼の負担になってしまわないように。
だがゼレウスは激しい消耗の中においても冷静に、静かにリーシャの言葉を見極める。
「まだ魔力はあるのか?」
「それは……。……ゼレウスを治せば……たぶん尽きる」
ゼレウスを遠隔で回復したあの魔法は、いわば最低効率の治癒魔法だ。
闇魔法の光に含まれる治癒効果を、凝縮も方向性の指定もせずただ放つだけの単純な方法。
かつてルージュの言っていた子ども騙しの治療法がこれだ。遠隔ではそうするほかなかった。
結果、リーシャの魔力はすでに尽きかけている。
こんな状態では身を護ることも不可能だろう。それはリーシャ自身もわかっている。
「自己犠牲か?」
「! …………」
ゼレウスの鋭い問いかけに閉口する。
図星だったからだ。けれど……少しだけ違う。
「……そんな高尚なことじゃない。私のしていることは…………‶償い〟なんだ……」
思わずゼレウスを治療する手に力が入ってしまう。
彼が反応するような様子が見られたため、バレてしまったのかもしれない。
たったそれだけを伝えるために、身体が強張るほどの決意が必要だったことを。
「私が戦場に立つのは、過去の過ちを償うためなんだ。自己犠牲の精神とか、慈愛の心なんてものじゃないっ……」
唇が震える。
だけど隠さなくてはならない。
ゼレウスに心配させては元も子もないのだ。
‶自分のことは心配しなくていい。だから思う存分戦ってくれ〟。
そう伝えて、彼の足を引っ張らないようにしなければ。
けれど出てくる言葉は──
「いつだったか、フュージアは戦場に立つ私を女神に例えた。ゼレウスとエレイナは私を信頼して、背中を預けてくれた! でも本当の私はそんな立派なやつじゃないんだっ! だからっ……だから……私なんかのために……命を懸けて欲しく、ないんだ……」
言葉が沈み、消え入るようにしぼんでいく。
まるで救いを求める子どものようだ。
大人の寛容さに甘える、幼子のようだ。
こんなことを言えばきっとゼレウスは否定してくれる。
自分を貶めるようなことを言うなと、彼はそう勇気づけてくれる。
それがリーシャにはわかっているから……だからこそこれは甘えだった。
「……そうか」
ゼレウスが呟く。
彼の声色はいつもどおりで、背負われているから表情も見えない。
だから……失望させてしまったのかどうかもわからない。
本当は彼に並び立てるような人物になりたかったのに。
救いも心配もいらない。ただ胸を張っていっしょにいられるような、そんな関係でいられたら。
だけど受け入れなければ。どんなものであっても、彼の言葉を。
だって話してしまったのだから。
呪いのように……呪言と同じように、吐いた言葉は飲めないのだから。
「我はお前といっしょにいると楽しいぞ」
「……………………んぁっ?」
なんだか妙な声が出てしまった。
ゼレウスの言った言葉があまりにも想定外だったからだ。
おかげで、もう少しでまた溢れてしまいそうだった涙が引っ込む。
「お前は博識で、いつも我に新しいことを教えてくれる。我の思いもよらないことを提案してくれる。だから楽しいのだ。だからこそ今我は戦っているのだ。お前といっしょに、他の街にも行ってみたいからな」
「…………ゼレウス……」
「自己犠牲の精神も慈愛の心もなくてよい。お前は我が友人だ。我が命を懸ける理由があるとするならそれだけだ。これからも我に、この時代のことを教えてくれ」
「……っ」
やっぱり、また涙が出てきそうだ。
情けない。ゼレウスより年上の、お姉さんなのに。
‶私のために戦わないでほしい〟。
そう言いたかった。
でも間違っていたのだ。またあの時のように、小さな言い間違いをしてしまったのだ。
小さな間違いで、大きな悲しみに苛まれるところだった。
「……これで治療は終わった。私はもう魔法を使えない。でも……いっしょにいていいか? 邪魔になるだろうけど、そんなわがままなことを願ってもいいか……?」
「当たり前だ」
なんのためらいもなく、ゼレウスは即答した。
‶私はお前のために力を使う。だからお前の力を貸してくれ〟。
そう言うべきだったのだ。
それこそが自分の望む、‶並び立てるような関係〟だったのだ。
ぎゅっと、ゼレウスの首に回した腕を、彼が苦しくならない程度に強く抱きしめる。
「ゼレウス……提案があるんだ。この状況を打破できるかもしれない」
「聞かせてもらおう……くっ」
飛来する魔物の攻撃をゼレウスが弾く。
身体を動かす彼に振り回されるリーシャだったが、むしろ都合が良かった。
強く抱きしめたのを、魔物が来たからだと誤魔化すことができたから。
思わず抱きしめてしまったのが、ゼレウスの言ってくれた言葉が嬉しかったからだとバレるのが、なんとなく照れくさかったから。
「成功すれば私もお前も無事にこの状況を切り抜けられるはずだ。でも……今から私がする提案は……最低な提案だ。お前の信頼も友情も踏みにじるような最低な提案だ。それでもお前は──」
「受け入れる。どんな危険があろうとも」
即答。
きっと、状況がひっ迫していなくとも彼は同じように答えただろう。
だけど自分で提案しておきながら、リーシャの覚悟は揺らいでいた。
息を一つついて、押し出すように言葉を紡ぐ。
「‶従属の呪言〟を……ゼレウスに使う」
「!」
「やはり恐ろしいか……? 呪いの言葉なんて……」
彼が驚いた様子が肩越しに伝わってきて、リーシャは恐る恐るそう問いかけた。
少しの沈黙。
困らせてしまっただろうか。彼に甘えるつもりはないのだが、つい確認するように問いかけてしまった。
「リーシャ」
「なんだ、ゼレウス……?」
「この恐ろしくも美しい海の中へ、お前は我の手を引いた」
静かで厳かな、しかし温かな彼の声に惹き込まれる。
「我の手を引いて、新たな未知へと導いてくれた。ならば我はその手を離しはしない。お前が望む限り何があろうとも。だから迷わず使うがよい。お前の力を」
あの時、彼の手を引いてこの海の中へ引き入れたのはからかい半分だった。
だけど……その経験すら彼は楽しんでいてくれていたのだ。
「……わかった。それじゃ聞いていてくれ。私の呪言を……呪われた言葉を」
「ああ」
目を閉じる。
瞼を閉じれば蘇る、ルージュを失ったトラウマが覚悟を揺るがし続ける。
彼女が自分を恨んで死んでいったどうかはもうわからない。
それなら……自分で決めるしかない。
(いっしょにいると楽しい……そんなの、私だって同じだ……)
ルージュは呪言を使うことを良しとしないだろう。
だけど信頼してくれる仲間が、友達が受け入れると言ってくれるのなら。
きっと、彼女だって笑って許してくれるはずだ。
(私は…………そうだ。ばばぁとだって……!)
細く息を吸い込む。
(ばばぁとだって、もっといっしょにいたかったんだッ!!)
最後にリーシャの背中を押したのは、あの時の後悔だった。
あの時、彼女といっしょに立ち向かう力さえあれば。
でももうあの時とは違う。後悔があったからこそリーシャは強くなれた。
今なら、ゼレウスたちといっしょに戦うことができる。
「‶永劫〟……‶玉響〟……」
そしてリーシャは囁く。
ゼレウスの耳元。
途切れないように丁寧に。ちゃんと届くようにゆっくりと。
「‶孤独な傀儡、支配の調べ〟……」
エレイナとフュージアに早く会いたい。これからもずっと、いっしょに過ごしていたい。
そのためにもこの状況を切り開かなければ。
この恐怖を乗り越えなければ。
「‶汝、空ろを埋める寄る辺となれ〟」
ばばぁの言いつけをまた破ってしまう。
だけどわかったのだ。‶従属の呪言〟使いである自分がすべきことを。
(──‶くそくらえ〟だッ! 呪言使いの役割なんて知ったことか!! ばばぁは私に『ただ生きろ』と言った! それなら私は私の思うように生きる! ばばぁの言葉だって私の好きなように受け止める! 呪いがしがらみだっていうんなら、縛られたまま自由に生きてやる! 私はお前と……お前たちといっしょに立ち向かいたいんだ、ゼレウスッ!!)
そして最後の言葉。
呪言の起句を唱え、詠唱を完了させる。
もう間違わないように、慎重に言葉を選んで。
「【従属せよ】……そして‶恐怖を忘れろ〟ッ!! ただし‶水への恐怖だけ〟だッ! 水への恐怖を忘れて、お前の本当の力を示せ、旧魔王ゼレウス・フェルファング!!」
魔物が正面から迫る。
暗視能力のあるリーシャには見えているが、ゼレウスはまだ気づけていないだろう。
命じることを優先したため、彼に危険を伝える暇がなかった。
しかし。
「ふんッ!」
ゼレウスがその場で正拳突きを放つ。
瞬間、その拳圧の生みだした奔流が迫る魔物を飲み込んだ。
魔物が闇の向こうへ押し流され、その反動でゼレウスたちもまた背後へ『スィ~~ッ』と押し込まれる。
「うお~~……いや反動でこれって、どんだけパンチ力あるんだゼレウス!」
「ごぼごぼごぼ」
「うわー割れてる!! 風の魔法が割れてるぞゼレウスっ!」
やはりというべきか、ゼレウスのあまりに早い拳の動きについていけず、身に纏っていた風の魔法は泡のように弾けてしまった。
リーシャは慌ててゼレウスの口に手を当て、自身の纏う空気を彼に供給する。
ゼレウスもすぐに自身の魔道具を起動させ、風を纏い直した。
「というかゼレウス……今水に触れても平気だったよな? 気絶しなかったよなっ?」
「ああ。こんなにも深い海の中だというのに……不思議と勇気が湧いてくる」
「呪言は成功したんだ……私は……乗り超えられたんだ……!」
湧き上がる感情のままに、力任せにゼレウスを抱きしめる。
「証明したかったんだ……お前のためなら……お前たちのためなら、どんなことだって乗り超えられるって……!」
気づけば目元に薄らと涙が浮かんでいた。
でも嬉し涙だ。
もう自分でもわからないような、曖昧な感情じゃない。
ゼレウスの力になれたことがただただ嬉しかった。
首に回されたリーシャの腕を抑えながら、笑みを浮かべたゼレウスがローブをぶわりと翻す。
「しっかりと掴まっていろリーシャ! 奴が来る、撃ち込むぞ!!」
展開されていたゼレウスの翼がさらに伸びていく。
海溝を裂き、街一つすら覆いかねないほど巨大に。
許容値を超えた風の魔法が弾け、ゼレウスの全身が再び水に晒される。
だが問題はない。息を止めたゼレウスは迫る魔物を正面から見据え、拳を引き絞った。
周囲の海流がゆっくりと動き出す。
広げたゼレウスの翼が羽ばたいて生まれた、力強い海流。
それはやがて勢いを増し、ゼレウスを中心に渦巻いていく。
自らの意志でそうしているのか、それともその渦に引き込まれてしまっているのか。
魔物がゼレウスへ向けて真正面から突っ込んだ。
(そうか、翼で水の抵抗を増やして──!)
海中では踏ん張りが効かない。
だからゼレウスは広げた翼を地面の代わりにした。
生まれた海流と渦はその余波でしかない。
本命はこれからだ。
「いっけぇぇえええッ、ゼレウスーーーーッ!!」
眼前で牙を剥く魔物へ向け、ゼレウスが拳を合わせた。
背中にしがみつくリーシャへ彼の筋肉の躍動が伝わってくる。
円筒状の口を囲う細かな牙など物ともせず、ゼレウスの拳が魔物の顔面へめり込んだ。
一拍遅れてその衝撃が周囲へと広がる。
一点に集中し、内部を貫くゼレウスの拳圧。
渦巻く海流の中心から海溝の外まで一直線に。
一筋の奔流が海面すら押し出し、まるで龍のように空へと舞い上がって消えた。