9.マーメイドの変わらない部分
眼下に広がる、鮮やかな水色の屋根の数々。
ネザリーを‶魔女の泡沫〟ごと抱えたゼレウスは、街を一望できるほどの高さを飛行する。
白い壁に水色の屋根の、美しい街の景観。
この‶観光都市シシュルトレーゼ〟は、マーメイドが住むために造られた都市ではない。
人の集まりが時の流れとともに生み出す通常の街とは異なり、他種族を招くことを目的に建設された都市。
そのため街の構造、景観などは、最初の一軒が建てられた時にはすでに決定されていた。
その名のとおり『観光』させるに相応しい美しさを、街が生まれる前からすでにデザインされていたのだ。
だからこそ、たとえ見慣れた者であってもこの街の美しさに感嘆する時がある。
今のネザリーのように。
「ふわぁ~、新鮮な光景ですねっ」
‶魔女の泡沫〟から身を乗り出し地上を覗き込むネザリーに、ゼレウスはふっと笑みを浮かべる。
「空からの景色がか? この時代には飛空艇や‶噪天の爪〟があるではないか」
「そうですけど、みだりに街の上空を飛ぶことは禁じられていますから。飛空艇よりは低いので、地面が近くてちょっと怖いですね~」
「すまない、着地しよう」
「いえ、このほうが近道できますよっ。あっ、あそこです! あの、一階と二階で屋根の色が違うところ!」
地上に住むのは主にマーメイド以外の魔族だが、あえて地上で寝泊まりする物好きなマーメイドもいたりする。
地上に店を開き、屋根を別の色に変えるような者も。
街にはまばらではあるものの、水色でない屋根もいくつか見られた。
完璧に色が統一されていると、街並みが少々無機質に見えることもある。
街の景観保護のため家屋の色は国によって厳粛に管理されているが、無機質さを消し自然に見せるために塗装替えを許可された建物もごく少数存在する。
今から行く仕立屋もその一つだ。
「提案があるのだが……屋根の上を走ってよいか? この状況ならそちらのほうが早い」
「えーと……屋根を壊さずにいけますか? 重さで崩れてしまうかもしれませんので……」
「可能だ」
ふわりと屋根に降り立ち、ゼレウスは駆け出す。
「わぁあっ! ──あははっ!」
その速度に髪がはためき、ネザリーが弾けるように笑った。
理由が思い当たらず、ゼレウスは疑問を呈す。
それに気がついた彼女は声を抑え、しかし笑みは浮かべたまま答えた。
「すみません、‶魔女の泡沫〟に乗ったまま風を感じたことなんてなかったので、つい面白くて。力持ちとは聞いていましたが、やっぱり聞くのと見るのとじゃ違いますね」
「これくらいのことならいつでもやってやろう」
「あははっ、本当ですか? でも大変そうですしお断りさせて──」
と、その時。下方からの声にネザリーの言葉が途切れた。
通りや屋根を跳び越える度に聞こえる、「なにあれ」「デーモン?」「おー、すご」「うわ怖っ、危なっ!」「てかあの機械って──」といった感嘆の数々。
下方を見てみれば、こちらを見上げる住人たちの姿があった。
その中には当然マーメイドの姿もあり、空を運ばれているのが自分たちの王であることに気づいた者もいるようだった。
「目立ってしまったか」
「‶魔女の泡沫〟に乗ってるから私だってバレバレじゃないですかぁ!! は、恥ずかしい……噂になっちゃうぅ…………ややっぱりさっきのお誘いは断らせてもらいます。それはもうキッパリと!」
「そうか」
「もう、ゼレウスさんのせいなんですよ? 直接抱えてくださればよかったのに……」
「それはできん」
「どうしてですか?」
「肌に触れてしまうだろう」
その時、二人の間に妙な沈黙が生まれた。
溌剌とした彼女らしくない、暗い声が遅れて続く。
「あ……そう、ですね。ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「え、だって…………言わせないでください」
ネザリーの表情は暗く沈み込んでいた。
顔を見られずともわかる、雰囲気の変化。
「何か齟齬があるようだな」
「え?」
「着いた。飛び降りるぞ。舌を噛まないよう気をつけろ」
気をつけろと言いつつも、ゼレウスの着地はふわりと柔らかだ。
慎重に、しかし淀みのない動作で‶魔女の泡沫〟が地面に降ろされる。
「──っと。あ、ここです。よかった、無事近道できましたね! さぁ急ぎましょう! ゼレウスさんの大切な衣服が手直しされてしまう前に!」
「待て」
仕立屋に向け‶魔女の泡沫〟の歩を進めようとするネザリーを制止する。
口早に捲し立てる彼女が、努めて明るく振る舞おうとしているのは誰の目にも明らかだった。
だからゼレウスは彼女を引き留める。
「お前の肌に触れられないのは、忌避感からではない」
「え……」
彼女は何かを誤解している。
確証はないが……もしそうならこの誤解は絶対に放置してはならないと確信したために。
「どうやら我の感覚は古めかしいらしくてな。淑女の肌に触れることに抵抗がある。情けない話だろうが、水着姿を見ることにすら」
「あ……」
「それが時代の変化といっても、いまだついていける気がせん。……お前に触れられないのは我の都合だ。そちらに非はないと憶えておけ」
幸いにもゼレウスの想いは伝わったようだ。
何かに気がついたらしい彼女の雰囲気は、暗いものからどこか申し訳なさそうなものへと変化した。
「ごめんなさい。私、勘違いしてしまっていたみたいです」
「やはりそうか」
安堵からゼレウスは小さく息をついた。
ネザリーは少し考える様子を見せてから、静かに言葉を続ける。
「……ゼレウスさんの時代では、マーメイドは他種族と深く関わっていなかった……そうですよね?」
「ああ。必要がないからな。水中最強のマーメイドを相手に、海底へ攻め込む者など存在しない。魔族ですら関わりを持つ者は少なかったはずだ」
「でも今は違う。マーメイドの姿を奇妙に思う人たちもいます……遠くから見ている時は笑顔でも、近づかれたり触れられたりするのは恐れるくらいに。人族は特にです。ここに興味があって来る人も、いざとなると尻込みしてしまうみたいで」
「それはまだ気づいていないだけだろう。マーメイドたちの持つ慈悲と美しさに」
「う、美しさですか。あはは、それはどうでしょうね……」
「……なるほど、自分では気づけぬのも無理はない」
そう言って苦笑するネザリーの姿に、ゼレウスもまたしばし考え込む様子を見せてから口を開いた。
「──かつての話だ。水を苦手とする我がマーメイドたちに会いに行った時、彼らは対話のために海から身を露わにした。今のマーメイドたちと同じように、水球に腰掛けてな。我を気遣ってのことだ」
ゼレウスは語る。旧魔王ではなく、魔王と呼ばれていた頃の話を。
「その時、我は初めて知ったのだ。太陽に照らされたマーメイドの鱗が、七色に輝くことを。その美しさを。……今もその慈悲と美しさは変わっていないと、お前が我に教えたのだ、ネザリー・リッツァクアよ」
「ふぇっ!? わ、私がですか?」
「そうだ。……だから謝るな。もし誰かが『奇妙だから触れたくない』などと言っていたとしてもだ。そこに謝る理由などないのだからな」
「ゼレウスさん……」
マーメイドが搭乗することを前提とした‶魔女の泡沫〟は、開放感や通気性の確保と軽量化のため、搭乗者の身体は露出する構造となっている。
そのためネザリーの太陽に煌めく鱗は出会った時から見えており、ゼレウスに過去を想起させるきっかけになっていた。
‶魔女の泡沫〟も同じく光り輝いているものの、彼女の七色には敵わないだろう。
「誤解は解けたか?」
「……はい。なんだかたくさん勘違いしてたことがあったみたいです、私」
「そうか。……む、たくさん? どういう意味だ」
「ゼレウスさんは優しくて素敵な方だった、ってことですよっ」
「? 我はただ事実を伝えただけだが」
「ふふ。そういうところが、です」
どうしてか、彼の言葉は素直に信じられる。
まだ会って間もないというのに。
泰然と、淡々と、彼の声色や瞳が『当然のことだ』と言外に語っているからだろうか。
「……そうか。なんにせよ誤解が解けてなによりだ。では我がローブを取りに行こう」
「はいっ!」
それともうひとつ。
彼は思い出の詰まった大切なローブよりも、会って間もない相手の心を慮ることを優先した。
……彼の思いやりが報われてほしい。ネザリーは自然とそう思う。
‶魔女の泡沫〟から水球に移り、店に入るゼレウスのあとに続く。
はたして彼のローブは無事なのだろうか。
「なんという仕事の早さだ……」
結果から言って全然間に合ってなかった。
もう一時間以上前には仕立てを済ませていたらしい。
綺麗に洗濯され、注文どおりに仕上げられたローブを手に店を出るゼレウス。
小さな表情の変化。しかしどこか哀愁を漂わせるその姿を哀れに思いながらも、ネザリーは彼を尊敬しようとひそかに決めた。
◇
「帰ったぞ」
宿の扉を開き、廊下の先のリビングへ声を掛ける。
ネザリーと別れたあとゼレウスは砂浜へもどったが、そこにエレイナたちの姿はなかった。
もともとローブはゼレウスだけで取りに行き、エレイナたちには先に帰ってもらう予定だった。着替えなど、彼女たちのほうが手間の掛かることが多いためだ。
そのため予定どおりゼレウスは砂浜から宿へ移動。
シーズン前ゆえに借りられた小さな貸別荘へ着くころには、空は朱色に染まり始めていた。
「おかえりーゼレウス。遅かったね」
リビングに入ると、フュージアののんびりとした声が掛けられる。
彼の声に「おかえりー」とエレイナとリーシャが続いた。
が、二人ともどこか間延びした声色だ。
「ただいま。ついネザリーと話し込んでしまってな」
「なに話してたの?」
「この街のことや、マーメイドのことを。それより見ろ。装いを新たにした我がローブを」
ゼレウスはその場で両腕を広げ、幅広の袖を見せつけるようにローブを披露する。
しかしなぜか、エレイナとリーシャの反応は薄かった。
代わりにフュージアがゼレウスに答える。
「あんまり変わってないじゃん?」
「そのとおり。だが確かな違いがひとつある。フュージアの刺さっていた位置に切れ込みが入っていることだ。だがどうだ? 元の雰囲気を残しつつ、違和感を持たせないデザインとなっている。フュージアのための切り込みも、合わせてしまえば目立たない……どころかデザインの一部にすらなっている。フュージアが抜けたとしても成り立つよう作っていたとのことだ。なんと行き届いた配慮か……これこそまさしく職人技の妙ッ! そうは思わんか?」
握り締めた拳を震わせ、ゼレウスが語る。
「テンション高っ。気に入ってよかったねゼレウス」
「ああ。どうだ? エレイナ、リーシャよ」
ゼレウスは再び両腕を広げると、その場でゆっくりと一回転。
振り返って見えた彼の表情は得意げだった。
「あー、いいと思うぞ、無事でよかったなローブ」
「うん、すごく似合ってる。いつもどおり、見てて安心する。っ……ふぁああ…………あ、ごめんなさい。ちょっとはしゃぎすぎて疲れちゃったみたいで……」
よくよく見れば、それぞれ別のソファに腰掛ける彼女たちはなんだかぐったりしているような気がする。
背もたれに深く身を預けるエレイナと、ソファの上で足を投げ出し上半身を起こしているリーシャ。たぶんさっきまで寝転がっていたのだろう。
思えば、この街に着いて宿を探し、服の修繕やら水着選びやらをするやいなやすぐに海へと遊びに出かけた。
旅の疲れと重なれば、こうなるのも自明の理だったかもしれない。
「晩飯には起こしてくれ」
「……うむ、わかった」
リーシャがソファに再び寝転がる。
彼女たちの言葉は本心からのものだったのだろうが……なんというか、眠気に支配された気のない返事なのは誰の目にも明らかだった。
フュージアから掛けられた、「……ドンマイ、ゼレウス」という言葉にちょっとだけ救われた。