32.‶従属の呪言〟
ルージュが出掛けてから、言われたとおりリーシャは事態の収束を待った。
時間を潰すために紅茶を淹れ、屋根裏の自室へ移動する。
屋根裏の換気のための窓、ドーマーと呼ばれる突き出た空間にイスを運んで、外の様子を眺めながらカップへ口をつけた。
遠くから戦いの喧騒が聞こえてくる。
いつもなら眠くなってくる頃合いだが、緊張感からかその気配はまだない。
近くの森といっても、村からはある程度離れている場所が戦いの前線となっているはずだ。ここまで魔物が侵入してくる懸念はないだろう。
(ん? あいつは……)
しかしこちらから危険に飛び込む場合は話が別だ。
窓の外、森に入っていく小さな人影。
「あのクソガキ……何やってんだ?」
リーシャが呪言を使って操り、ルージュにぶん殴られたあの少年。
思えば散々な目に遭っている彼だが、元はといえば彼自身の言動がすべての原因だ。
少なくともリーシャにとって同情の余地はない。
しかし……。
(バカが……! 森に魔物が出ているのを知らないのか……!?)
リーシャは紅茶のカップを窓際に置くと、帽子を拾い急いで屋根裏部屋を降りた。
夜は必要のない‶夜陰の三角帽子〟だが、これはもはやリーシャにとって命の次に大切なものだ。
しっかりと被り、玄関の扉を乱暴に開け放って外へ出た。
「──てめェリーシャッ!! 何でここへ来た!!」
森に入って少し、リーシャはルージュ含む村の大人たちの集団と出会った。
少年を見つけるより先に。
「私だって来たくて来たわけじゃないっ! あのクソガキが森に入ってくのが見えたんだ!」
「ラザムが? ち……!」
「あの子の両親は今も前線で戦ってます。もしかしたらそこへ行ってしまったのかも……!」
「仕事を増やしやがってガキが……! おい、ここの治療は粗方終わった。治療を受けた奴は念のため下がって休憩。そのついでにラザムを探させろ。横に広がって、巻狩りの要領でな」
「わかりました。ルージュさんは?」
「あたしは前線に行く。リーシャ、お前はみんなといっしょに帰れ」
「ばばぁも戦いに行くのか!? そんなことして大丈夫なのか……?」
「んん~~? おやおやいじらしいねぇうちの孫は。あたしの心配をするなんてねぇ~?」
「茶化すなよっ! 本当に……ホントに心配してるんだぞ!!」
「まぁまぁ、リーシャちゃん落ち着いて。大丈夫、ルージュさんは昔‶軍医〟だったんだ。魔王軍の一員として、戦争の最前線で傷ついた兵士たちを癒していたんだよ。だからこれくらいの戦い慣れっこなんだ。今までも、村のみんなを何人も救ってくれたんだからね」
「軍医……? そうだったのかばばぁ……」
リーシャは村長の息子の諭すような言葉を受け、ルージュを見上げた。
ルージュは身体ごと目を逸らすと、不機嫌そうに舌打ちする。
「ちっ、喋りすぎだヴィレオーサのガキ」
「あ……すみません、隠していらっしゃったんですね……」
「隠してはねぇよ。血生臭い話を聞かせるには早ぇってだけだ」
「そうでしたか……ま、まぁとにかく! そういうわけでルージュさんなら大丈夫なんだよリーシャちゃん! だから安心してお家で待っててね?」
この雰囲気、大人と子どもの間にある決定的な隔たりを感じる。
ついていくのは不可能だろうとリーシャは判断した。
特にルージュは、リーシャがどんなにゴネようとも許してはくれない気がする。
「……わかった」
だからリーシャは、大人しく治療を受けた皆とともに家に帰った……フリをした。
玄関まで送ってくれた村人に別れを告げ、家の中に入ってタイミングを見計らう。
村人が引き払ったのを窓から確認すると、リーシャは急ぎつつも静かに玄関の扉を開けた。
あの少年の向かった場所……リーシャにはひとつだけ心当たりがあるのだ。
(まさかな……)
森の中の小さな広場。リーシャお気に入りの場所。
自意識過剰にも思えて嫌な想像だ。
あのクソガキが、私を心配してあそこへ向かった可能性なんて。
「都会女~~! おーいっ! 居るんなら出てこ~~い!」
(あんのクソバカガキ……ッ!!)
案の定。
木々の向こうから聞こえる声に、リーシャは苛立ちながらも走る速度を上げた。
「魔物が出たんだぞー!! 危ねぇから帰れよー! おーいっ、いねぇのか? いねぇんだなっ? じゃあおれももう帰るからなぁー!」
「オイおまえェッ!!」
「あっ、いた──ぶぇッ!?」
振り向く少年を駆ける勢いのままにぶん殴り、吹っ飛ばす。
「なんでここへ来たッ!!」
「はぁ!? お前を探しに来てやったんだろうがッ! いっつも一人だから、魔物が来てんの知らねぇかもって思って!」
やはりというべきか、少年はリーシャを探しにこの広場に来てしまったようだ。
リーシャを心配してのことらしいが、リーシャ自身は少年のバカさ加減に呆れを通り越して怒りさえ感じていた。
「私は家にいたッ!! 確認するならうちに来ればよかっただろッ!」
「だって家知らねぇんだもん! おれには教えないようにされてんだよ! もう悪いことしねぇようにってさ!」
「~~~~ッ! じゃあ他の奴に頼めば──ッ、ああもういい! さっさと帰るぞ! ここは危険だ!」
「大丈夫だって! おれの父ちゃんと母ちゃん強ぇから! てかむしろこのまま合流しに行ったほうが安全なんじゃね!?」
(このクソバカ……呪言で無理やり連れていってやろうか)
ルージュの言いつけを守るなら‶従属の呪言〟は使えない。
しかしこのクソガキが素直に言うことを聞くとも思っていない。
だからいざとなれば、リーシャは呪言を使ってでもこの少年を連れて帰るつもりだった。
だからこそ大人たちには内緒でここに来たのだ。
「バカ言ってないで帰るぞ。早く立てッ!」
「わ、わかったよ……でも安心しろよ。いざとなればおれがみんなを護るんだからな!」
「私のことを寄ってたかって笑ってた奴が何言ってんだその口で。行くぞ」
「は、反省してんだって……これからはお前のことだって護ってやるつもりでさぁ──っ!?」
ひとり踵を返しさっさと帰ろうとしたリーシャだったが、息を呑む少年の声に振り返った。
そして彼の視線の先、そこにいる異形に気がつく。
「ひ…………ぅ、ぁ……」
「……なん、だ、こいつ……っ?」
喉がカラカラに乾いているのは、ここまで走ってきたからだ。
そして少年を怒鳴りつけたから。
だけどその渇きがいつまで経っても癒されないのは、乱れる呼吸が収まらないからだ。
森の中から現れた魔物の異質さ。
そのあまりにも恐ろしい姿に。
「なん、なんだよぁ、あの目……ッ!」
少年が足を震わせ、どさりとその場で尻餅をつく。
魔物の瞳がその様子を追った。
断面。
ウマに似た姿の魔物、だが首から先はまるで切り落とされたかのように存在しない。
代わりに、その断面にあったのは大小様々な無数の瞳。
ぎょろぎょろと蠢くそれらが確かに、少年とリーシャを静かに見据えていた。
「立て…………逃げるぞ……!」
小さく小さく、リーシャは魔物を正面に捉えたまま少年へ囁く。
声を潜め、魔物を刺激しないように。
そうしなければならないと思ったからではなく、恐怖ゆえの無意識にそう強いられた。
「ぃ、ひぃ……おま、お前……っ」
「頼むから早く……静かに早く立て……ッ」
「はぁ……はぁッ、ぉ、おれ……お前、は……ひッ!」
魔物が……‶首なし馬〟が一歩踏み出す。
そこでリーシャは気がついた。
魔物の姿、その異形は首の有無や瞳の多さだけではないことに。
(人の……腕?)
泥や草にまみれて肌の色すら判別できない。
だが魔物の‶両前足〟は、確かに人の腕のような形をしていた。
地を踏んでいるのは足ではなく手のひら。
しかもその腕は一本ではなく、ねじれて絡み合う複数の腕で構成されていた。
それが一本の足のようになり、前後に広がった手のひらが大地を踏みしめている。
一歩……あるいは一手とでもいうべきか。
また魔物が踏み出し、二人は身を強張らせた。
だが向こうもまだこちらを警戒しているようだ。それ以上踏み出しては来ない。
もしかしたらあの泥まみれの身体は、奴もここまで必死に走ってきたからなのかもしれない。
必死に、前線での戦いから逃れてきたからかもしれない。
バクバクと痛いほどに激しくなっていく鼓動。
眼前に迫る死の気配にリーシャの緊張は際限なく高まっていく。
追い込まれた獣ほど、危険なものはないのだから。
「‶永劫〟──」
呟く。
乱れる呼吸をなんとか抑え込み、少年だけに聞こえるような小さな声で。
「──‶支配の調べ〟」
詠唱。
静かに、刺激しないように。そう思うほどに鼓動は早まる。
もしかしたらこの魔物を‶従属〟させることも可能かもしれない。
だけど、恐ろしくて大きな声は出せない。
大声を出してしまえばきっと、あの魔物は呪言を詠唱し終わるより早く攻撃を仕掛けてくるだろうから。
それに魔物を操れるかどうかはまだ試したこともない。
だから少年を精神操作して、一目散に逃げる。それしか助かる手段はない。
「‶汝、空ろを埋める〟──」
喉が渇いて声がかすれてしまいそうだ。もしそうなったらこれは失敗する。
だけど無事、リーシャは唱え終わることができた。そして命じる。
「【従属せよ】……! ‶立て〟クソガキッ! ‶走るぞ〟ッ! 今だけでいいから‶恐怖を忘れろ〟ッ!」
呪言によって少年の精神を掌握。
命じると同時にリーシャは翻り、駆け出そうとした。
少年と共に走り、戦える大人のいる村まで逃げるために。
だが少年は、リーシャの思惑とまったく逆のことをした。
「っ……うぉおぉおおおぉおおッッ!!」
立ち上がった少年が叫び声を上げ、魔物へ向けて駆け出す。
「!? 何やって──ッ!」
「逃げろ都会女! おれが時間を稼ぐッ!」
「──はぁ!?」
駆ける少年の手に輝く、黒い光。
彼は闇魔法を使ってあの魔物へ立ち向かうつもりなのだ。未熟なはずの、彼自身そう自覚しているはずの魔法を使って。
(‶私を護れ〟なんて命じてないぞッ!?)
困惑に言葉が出てこない。
それはほんの一瞬だけのはずだったが、たったそれだけの時間で少年の結末は決まった。
少年とほぼ同時に魔物が駆け出す。
リーシャは必死にこの状況を作り出してしまった原因を考えていた。
‶私を護れ〟なんてことは断じて命じていない。命じたのはたった三つ。
立ち上がること。走ること。恐怖を忘れること。
たったその三つだ。
少年は魔物への恐怖心に走ることは当然、立ち上がることすら困難な状況にあった。
だから恐怖を忘れるよう命じたのだ。そうすれば逃げられると思って。
だが少年は立ち向かうことを選んだ。
彼自身が言っていたとおり、リーシャを逃がすために。
(なんて命令すれば──っ!)
逃げろ? ……もう遅い。
魔物はすでに少年の眼前にいる。逃げることなど到底できない。
避けろ? ……不可能だ。
魔物は駆け出すと同時に土魔法を発動し、大地を隆起させている。まもなく彼は向かってくるそれに飲み込まれ、ズタズタに引き裂かれるだろう。
やめろ、止まれ、戻れ、防御しろ。
どんな言葉もこの状況を打破できない。どうしようもなく少年は死に至る。
リーシャが‶従属の呪言〟を使ったせいで。
少年の放った闇魔法が、隆起する土魔法に容易く防がれる。
魔物は防ぐつもりすらなかっただろう。そこにあったのは、ただ圧倒的な力量差だけ。
もう希望はない……リーシャがそう思った瞬間だった。
「どけェッッ!!」
突如現れた影が、少年を横から蹴っ飛ばした。
影は飛び蹴りの勢いのままに隆起する地面を飛び越え、少年と共にその向こう側へ着地する。
「……てめェ立派だぜラザム……無謀って言葉を飲み込んでしまいそうなほどにねぇ」
「──ばばぁっ!!」
窮地を救ったのはルージュだった。
彼女は地面を転がる少年の首根っこを掴むと、リーシャのいる後方へと放り投げる。
そして闇魔法を展開。月明かりの降る木々の影から鎖を伸ばし、魔物を拘束した。
「今のうちに逃げな、リーシャ」
「待てばばぁ! その怪我……っ!」
投げつけられた少年に動かないよう命じると同時に、リーシャはルージュの脚に裂傷を見つけていた。
左足、ふくらはぎの外側。大きくはないが小さくもない切り傷。
おそらく先程の土魔法がかすめてしまったのだろう。
魔物が自身の両前足を拘束する黒い鎖を引き、ギチギチと音を立てて軋ませる。
「舐めんな。こんくらい何ともないさ。自分で治せるしね。いいから逃げろ」
「ばばぁあれに勝てるのか!?」
魔物を拘束する鎖に小さなひびが入っていく。
まるでオークのようだ。
人の腕と同じ形をしたその両前足の太さも、力強さも。
だがルージュはからりと笑って余裕を見せた。
「勝つ必要なんてない。じき他の奴らも来る。あたしは時間を稼ぐだけでいいのさ。お前らがいたらむしろ邪魔なんだよ」
「そう、なのか……」
「だから今度こそ大人しく待ってろよ、バカリーシャ」
「……わかった……わかったよバカばばぁっ! ほら行くぞクソガキ!」
「あ、ああ……」
少年を促し、リーシャは駆け出した。
「いいのかよ、お前のばぁちゃん……」
「大丈夫だ! ばばぁは軍医だったんだって! このくらいの戦場慣れっこなんだって! だから大丈夫だ!」
「え、マジかすげー! 軍ってあれだよな!? 他の魔族と協力して人族ぶっ倒すやつ! お前のばぁちゃんすげー!」
少年は目を輝かせるが、リーシャは一抹の不安に襲われていた。
自分は今、この少年と同じことをしてしまってないだろうかと。
少年と同じように、家族の無事を無条件に信じてしまっていないだろうか。
自分と自分の家族だけは大丈夫と、高を括ってしまってはいないだろうかと。
(大丈夫……大丈夫……)
心の中で唱え続ける。
家族……そうだ、家族なんだ。ばばぁは家族なんだ。
もう家族を失うのは嫌なんだ。
「死ぬなよ、ばばぁ……」
少年にも聞こえないほど小さく呟く。
唱えなければ、不安に押しつぶされてしまいそうだった。
村には無事辿り着くことができた。
家に戻ったリーシャは冷めきった紅茶を二階から回収して、リビングでルージュを待つ。
紅茶を飲む気にも、読書をして時間を潰す気にもなれず、落ち着きなく二階に上がって窓からを外の様子を確認したり、そわそわとリビングを歩き回ったりして。
一時間ほどか、あるいはもっと短い時間か。
ルージュは帰ってきた。
いや……正確には帰ってきたという報せを聞いた。
どうして彼女自身がここに来ないのか。
リーシャはその疑問から目を逸らし、報せを持ってきた村人と共にルージュのいるらしい場所へと向かった。
怪我をして動けない状況なのだろうか?
村人は沈痛な面持ちをしていたが、リーシャはその理由を聞くことができなかった。
最悪の想像から、ほんの少しの間でも目を逸らし続けたかったから。
事の顛末は、村の屋外に急遽設置された安置所で知った。否が応でも知ってしまった。
死体安置所だ。
帰ってきたのは絶命し、今なお冷たくなっていくルージュだった。




