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旧魔王に聖なる封印を!  作者: モタモタ猿
第二章 冷たさにゆらめいて
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29.与えられた役割


 闇の中から白い影が躍り出る。

 人型の魔物。その体躯と対照的な黒い直刀。

 襲い来る闇の刃の連撃を、リーシャもまた闇魔法で包んだ腕で対処する。


 海溝に剣戟の音が響く。

 やはりあのどっちつかずの巨体でなければ海流は操れないらしく、海溝は穏やかさを取り戻していた。

 リーシャは左手に繋いだ影のロープを手繰り、その場から一時離脱。

 魔物は深追いせず、再び闇の中に姿を隠した。

 ゼレウスのいる岸壁の窪みを背に、リーシャは海中で構える。


 海中で本来の実力が出せていなかったとはいえ、‶旧魔王〟であるゼレウスを瀕死の重傷にまで追いやった白い人型の魔物。


 顔のパーツは口だけしかなく、目元のあたりはヴェールのようなものに隠れている。

 二枚の生地の根元だけが重なって左右に広がり、前が短く後ろが長い前後非対称のスカート。

 のっぺりとした起伏の少ない真っ白な脚。

 フリルのような長い袖が両腕を隠しており、その中がどうなっているかはわからない。


 魔物に必要だとは思えないが、その姿はまるでドレスを身に纏っているかのようだった。

 ドレスには細い赤のラインが入り、他のウミウシのように鮮やかな色合いになっている。


 だがヴェールやドレスに見えるそれらもすべて、奴自身の皮膚だろう。

 他のウミウシの魔物たちが鮮やかで多様な姿をしていたのと同じように、あの不気味な人型も生まれつき奇妙な姿を持っているということだ。



(もうあの巨体にはならないのか……? それとも……)



 もし奴がもう一度変身し今までの形態のいずれかに戻られたら、リーシャ一人では太刀打ちできない。

 あの敵の知能は低くはないはず。

 ゼレウスが今戦えない状況にあることも理解しているだろう。

 それでも変身をしないのなら──



「上かッ!」



 頭上から振り下ろされる黒刀を、余裕を持って回避する。

 と同時にやはりこの魔物の知能は高いと確信した。


 この暗闇の中にあっても、普通の攻撃ではリーシャにとって奇襲にならない。

 暗視能力があるためだ。


 そしてそれを数回斬り結んだだけで理解したからこそ、奴は虚を突くために頭上から襲い掛かってきた。

 それだけの知能があるのなら、敵はリーシャに対して変身が有効であることを理解している可能性が高い。

 が、それでも奴は変身しない。



「オラァッ!!」



 振り下ろされた黒刀を左手で弾き、懐に入って魔物の顔面を殴りつける。

 魔物が怯んだ隙にもう一撃。

 しかし水中では踏ん張りがきかないため、大した威力にはならない。少々体勢を崩させる程度のものだ。


 予想外の反撃に怯みながらも魔物は黒刀を振り上げ、リーシャへ向けて降り下ろした。

 が、リーシャは身を引くことでそれを回避。

 魔物の連撃。身を引いたリーシャに対し、押し込むような突き。


 しかし半身になって避けられ、魔物は黒刀を引いた。

 もう一度突き……と見せかけ、ひそかにもう一本の黒刀を左手から伸ばす。

 フリルのような袖も相まって、リーシャからは見えない角度。

 魔物の動作は右手の剣を引き戻す動きではなく、左手の剣を下段から振るうための予備動作だったのだ。


 突きよりも早い攻撃。予測困難な左手での斬り上げ。

 だがリーシャはそれを完全に見切り、逆にカウンターの拳をぶち込んだ。



「その程度で不意を突けると思ったか?」



 やはり大した威力ではないが、魔物は驚愕と警戒に身を引いた。



「……どうした? 変身してみろよ」



 手の甲を向け、指先をクイクイッと動かして挑発してみせる。

 変身しないのではなく、できない。

 リーシャが挑発をしたのはそれを確かめるためだ……といっても魔物相手に言葉が通じるとも思っていないが。



(ゼレウスの攻撃は無駄じゃなかった……こいつは今弱ってるんだッ! あの巨体に変身できないほどに!!)



 魔物が再び闇の中に身を隠す。

 ひらひらと揺らめくドレスのような皮膚が動作を補助しているのだろう。水中においても魔物の動きは素早い。

 同じ人型でも、機動力は相手のほうが圧倒的に上。

 たとえゼレウスを護る必要がなかったとしても追いかけることは不可能だっただろう。



(でも……‶従属の呪言〟なら)



 奴を捕らえ、ほんの少しの間でいいから自由を奪えれば。

 ‶従属の呪言〟を使い、リーシャは勝利することができる。

 だが──



「くっ……!」



 悩む暇もなく、闇の向こうから次の攻撃が襲い来る。

 投げナイフだ。リーシャは闇を纏った腕でそれを打ち払う。

 黒いナイフ、闇魔法だろう。ということはつまり。



「おいおい、マジか……」



 魔法ということはつまり、どれだけ投げてもなくならないということ。

 無数のナイフが海溝の闇から飛来する。



「ズルいぞッ! 挑発したの謝るから直接来いッ!」



 泣き言を言いつつナイフを両手で弾いていく。

 ゼレウスならこのすべてを捌くことができただろう。

 が、リーシャでは数秒持たせるので限界だ。闇の盾を使わないと凌ぎきれない。



「くそッ!」



 盾を展開、視界が黒い膜に遮られる。

 少し離れてはいるものの、背後の窪みには身動きの取れないゼレウスがいる。闇のロープでこの場から逃れることはできない。

 無数のナイフを盾が弾く。

 その衝撃の中に紛れるように、一本のナイフが斜め下から潜り込んできた。



「うぉッ!?」



 脇腹を貫かれる前になんとか弾くことができたが、背筋が寒くなる思いだった。


 現在、最も重要なことは魔力を節約することだ。

 遠隔でのゼレウスの治療、腕に纏った闇魔法、呼吸を確保するための魔道具。

 これが今のリーシャの使用している魔力の内訳である。

 さらに攻撃や防御のために新たな魔法を使ってしまえば、言うまでもなく消費は加速していく。

 そのうえもし怪我をし、治療の必要が出てしまったなら。



(魔力を使いすぎたら、勝とうが負けようがここで溺れ死ぬ……!)



 ゼレウスの復活まで時間を稼ぐことが勝利条件だが、だからといってただ耐え続けていればやがて限界が来る。

 待っているだけではゼレウスの復活より先に死が訪れるのだ。

 ナイフの雨を凌ぎながら、リーシャは反撃の覚悟を決めた。


 盾の横からコーティングした腕を前方へかざす。

 手のひらや腕にナイフがぶつかるが、構わず影のロープを伸ばした。

 ロープは反対側の岸壁へ到達。展開した杭がリーシャの右手と壁とを繋ぐ。



「うぉおおぉおおおおッ!!」



 ロープを勢いよく縮小させ、盾を構えたままナイフの雨の中を突っきった。

 目指すはこの黒い雨の向こう、魔物の潜む闇の中。



「オラァッ! 抜けたぞ!!」



 ぶつかるナイフの衝撃がなくなり、リーシャは到達地点を盾で薙ぎ払った。

 奴はいない。逃げたのか。

 そう思って周囲へ視界を巡らせたリーシャの目に、白いフリルのドレスが映る。

 それが闇の向こうへと消えた。

 ゼレウスのいる、窪みの方向へと。


 ちらりと見えたのっぺらぼうは、小さな笑みを浮かべているようにも思えた。

 奴はゼレウスを狙っている。

 それを理解した瞬間、リーシャの中に強い怒りが沸き上がる。



「させるかッ!!」



 再び影のロープを左手から伸ばし、手繰る。

 直線的な動きしかできないが、この方法なら奴よりも早く動けているはず。

 予想どおり視認できた白い後ろ姿へ、リーシャは闇魔法を放った。


 奴の放ったナイフより上等な、黒い槍。

 消費は大きくなるが仕方ない。ゼレウスへ攻撃させないため、絶対に対処を強いる必要があったからだ。

 狙いどおり魔物は背後のそれを察知し、ひらりと身を躱した。

 ……確かに狙いどおりではあるが、当たってくれれば楽だったのに。

 リーシャは忌々しげに目を細めながら、黒刀を両手に身構える魔物へ再び魔法を放った。


 影のように薄っぺらな闇の爪。

 円筒状に伸びたそれが牙のように魔物へ襲い掛かる。

 が、今度は闇の盾によって凌がれた。

 爪が盾の丸みに弾かれ、外側に広がって岸壁へと受け流される。



「私の盾を真似しやがって!」



 今度は右手からロープを伸ばし、岸壁へ打ち込んだ。

 魔物はロープを躱すと黒刀を使って削るように押さえつけながら、リーシャへと肉薄。


 リーシャは空いている左手を使い、魔物の斬り上げを迎撃した。

 が、弾けたのは最初の一撃だけ。

 続くもう一方の黒刀がリーシャの右脇腹を思いきり貫いた。

 致命的な一撃が入りのっぺらぼうの口角が上がる。



「ぐ……ガァッ!」



 しかし獣のように呻きながらも、リーシャは突かれた黒刀を右肘で叩くように抑えこみ、今しがた攻撃された脇腹との間に挟み込んだ。



「っ……!」



 痛みに耐えながら、驚く魔物のもう一方の黒刀を左手で掴み、反撃を封じる。


 リーシャが横腹を突かれた時、海溝には硬質な音が響き渡っていた。

 硬質な音……つまり、闇魔法のコーティングの音が。

 裂けた服の間から、黒く染まったリーシャの肌がちらりと覗く。

 リーシャは魔物の攻撃する位置を予測し、闇魔法でコーティングすることで致命傷を免れたのだ。


 魔物は抵抗するが、組み付いてしまえばヴァンパイアの膂力は魔物にとっても脅威。

 すぐには逃れられない。



「っ……このロープ、なんで伸ばしたかわかるか? 移動のためじゃあない……」



 ロープを伸ばしてみせれば、逆に魔物のほうから接近してくるとリーシャは考えた。

 どうせ追いつかれるのなら攻撃を仕掛けてくるだろう、と。

 だからこそ罠を仕掛けることができた。



「闇の爪も、お前に当てるために伸ばしたんじゃない。後ろの岸壁をくり抜くために伸ばしたんだ……」



 シュルシュルと音を立てて、リーシャの右手のロープがものすごい勢いで収縮していく。



「杭はそのくり抜いた壁へ打ち込んだ。ロープも、闇の爪も、役割は‶今〟だッ! 今からその役目を果たすッ!」



 ロープの先には、岸壁からくり抜かれた巨大な岩の塊が。

 ズシリと重量感を持って壁から離れたそれが、魔物の背後からゆっくりと迫る。

 その重さに抗い、加速。やがて速度に重さが乗って、さらに加速。


 リーシャが魔物の腹を蹴り飛ばし、両手を魔物から離して身体を回転させる。

 回転の勢いでロープを引っ張り、岩がもう一段階加速。


 リーシャが一回転し終わると同時に、岩が魔物の背中へ着弾した。

 背後から岩に圧され、魔物の身体がリーシャの真正面へ岩ごと吹っ飛んでくる。

 役目を終えたロープの魔法を解除し、リーシャは力強く拳を握り込んだ。



「全部ッッ、お前をぶん殴るためだァアァアアッ!!」



 回転の勢いそのままに、拳を魔物の胴体ど真ん中へ。

 衝撃に岩が砕け、打撃の挟み撃ちになった魔物がその場でがくりと力を失う。

 リーシャはその身体に正面から抱き着いた。



「捕まえたぞこれでッ……! 《影の戒牢》ッ!」



 魔力の温存のため、密着した二人を包み込む程度の広さで魔法を発動。

 自分もろとも、黒い球体の中へ閉じ込める。これで奴は逃げられない。

 リーシャもまた魔法の効果によって身動きができなくなるが、代わりに闇の檻から内部へ攻撃を繰り出すことが可能になった。

 だがリーシャは拘束することを優先し、闇のロープで魔物を雁字搦めにする。

 この状況でなら使える、必中必殺の異能がリーシャにはあるからだ。


 抱き着いたまますでにその詠唱は始めている。

 静寂の中、リーシャは小さく小さく呟く。

 そして最後の言葉。



「──【従属せよ】」



 唱え、リーシャは細く息をついた。

 これで戦いは終わりだ。

 ゼレウスの力を借りることなく勝てたことに、ささやかな喜びと充足を感じる。

 だけど、勝てたのは彼がいたからこそだ。

 ゼレウスを護りたいと思ったからこそ覚悟ができた。力が湧いてきた。



(どうやってゼレウスを労ってやるか……まずは望みどおり水族館に行って……なんなら私が色々解説してや──)



 ドッ……と身体が揺さぶられる。

 何事かと、リーシャの思考は一瞬途切れた。

 魔法を展開したままで暗いし、白い人型に抱き着いている状況じゃ何も見えない。

 だが……違和感に気づく。


 痛みだ。違和感の正体は小さな痛みだった……だけど時間が経つごとに、それが明確になっていく。

 この痛みはどこまで大きくなっていくのだろう?

 疑問が他人事のように思える。

 脂汗が噴き出て、背筋に冷たい感覚。

 そして……腹に焼けるような痛み。



(──は?)



 リーシャは自分の口元に流れる温かいものが血なのだと、現実を飲み込むのにやけに時間が掛かった。

 いや、実際にはそれほど長い時間ではなかっただろう。

 痛みと死の気配に、リーシャの体感時間は限界まで引き延ばされているのだから。



「がっ、ぁ、あぁ…………あアぁあァアアッ!?」



 黒刀が引き抜かれ、痛みにリーシャは叫ぶ。

 溢れ出る血が熱くて、それ自体が痛いような錯覚。

 溢れる血と対照的に、冷たく感じる自分の身体。

 制御を失ったために《影の戒牢》は解除され、彼我の距離が離れた。



(そんな……)



 揺れる視界の中で、白いドレスがひらひらとはためく。

 赤く染まった黒刀から海中へ、ゆらめく炎のように血が溶け込む。

 あれがすべて自分の血だと思うと背筋が凍る。



(まさか……いやまさかそんなこと……っ)



 息をするだけで痛みが増すため、リーシャは息苦しいまでに呼吸を細めていった。


 どうやら、‶従属の呪言〟による精神操作は失敗に終わったらしい。

 唱えるだけで発動する、それが‶呪言〟というものだ。

 唱え、それを聞かせるだけ。扱う言語の差異も、言語能力の有無すら関係ない。

 だがもしそれが効かない相手がいるとするのなら。



(こいつ、聴覚がないのか……!?)



 それ以外に考えられない。

 思えばあの時。リーシャが腹部を闇魔法で防御した時、魔物はほくそ笑んでいた。

 リーシャに致命傷を与えたと思い込み、確かに笑った。

 鳴り響いた硬質な音を聞けば、何か異常が起きていることはすぐにわかったはずなのに。


 魔物は聴覚がないからそれに気づけなかったのだ。

 気づけなかったから勘違いをし、笑みを浮かべたのだ。

 そして聴覚がないから……‶従属の呪言〟が効かないのだ。



(……私は……、余計なことをしたのか……?)



 ゼレウスの役に立ちたかった。こんな風に足を引っ張りたくはなかった。



(違う……私は、ただ…………ただ、いっしょに並び立てるような……)



 ゼレウスとフュージアは属する種族の垣根を超え、同じことを願った。

 エレイナは自らのすべてを懸けて、本気で平和を目指した。


 完全に脱力したリーシャは海溝に沈み込もうとしている。

 魔物が冷たく黒刀を持ち上げる。


 ただ、三人と並ぶに相応しい資格が欲しかった。

 三人のような‶ひたむきさ〟が。

 無意識に、彼への謝罪の言葉が口をついて出る。



「す……な……ぃ、ゼレ……ス……」



 ゼレウスに並べる強さは持っていない。

 フュージアほど確かな意思は持っていない。

 エレイナのような覚悟は持っていない。

 あるのはこの肝心な時に役に立たない‶呪言〟と、苦く冷たい記憶だけ。


 リーシャは諦観に目を閉じ、ゆっくりと落ちていく海流に身を任せた。

 沈みゆくその身体へ、魔物の黒刀が振り下ろされる。



「謝るのは我のほうだ」



 幻聴が聞こえた。黒刀に斬り裂かれるより早く。

 まだ治療が終わっていないはずの、彼の声。



「待たせてすまなかったな……リーシャよ」



 穏やかな声色。

 温かな感触に優しく支えられ、リーシャは再び目を開く。



「意識を強く持てリーシャ。もう大丈夫だ」



 そこには振り下ろされた黒刀を掴み、こちらを覗き込むゼレウスの姿があった。

 リーシャの視界が歪む。

 揺らめく海流ではなく、滲み出す涙で。



「……静かにしろ。リーシャの傷に(さわ)る」



 続けて振るわれるもう一方の黒刀を、ゼレウスが片翼を展開して防ぐ。

 彼は右手で掴んでいる黒刀を握り砕くと、そのまま裏拳を魔物へ振るった。

 魔物は左手の黒刀で防御し直撃を免れるが、代償に左手のそれも砕かれる。

 根元から折れた剣を見た魔物が一瞬、きょとんとしたように見えた。



「ゼレウス……まだボロボロじゃないか……っ」



 震える手を彼へ伸ばす。

 敵を前にしているのにそんなことをしてしまったのは、きっと安心感からだろう。

 彼の傷はまだ半分も癒えていない。

 だけど、ゼレウスは微笑む。



「お前のおかげで助かったのだ。ありがとうリーシャ」



 彼は震える手を優しく取ると、リーシャの腹部の傷にあてがった。



「傷口を抑えていろ。魔力はまだあるな? 治療はできるか? 帰りの心配はしなくてよい。‶風の泡葉(バブル・リーフ)〟には我が魔力を籠める」



 そう言うと彼はリーシャの腰につけた‶風の泡葉(バブル・リーフ)〟に触れ、実際に魔力を注ぎ込む。

 これで帰りの分の魔力は持つことだろう。

 痛みに集中力をかき乱されるため、リーシャはいつもより乱暴に魔力を操った。

 消費が少々激しくなってしまうが仕方がない。

 彼を癒す分の魔力は残しながらも、リーシャは自身の治療に専念し始めた。



退()け」



 冷たい声を魔物へ投げ掛けながら、ゼレウスがもう片方の翼を展開。

 魔物は両手の黒刀を再生成しながら、跳ねるように後退して身構えた。

 ゼレウスは自分からは手を出さず、リーシャを両手で抱きかかえて、ただ魔物の横を羽ばたいて進む。

 一見無防備に見えるが、魔物は手を出せなかった。

 手を出せば手痛い反撃をくらうと、本能的に理解していたから。


 ゼレウスは岸壁の窪みまで飛行するように泳ぐと、そこへリーシャを仰向きに横たえた。



「治療に専念し、ここで待っていろ。あとはすべて──」



 返事を待たずして、彼は翻った。



「──我に任せろ」



 言い残し、岸壁を蹴る。

 リーシャはその背中を目で追った。

 横を向き、涙が目元を伝って落ちる。

 最初は安堵で滲んだはずの涙だったが、今はもう別の意味になっていた。



(行かないでくれゼレウス…………私も、いっしょに……)



 悔し涙。

 彼に助けられ命を救われた今、安堵に泣く必要はもうない。

 リーシャはその背中に置いて行かれる寂しさと、その背中に追いつけない悔しさに涙を流していた。


 人には役割がある。



 ──なら、‶従属の呪言〟使いに与えられた役割は一体なんだ?



 身に纏う風の魔法に遮られて、涙は海中に溶けていかない。

 この海溝よりも温かいはずの涙を、リーシャはひどく冷たく感じた。


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