27.困難を前に
「来るぞゼレウスッ!!」
無数の溶岩の棘。それを操る激しい海流。そして異形の巨体。
岸壁を背にそれらが迫る。逃げ道はない。
だが、逃げ道がないのなら作ってしまえばいい。
「何を!?」
ゼレウスが岸壁へと振り返り、背中にしがみついているリーシャが驚愕の声を上げる。
背後から迫っているであろう無数の脅威に焦燥感はあったが、ゼレウスが自分を盾にしようとしているとは微塵も思わなかった。
そもそもリーシャの身長と体格では盾にすらなれないが。
ゼレウスの拳が岸壁に打ち込まれ、大きな亀裂が入る。
「闇の盾を、リーシャ!!」
「!」
ゼレウスは踏み込むような前蹴りで剥がれた岸壁を砕き、二人の身体が入る程度の窪みを作り出した。
彼は再び反転し、リーシャを奥にその窪みの中へ入り込む。
意図を理解したリーシャはすぐにゼレウスの肩口から手を伸ばし、窪みを覆うように魔法を展開した。
「うぉおぉおおぉおおッ!!」
着弾、着弾、着弾。
展開した黒い盾で見えないが、無数の棘に防壁が削られていくのが感覚でわかる。
限界はすぐに訪れた。
棘の一本が闇の盾を貫通し、ゼレウスの眼前ギリギリで止まる。
が、彼は眉ひとつ動かさない。
「‶奴〟はもう離れたか。少し待っていろリーシャ」
「外に出るつもりかゼレウス!?」
ゼレウスは貫通している棘を掴んで砕き、盾の向こうへ踏み出すことでその答えとした。
闇の盾は内側から出るものを拒まない。
ぬらりと艶めくその向こう側へゼレウスが消える。
途端、闇の盾へ響いていた衝撃が嘘のように止んだ。
代わりに、その周囲の岸壁から何か重い物がぶつかる音が聞こえる。
ゼレウスが棘を受け流しているのだろう。
これなら大丈夫そうだ。
だが……好転する戦況とは対照的にリーシャの心は沈んでいた。
(そうか…………私が足を引っ張っていたのか……)
自分を背負っていたから、ゼレウスは全力を出せていなかった。
魔物がその巨体での攻撃を諦めたのは、リーシャが闇魔法で姿を隠したおかげである。
だけど、それでも。
つい考えてしまう。自分は彼に‶仲間〟と呼ばれるに相応しい存在なのか、と。
心の動揺に魔法の制御が疎かになる。
闇の一部が溶け、穴の開いた盾の向こう側にゼレウスの背中が見えた。
彼は棘のすべてを凌ぎきったらしい。
手を差し伸べ、こちらを安心させようと小さな笑みを浮かべる彼に、複雑な感情が湧き出てくる。
リーシャは引け目のようなものを感じながらもゼレウスの伸ばした手を取り、壁の窪みから出た……が、その瞬間。
「うおっ!? ゼレウス上!」
頭上の岸壁に張り付く巨体にリーシャは気がついた。
すぐにゼレウスへ伝えるが、続く反応を見るに彼もすでに気づいていたとわかる。
いや、気づくのも当然だ。海溝の影の中からこちらを覗くその白い巨体は、身体からおぼろげな緑の光を放っているのだから。
「ああ、わかっている。しかしどうしてか、攻撃してこない」
「なぜだ……今度こそ別の個体というわけじゃないよな?」
「可能性はあるが……見ろ。顎……と呼んでいいのかわからんが、薄っすらと跡がある。あれは最初の形態の時に我が殴った跡だ」
「なるほど……」
少し根拠は薄いが、希望的観測と切り捨てるほどでもない。
どちらにせよこんな巨体が何体もいて欲しくはないものだが。
しかしもし同一個体とするなら、また形態を変化させたということか。
さっきまでの青い形態に比べればウミウシらしい姿だが、シルエットは異様。
四角い頭部に左右に伸びた触覚。背中には丸みを帯びた突起の数々。
果実の房のようなその突起だが、先端は葉っぱに似て細く尖っており、まるで孔雀の飾り羽のようだ。
リーシャはその姿に見覚えが……正確には聞き覚えがあった。
「こいつ……光合成をするウミウシか?」
「なに? では背負っているのは植物か」
「いや、確かにあの背中の器官で光合成をするらしいが、あれが植物ってわけじゃない。奴は食った海藻を取り込むんだ。……といっても本来のウミウシなら、って話だが」
体色は白を基調にところどころ薄い橙色の線が入り、背負っている突起は緑色から先端は白、黒の順に変化している。
ぼんやりとした緑色の光はその突起から放たれているようだった。
「あの光は魔力灯だな。ダンジョン内部など、魔力に満ちた場所に見られる。封印されていた頃はあれを眺めて過ごしたものよ」
「改めて聞くと壮絶だな……いやそれより! 魔力灯ということは、奴は今魔力を回復させているんじゃないか!? 光合成で回復してるんだ! 暗いとはいえ光がないわけじゃないからな! 今すぐ阻止して──!」
「待て」
微動だにしないウミウシの顎をかち上げてやろうと外套の裾を捲るリーシャだったが、ゼレウスに止められる。
「回復をしているのが事実なら、なぜ‶奴〟は隠れない? 情報を伏せる意味でも、時間を稼ぐ意味でもそれは有効なはずだ」
「……確かに。こいつの知能が低いとは私も考えてはいない。姿を見せているのは理由がある、か」
「上にいるのは少しでも太陽に近づき、光合成を促進するためだろう。隠れていないのは、我が闇の盾を張ることを一度拒んだように、奴も我々を見失いたくなかったという可能性もある……が、我の考えは違う」
ゼレウスが砕けた岸壁の欠片を拾い、ウミウシへ向けて軽く放り投げた。
その刹那、まばたきよりも早く欠片が粉微塵と化す。
「!! カウンターか!」
「今のは風魔法だ。一定範囲内に近づいた者を自動的に攻撃するのだろう」
「どうして自動的だと? 奴自身が操作している可能性もあるじゃないか」
「今放った小石程度では奴にとって脅威にはならないはずだ。それでも迎撃をしたということは、迎撃をする必要があったか、勝手にそうなってしまったかのどちらか。おそらく最低限の防御策だけ構えて、あとは回復に専念するといったところだろう。そうでなければすでに風魔法による攻撃を仕掛けてきているはずだからな。……リーシャ、闇を伸ばして突破できるか試してみてくれ」
「よし」
鋭利に尖らせた一条の闇を伸ばし、ウミウシへ攻撃してみる。
「うぉおぉおおッ! 凄まじい密度の風魔法だッ!」
結果、無数の鋭利な風に遮られて突破はできなかった。
闇を削りきるほどではないが、突き進むこともできないほどの反撃の密度。
魔物は今も魔力を回復し続けている。
呼吸を確保している‶風の泡葉〟にも定期的に魔力を注ぐ必要があるため、こちらは魔力を無駄遣いできない。
魔法を乱打し、物量で押しきるのは避けるべきだろう。
「姿を見せているのはそれ自体が罠だということか……どうするゼレウス? このままじゃ魔力を回復されてまた海流を操られるぞ……。いや、待て……そうだ! こいつが動かないなら今のうちに逃げればいいじゃないか!」
「逃げる素振りを見せればその瞬間追いかけてくるだろう。海中では奴のほうが圧倒的に速い。奴は今我々を見張っているのだ。決して逃がさぬように」
「くそっ、じゃあ……それじゃあ一度逃げる素振りを見せて、変身したあとの攻撃をもう一度凌いで……こいつがまた回復に移ったら今度こそ逃げる……というのはどうだ」
「悪くない案だ。だが時間が惜しい」
「じゃあどうすれば……っ」
「我が殴ってくる」
「…………は!?」
ゼレウスが泰然とした笑みを浮かべる。
いつもどおりの彼を頼もしく思うが、どこか寂しくも思う。
困難を前に、自分はその力添えにもなれない、と。
「目の前に出てきてくれたことは、こちらにとって紛れもないチャンス。我が反撃覚悟で奴を殴り、仕留める。そのあとはリーシャ、お前の闇魔法で我の治癒を。……頼めるか?」
「! そうか……そういうことなら私に任せろ!」
役に立てないなどと嘆いていたさっきまで自分をぶん殴りたい気分だ。
人には役割がある。
闇魔法の適性を持っていることに意味があるのなら、それを活かさなければ。
「……だが服はいいのかゼレウス? あんな攻撃受けたら服もボロボロになるぞ? いや、その前にお前自身の心配をするべきではあるが」
「服はまた繕ってもらえばよい。シシュルトレーゼに腕のいい職人がいることはもうわかっているからな。それと……」
そう言ってゼレウスは窪みの縁にしゃがみ込みながら、ちらりと笑みを見せた。
先程の泰然とした笑みとは異なる、飢えた獣のような笑みを。
「我の心配はしなくてよい……お前がいるのだからな」
「!」
自信に満ちた言葉の中に獰猛さと信頼を秘め、ゼレウスは窪みから飛び上がった。
崖を垂直に登っていき、瞬く間にウミウシの眼前へ。
瞬間、風魔法によるほぼ不可視のカウンターがゼレウスを襲うが、それを見切った彼は跳び上がって避けた。
ゼレウスは仕舞っていた翼を標準的なサイズにまで展開すると、その角度と位置で自身の体制を巧みに操る。
風魔法による無数の小さな刃。それがあのカウンターの正体。
再びゼレウスへそれらが襲い掛かる。が、崖から離れてしまったためゼレウスはそこから逃れることができない。
いや……もう逃げるつもりもない。
無数の風の刃をその身に受けながら、しかし可能な限り回避しながら、ゼレウスは巨体の頭部を上から殴りつけた。
ぐしゃり。多大な圧力を受け、ひしゃげた鎧のように。
「まだだ!!」
風の刃がゼレウスの身体に無数の傷をつける。浅さも深さも、傷の大小も様々に。
だがそれでも彼は止まらない。
二撃目。
果実の房のような背中へ叩き込み、その身を弾かせる。どろりと緑色の何かが漏れ出す。
「まだだッ!!」
頬から、肩から、腕から、腹から、脚から。
ゼレウスが力を籠めれば、体中から血が噴き出る。
だが膨張した筋肉によって一時的に止血。
いつの間にか放たれる風の刃の数は少なくなって──
「まだだッッッ!!!」
ドン!! と海溝が揺れた。
岸壁に魔物の巨体が叩きつけられ、亀裂を生みながらめり込む。
風の刃も、ゼレウスの追撃も。それを最後に途絶えた。
力が抜けたように沈み始めるゼレウスをリーシャが受け止め、優しく抱え込む。
「ゼレウスっ……無茶しすぎだぞ……」
「賭けには、勝ったか……」
「賭けだと?」
血を吐きながらゼレウスが答える。
「身に纏った風を弾けさせないために、力を抑えるしかなかった。だから何度も殴る必要があった……」
「それであの猛攻か……いやというかあれでまだ本気じゃないのか……まったく、ホントに──」
規格外な奴だ。
そう言おうとしたのだが、ふと小石がパラパラと降ってくる。
窪みの縁にいたリーシャだったが、それがゼレウスに当たってしまわないよう少し奥へと移動させた。
すぐに彼の傷を癒そうと手をかざしたが、窪みの外を沈んでいく‶それ〟が気になってつい取りやめる。
砕けた岩だ。
今もなお沈んできているのは、岸壁から剥がれ落ちた岩の数々。
重要なのはそれが、さっきまで降ってきていた小石より遥かに大きいということ。
小石が降ってくるのはまだいい。
小さな物を動かすのは、それ相応の小さな力でしかないからだ。
緩やかな海流か、あるいはゼレウスの起こした衝撃の余波のような。
だが今なお降ってきているあの岩のように大きな物が動き、岸壁から剥がれ落ちているというのなら。
それを動かしているのは、それ相応の大きな‶何か〟ということだ。
「っ! 今すぐ回復を──っ!」
「後ろだリーシャッ!」
ゼレウスへ振り返り治療を急ごうとしたリーシャだったが、彼の切羽詰まった声色に再び振り返った。
そこにいたのは、窪みの縁からこちらへ身を乗り出すような格好の──
「人……?」
思わず呆ける。
白い、人。
さっきまでの巨体のウミウシとはまるで異なる姿。
小さな……おそらくリーシャよりも低い身長。
だがそれは紛れもない異形だった。だからこそあのウミウシが変化した姿だと本能的に理解できる。
目も耳も鼻もなく、のっぺらぼうの白い顔に口だけが存在している。
頭頂部はつるりとしているが、まるでヴェールのような白い皮膚がゆらゆらと目元のあたりを隠していた。
彼我の距離はほんの十数センチ。
下からこちらを覗き込むのっぺらぼうの白い顔が歪み、にたりと微笑んだような気がした。
「う、うおぉぉぁああッ!!」
本能的な嫌悪感に叫びながら、リーシャは反射的に攻撃を仕掛ける。
が、拳を振り抜く前にその叫びは途切れた。
「ぐっ……ごぉ……」
息ができない。
喉を斬り裂かれたのだと、首元を濡らす生温かさに理解する。
(闇魔法だと……!?)
ひらひらと揺らめくドレスの袖口のような手から、ぬらりと艶めく黒い刃が伸びている。
リーシャの眼前で振り払われたそれが闇魔法だと、彼女には容易に判別できた。
当然のことだ。同じ属性をいつも、自分も使っているのだから。
「が……オォッ!!」
喉を抑えながら、気合でのっぺらぼうの身体を蹴り飛ばす。
ウミウシ……おそらくあのウミウシの魔物と同じ個体と思われるその白い身体が、窪みの外の闇に消えていく。
距離を離すことを重視したためダメージはほとんどないはずだ。時間稼ぎにはならない。
リーシャは自身の喉を闇魔法で治しながら、窪みの縁に立った。
上を見上げ、岸壁に叩きつけられていた巨体が消えていることを確認する。
やはりあれはウミウシの魔物が変身した姿だろう。
「リーシャ、逃げろ……」
背後のゼレウスが声を絞り出す。
彼を手ずから治す猶予はない。だが治さなければ彼の命もまた危うい。
(あの野郎ォ……闇魔法を使える形態になって自分自身を治療したのか。油断した……ゼレウスですら仕留めきれないとは)
ゼレウスを置いて逃げるつもりは毛頭ない。
だから彼の言葉は聞こえないふりをしてやった。そもそも答えられるほどまだ喉は回復してないが。
そして彼の治療には時間が必要だ。この喉を癒すよりも長い時間が。
(この状況を切り抜けるには、両方こなすしかない……)
だからリーシャは普段とは違う方法を取った。
片腕だけを後ろへ向け、ゼレウスの身体を闇の中に包み込む。
硬化した闇は彼を護り、内部では黒い輝きが傷を少しずつ癒していくはずだ。
だがこの魔法に即効性はない。だから時間を稼がなくては。
(私がゼレウスを治療し、そのための時間も私が稼ぐ! 両方こなすのが今の私の役割だッ!!)
彼に治療を任されたのは自分だ。だからこの困難は一人で乗り超えなくてはならない。
海溝の闇の中へ。リーシャはひとり飛び込んだ。