16.黒髪美少女最高!!
白い空間で目が覚めた。
静かで、何もない。
動くことすらできず、ただただ時の流れに身を任せる。
こんなところにいるとあの頃を思い出す。
八百年間、ただ待つことしかできなかった日々を。
一日の変わり目すら知ることのできない、地下深くでの光景を。
数か月か、数年か、あるいは数十年かに一度だけ訪れる、『彼』との大切な時間を。
だけど、その退屈からはほんの十日ほど前に解放されたはずだ。
(あれ……なんだろこれ?)
言葉にできない違和感。
白い空間でただ一人、フュージアの思考には疑問符が浮かんでいた。
まったく初めての感覚で本当に言葉にできないが、どうにか言語化するならそれは……『情報過多』だろうか。
気だるい感覚、ぞわぞわして落ち着かない、息苦しさ、視野の差異。
違和感は多岐にわたり、理解できないものを含めればもっともっと多い。
困惑したフュージアは視界を動かそうとして、それでようやく気がついた。
(あれ、なんで!? 目が動かせない!! それになんか……狭い?)
聖剣であるフュージアにとっての‶目〟と、身体を持った人類にとっての‶目〟は少し異なる。
決まった位置にある‶目〟を首や身体を動かして視界を変える人類と違い、フュージアは‶目〟そのものの位置を剣に添うようにして変えられる。
さらに言えば、自分の剣身を見ることができるほどに本来の視野は広い。
だがフュージアにとって当たり前のその機能が、今はまったく働かせることができなかった。
普段できることができなくなっているとなれば、流石のフュージアも心底焦る。
特にこの能力はゼレウスの助けにもなっている大事な力だ。失いたくはない。
そうやってがむしゃらに動かそうと力を籠めた時、初めてフュージアの視界にそれが映った。
「……? …………手?」
しなやかな曲線を描く、手。
白魚のように美しい指。
ほっそりと、しかし柔らかさを見る者に感じさせる腕。
ひらひら。ぶんぶん。動かそうと思えば動く。
自分の意志で動かせる。
「? …………うわぁ、ボクの手だ!!?」
心底驚き、動かし方も知らないはずなのに跳ねるように起き上がった。
手、胸、よくよく見れば視界の中央にある影。たぶん鼻だ。
そして……身体。
身体だ。
聖剣であるはずの自分に、身体がある。
「うわっ! 誰──」
視界の中に自分の足ともうひとつ、正面に立つ誰かの足。
フュージアは顔を上げ、それが何者なのかを確認しようとした。
だが。
「かぁんわいい~~~~~~~~っっっ♡♡♡!!」
「!!?!?」
顔を確認する前に、走り寄ってきたその何者かに襲われた……というより抱き着かれた。
初めての受けた身体と身体のぶつかり合う衝撃に攻撃かと勘違いしてしまったが、すぐにそうではないと理解する。
というかむしろ……なんだかいい匂いがした。
「な、なにっ? 誰っ?」
これが‶匂い〟。
またも初めての経験だが、それより今は目の前の人物が何者なのか、現在自分がどういう状況に置かれているか知るほうが先だ。
「んん~~~っ♡ 抱き心地もい~っ」
「うわっ、は、離してよ!」
慣れない感覚。ぞわぞわするこの感覚の正体は『触覚』だろう。
柔らかくて、暖かくて、いい匂い。
不快ではないが、知らない相手に不安はある。
フュージアは反射的に彼女を押し返していた。
「あら、つれない子」
彼女はあるはずの地面をすり抜け、尻餅をつくこともなくふわりと浮かび上がった。
白くて不思議なこの空間と同じ、白い地面。
もしかしたら決まった地面なんてないのかもしれない。
彼女の黒い翼が羽ばたき、広がる美しい長髪がフュージアの目を惹いた。
「わー、美人なお姉さん」
黄金。
彼女を一言で表すならその言葉が最も相応しい。
それは色の形容でもあり、美しさへの賛辞でもあった。
艶めく金色のストレートヘアに、同じく輝く黄金の瞳。
『絶世』と呼ぶに相応しいその顔立ちは、どんな宝石をも石ころのように感じさせるだろう。
「んふ、知ってる♡ でもありがと。あなたも負けてないわよ? 流石は聖剣ね」
妖艶に微笑む彼女が『らしい』と思えてしまうのは、少々前時代的だろうか。
角とカラスのような翼を持った彼女はサキュバスだった。
「……ボクのこと知ってるの? というかこれって夢……だよね? お姉さんサキュバスみたいだし」
「どっちもイエス。あなたは‶旧魔王ゼレウス・フェルファング〟と行動を共にする‶魔封じの聖剣フュージア〟で、ここはあなたの夢の中。人の姿を持たないあなたは、代わりに精神の姿が顕現するの。よっぽど美しい心を持っているのね。私好みの超~~美少女よ、あなた♡」
「え、そうなの? やったぁ! やっぱり神聖な感じ?」
「神聖?? ……そうね…………鏡見る?」
「見る見る!!」
美人のお姉さんがパチンと指を鳴らすと、何もない空間に突如大きな鏡が現れた。
花の意匠の施された荘厳な雰囲気のそれに、一人の少女の姿が映し出される。
澄み渡った空のような青色。
鏡の中の少女と目が合って、最初に見えた色。
八百年ぶりの地上で見た、永遠の空を思わせる瞳の色。
あどけない大きな瞳が不思議そうにこちらを見ている。
透き通る肌。スッと通った鼻筋に、小さな小鼻。花びらのように可憐な唇。
細い眉毛が少女の無邪気さを、長い睫毛が淑女の気品を同居させ、顔立ちに彫刻の如き複雑で表現しがたい美しさを形作っている。
「うっわぁー……すっごい美少女。こんなのゼレウスが見たら一目惚れしちゃうじゃん!」
「へぇ、惚れっぽいのね? 噂の‶旧魔王〟さまは」
「ううん、全然!」
喋るたびに鏡の中の少女が口を開き、気分に合わせて自然と表情も変わる。
フュージアはパチパチとまばたきをしてこれが本当に自分の姿なのか確かめようとしたが、たとえ鏡があってもまばたきをする自分を見ることはできない。
そんな当たり前を知らなかった自分が照れくさくなって、だけど同じくらい、その当たり前を知ることができた喜びに口元が緩んだ。
「てかボクに一目惚れするなら、エレイナちゃんとかリーシャちゃんとかも好きになってるかぁ~」
「私はあなたがいちばん好き♡ こ~んな綺麗な髪、好きにならないわけないわっ! 黒髪美少女こそ至高!!」
「あ、う、うん……。でも黒髪っていうか……なんか違くない? なんだっけこれ…………インナーカラー?」
「ああ、そんな髪染めの仕方があったわねぇ。嫌いじゃないわよ、黒が映えて。……いや待って。ちょっと近くで見せてみて? 何かおかしいところがないか見てあげる」
「……。遠慮しときます」
「えー」
目の中に入れても痛くない、といった様子の彼女にフュージアは怖気づく。
断られたというのに、彼女の頬はゆるゆるとだらしなく緩んでいた。
中性的なショートヘアを、フュージアは鏡を見ながら手櫛で掬う。
水色に染まった内側の髪が、手櫛から零れた黒髪に隠れていく。
自然にはまずありえない髪色だが、フュージアの現実離れした顔立ちにはむしろよく似合っていた。
「ヴェルナ・ギレナレシア」
鏡越しの彼女が言う。
フュージアが不思議そうに振り返ると、彼女は胸元に手を当てにっこりと微笑んだ。
「自己紹介。ヴェルナでいいわよ」
「そっか、ボクはフュージア! よろしくね、ヴェルナさん」
そういえば自己紹介がまだだったなと、フュージアもまた笑みを送った。
ちゃんと笑うことができているかはわからないが、蕩けるように喜ぶヴェルナの反応を見る限り大丈夫だろう。
「ところでその服って? 真っ黒だけど……なんかかわいい感じ」
「でしょ~? セーラー服っていうのよ。あなたも着てみる?」
「いいのっ? あれ、そういえばボクの服って──」
今まで膝立ちで鏡を見ていたため、まだ自分の全身も見ていない。
フュージアは立ち上がると、再び鏡に向き直った。
「あれぇ、スカートじゃないんだー。あでもエレイナちゃんみたいでいいかも」
普段エレイナの穿いている短パンを、もう少し女性的にしたデザイン。上は袖先の膨らんだ上品な長袖のブラウスで、布製の緩いコルセットがフュージアの細身にメリハリを生んでいる。
「かわいいだけじゃなく美しさ……高貴さすら感じさせる……やっぱり黒髪美少女って最高ね!! セーラー服も着てみる?」
「うんっ! ……あれ、これどうやって脱ぐんだろ?」
「大丈夫、私に任せて!」
まさか脱がされるのか。
そんな懸念をする暇もなくヴェルナが指を鳴らせば、瞬く間にフュージアの服装が変化した。
「わぁ! あれ、白だ」
「思ったとおり! やっぱりそっちの色のほうが似合うわね~!」
ヴェルナの物とは対照的な、白と紺色のセーラー服。
鏡の前でひらひらと動いて見てみれば、確かにこっちのほうが似合っていると思えた。
聖剣であることに誇りはあるが、人の姿にだって憧れと興味がある。
フュージアはキラキラとした瞳でくるくる動く自分の姿を追った。
「他にも色々着てみる~~?」
「着てみる~~っ!」
もちろん肯定。フュージアの目がさらに輝きを増す。
ヴェルナが指を鳴らすたびにフュージアの装いが変わり、興奮した様子でヴェルナの感想が述べられる。
冒険者然とした軽装。 「私の心も冒険して!」
魔法使いらしい黒のローブにスカート。 「ああ~、前衛は任せて!」
お姫さまのように煌びやかなドレス。 「小悪魔清楚お嬢さま~!」
ふわりとしたロングスカートのメイド服。 「ご主人さまが逆に仕えちゃう!」
ひらひらとした踊り子のような服。 「私の心が躍ってる!」
他にも……女騎士。 「私を護るあなたを私が護る!」
修道女。 「神々よりも神がかってるぅ!」
占星術師。 「占ってくれる? ……あなたとの未来」
男装の麗人。 「美少女は美少年にもなれる……!」
……などなど。
あと水着。
「ふわぁ!? み、水着!? これって恥ずかしいんだね!? もじもじしてたエレイナちゃんの気持ちが今わかったよ!!」
「大丈夫、綺麗な肌よ! スタイルも最高! 黒髪美少女最高!!」
「黒髪関係ないとこ見てるよね!?」
耳まで赤くしたフュージアが、自身の身体を抱くようにしてしゃがみ込む。
フュージアの衣装が変わるたびにヴェルナの服装も変わっており、今もデザインは異なるものの同じく水着となっていた。
ヴェルナのほうが布面積の少ない過激なものだというのに、彼女はけろりとした様子だ。
というか彼女は目の前の黒髪美少女に夢中で、そんなことはどうでもよさそうだった。
「うぅ~、なんか変態みたいだよぉ……ここが海だったらまだマシなんだろうけど……」
「できるわよ!」
彼女が指を鳴らしただけで、今度は景色が一変する。
「海だぁ~~~~っ!?」
煌めく太陽に負けないくらい目を輝かせ、フュージアが白い砂浜を駆け出した。
「やったぁ~~っ! ボクも遊んでみたいと思ってたんだっ! ヴェルナさんも来て! いっしょに遊ぼうよ!」
「やば……尊すぎる……。口と鼻から砂糖みたいな血が出そう」
「表現グロッ!」
口元を抑えるヴェルナが、よろよろと波間へ足を踏み出した。