21.ゼレウスなら大丈夫!
「よし、さっきは虚を突かれたが、ここからは私がしっかりと索敵するぞ! みんなついてこい!」
像の両隣の通路、ウミウシの魔物が現れたほうとは異なる通路へ慎重に足を踏み出す。
奥は聖堂だ。
横に広がる大きな部屋に、石造りの長椅子が整然と並んでいるのが薄らと見えた。
「よっ……と」
先程の部屋では不思議となかったが、神殿内部では割れた石床からところどころ海藻が生えている。
通路も同様だ。
リーシャが通路にたゆたう海藻を手で払いながら、聖堂へ足を踏み入れる。
変わったことに、上から垂れ下がるようにして生えているものもあるらしい。
天井から垂れる水色のそれをリーシャが鬱陶しそうに手で払おうとした、その瞬間。
「! 触っちゃダメリーシャッ!!」
エレイナの鋭い声に反射的に身を引く。
背後にいたエレイナに受け止められたその時、リーシャはさっきまで自分が立っていた場所、その床から生えていた海藻が半ばほどから消失していることに気がついた。
垂れ下がる水色の海藻がゆらゆらと……いや、それが海藻でないことはもうわかっている。
くちゃくちゃ……くちゃくちゃ……と。
水色のそれの咀嚼音が、リーシャの背筋を凍えさせる。
「上から襲ってくる魔物は結構多い……下がっててリーシャ。とりあえず斬り落としてみる」
「ボクの出番だっ! いっけぇエレイナちゃんっ」
新調した革製の鞘からフュージアを抜き、エレイナは迷いなく踏み出した。
風の魔法を纏っている間、水の抵抗は軽減される。
キィンと玲瓏な響きが、水色のそれを斜めに斬り落とした。
「ピィィイィィイイィィィイイッッ!!?」
「ッ……!?」
突如響いた甲高い音に、エレイナが顔をしかめながら退く。
遅れて通路の出口に大きな影がボトリと落ちた。
「こいつもウミウシだったのか!」
神殿の影に溶け込みそうなほどの黒。
浮き上がる不定形の青い斑紋。
ナメクジに似たフォルムの前後に、斑紋と同じ鮮やかな青の縁取り。
背中から生える花のような形の器官は半ばから断たれており、その水色を見ればエレイナが斬り落としたのと同じものだったのだとわかった。
「とどめを刺すぞ!」
甲高い悲鳴を上げながらのたうつ黒いウミウシへ向け、リーシャがエレイナと入れ替わるように前に出る。
かざした手から放たれた鋭利な影が、枝分かれしてウミウシの身体を貫いた。
甲高い声が止まり、その蠢く身体もやがて制止する。
水の流れにゆらゆらと揺れる、エレイナの斬り落とした部分。
内側は赤黒く、まるでおぞましい怪物の口のようだ。
本来のウミウシにおいては呼吸のための器官のはずだが、実際に口のように使われるのを見たあとだ。
瞬く間に海藻を噛み切るあの器官は脅威である。
そして海底の影に潜むことに適した黒い身体。
それらが罠のように働くこともまた実証された。警戒しなければならないだろう。
一行がそう認識した瞬間、新たな脅威が神殿を揺らした。
警戒しつつ聖堂に入ったゼレウスたちを、波紋のように広がる海流が襲う。
一瞬の光とともに鈍く響く破裂音。
神殿を揺らした、というのは比喩ではない。
以前から一部崩壊していたのだろう聖堂の壁が、ガタガタとその古傷を広げる。
「な、なに今の……っ!」
「あの白い奴だよ! 奥の浮いてるやつ! たぶんだけどあいつを中心に衝撃波が広がってたよ!」
「よし、我が行く」
先の部屋に比べ、聖堂は比較的シンプルな造りだ。
横長の構造の部屋に、ガラスの嵌まっていない縦長の窓が並ぶ。
最奥には高い位置に床があるものの、やはり階段はない。
見上げれば自然と、高台部分一面に描かれた横長の壁画が見えた。
より過去の資料を基に描かれたのであろう、先程の部屋よりも抽象的な海神龍の絵。
崩壊した外壁部分は聖堂の左側に位置しており、そこから魔物が侵入したのだろうと予測できた。
「……ッ!」
再び爆発音と衝撃が響き、崩壊した壁がゴトリと音を立てる。
簡単に崩れはしないだろうが、万が一にも崩壊させるわけにはいかない。
危険だからという理由だけではなく、この神殿の保護という意味でも。
ゼレウスは歯嚙みしつつ、この爆発を引き起こしている張本人のもとへと駆けた。
他のウミウシに比べ、少し平べったい印象を受けるその真っ白な体躯。
外縁部はフリルのように波打っており、炎のような黄色から赤のグラデーションを描いている。
「左だゼレウスッ!」
リーシャの声が届くと同時に、ゼレウスが拳を引く。
崩壊した壁から差し込む光が創る、一際濃い影。
長椅子と長椅子の隙間から伸びた赤黒い口ががぱりと開き、ゼレウスへと襲い掛かった。
「邪魔をするなッ!!」
牙を避け、下から抉り込むように拳を振るう。
黒いウミウシの身体が浮き、差し込む光のもとに晒された。
短い悲鳴を上げて息絶えるウミウシを顧みることなく、ゼレウスは速度を緩めずに進む。
ちらりと周りを見てみれば、床や壁だけではなく天井にもウミウシたちは蠢いている。
触手を伸ばす青のウミウシと、黒い身体で闇に潜み背中の口で噛みつくウミウシ。
しかし他の二種よりも目立つあの白いウミウシは、どうやら一体しかいないようだ。
奴がこの群れのリーダーなのかもしれない。
そうでなくともあの謎の衝撃波は脅威だ。
放置すれば神殿が崩壊し生き埋めになってしまうかもしれないのだから。
狙いは変わらず、ゼレウスは一直線に白いウミウシのもとへと急いだ。
が、それを黙って見過ごすほどウミウシの魔物たちも鈍くはない。
床から、壁から、天井から。
無数の触手と牙が迫る。
「ゼレウスッ!」
「礼を言うぞ三人とも。ありがとう──」
天井から迫る牙をリーシャの魔法が貫き、左から伸びる触手をエレイナがフュージアで斬り落とす。
ゼレウスは三人へ礼を伝えながら残る右方からの触手を掴み、走る勢いを保ったまま力強く引っ張った。
青いウミウシの身体が浮き、上体をねじるゼレウスへ引き寄せられる。
「──ぬぅんッ!!」
ねじった上半身を戻し、その勢いの乗った左拳をウミウシの身体へぶち込んだ。
鎧袖一触。
魔物たちがどれだけ襲い掛かろうとゼレウスの足止めは叶わず、白いウミウシは‶旧魔王〟という脅威との一騎打ちを強いられた。
ゴォッ!! という音とともに、再び激しい発光。
「……炎か」
それが白いウミウシの放つ光の正体だとゼレウスは気づく。
炎ではなく光と誤認したのは、水に触れてすぐに消火されていたからだ。
炎が消え白い靄のようなものが見えた瞬間、衝撃波が広がる。
「そうか、水蒸気爆発!」
衝撃波に構わず進むゼレウスの後方で、リーシャが快哉の声を上げた。
激しい炎は周りの海水によって瞬時に消火され、代わりに水蒸気を生み出す。
水に比べ水蒸気の体積は大きい。
無数の気泡となった水蒸気は周囲の水によってすぐに潰されるが、体積の差によって生まれた流れは衝撃波のように広がる。
それがあの白いウミウシの攻撃の正体だったのだ。
「水と蒸気の体積は違う。一瞬生まれた空気が水を押し込んで、それが衝撃波になったんだ」
「へぇー、そんなこと起こるんだ」
「水と蒸気の体積の違いは蒸気機関の根本になってる原理よね。でもそれを魔物が利用するなんて……」
背中合わせになるリーシャとエレイナにルフゥが遅れて合流し、二人に背中を預けるようにして周囲のウミウシたちと対峙する。
「マーメイドの兵もあの白いウミウシとは何度か交戦しましたが、衝撃波は偶然の産物だろうと結論づけました。……それより、加勢をしなくてもよろしいのですか?」
ルフゥのその問いに、三人は迷いなく答えた。
「ゼレウスなら大丈夫!」と。
その声に応えるように鈍い音が神殿内に響き、それ以降衝撃波が広がることはなくなった。