35.‶隔炎〟
‶噪天の爪〟の前部を傾かせ、落下の勢いすら利用しながら、リーシャはゼレウスたちのもとへと急ぐ。
「邪魔だッ!! くそッ……ゼレウス、エレイナッ!!」
が、ザナドの振るった腕に阻まれ遠回りを強いられた。
焦燥感から悪態が突いて出る。
しかしその瞬間、下方から勢いよく現れた黒い壁に視界を遮られた。
予期せぬ出来事に焦燥感を忘れ、思わず急ブレーキをかける。
「なんだ、闇魔法か!? いや……」
アクセルを回し黒い壁を迂回しようとするが、壁は上下左右ともに果てが見えないほどに大きかった。
闇魔法かとも思ったが、しかしすぐに違うとわかる。
(ザラザラした質感……ちょっと透けてる?)
見覚えがある。それも最近だ。
ザナドの翼、その翼膜がこのような……。
予感めいたものに背を押され、リーシャは壁を伝うようにして下方へと向かった。
「なんだ、こりゃ……」
ザナドの頭部にて、アーズルードは思わず声を漏らす。
突如下方から伸びてきた黒い壁。
二枚だ。
四方を覆いかねないほどに巨大だが、左右に二枚。
アーズルードにはそれが翼だとわかった。
なぜなら、自分たちデーモンの背にも同じものがあるから。
ザナドの頭部から身を乗り出し、アーズルードは下方を見る。
黒い翼の根元。二つの人影と、小さく煌めく白い輝き。
これが誰の翼なのか、考えるまでもない。
仕掛けた罠は問題なく発動し、かの旧魔王を‶噪天の爪〟から引きずり落とすことに成功した。
だが……。
「なんだよ、このデカさは……!!」
翼は魔力の象徴だ。
そして強大なデーモンは、翼や角に通常とは異なる特徴を持っていることがある。
より稀有で貴重なのはアーズルードの六翼のほうだろう。
だがここまでの巨大さとなると……。
「‶旧魔王〟ゼレウス・フェルファング……!」
‶竜王〟の巨体すら包み込み、広げれば街ひとつを覆えそうなほどに巨大な翼。
どれだけの強さがあれば、これほどの威容となるのか。
この身震いが怒りから来るものなのか、それとも畏怖なのか。
アーズルード自身にもわからなかった。
柄から迸る白い稲妻が、エレイナの肌に落ちる。
傷を残すことはない。が、確かに刻まれる痛みにエレイナの口元は歪んだ。
「でっかゼレウス! 前はこんなじゃなかったよね?」
「ああ、大きすぎて不便だからな。今小さくする」
天を裂く黒翼が小さくなっていく。
数回羽ばたいて体勢を整えたゼレウスは、エレイナをお姫さま抱っこで抱えた。
「あ、これだよこれ! ボクたちと戦った時の姿! でも、今となってはこっちのが違和感あるなぁ」
ごく普通の、平均的な大きさとなった翼。
頭部にはうねるように前に伸びる一対の角。
封印されていた期間のほうが長いため、むしろこの本来の姿にこそ違和感があった。
「ゼレウス! まさかとは思ったが、やはりこれは貴様の翼だったか! 三人とも無事のようだな!」
リーシャの乗った‶噪天の爪〟が降りてくる。
「リーシャちゃんも無事でよかった! 見て見て! これがボクの神々しい全貌だよ!」
「美しいな! あれ、なんで抜けてるんだ? エレイナが抜いたのか?」
「ええ」
ゼレウスの腕の中、フュージアを持つエレイナが答えた。
先程までパチパチと散っていた青白い稲妻は、いつの間にか収まっている。
「なに、じゃあエレイナが人間の勇者ということか」
「そうみたい。でもおかしいんだよね~、なんでボク気づけなかったんだろ? やっぱ色々鈍っちゃってるのかなぁ」
「かもしれんな。リーシャ、そちらへエレイナを移動させるぞ」
「よし来い」
抱えるエレイナをリーシャの後ろに座らせる。
しかし‶魔双王〟がそれを大人しく見過ごすはずはない。
アーズルードの指示で、ザナドが‶噪天の爪〟目掛けて腕を振り下ろした。
「まずい!」
リーシャがアクセルを回そうとする。
だがゼレウスの手がそっと添えられ、リーシャは思わず右手の力を抜いた。
判断としては間違っているだろう。
ザナドの長く巨大な腕は今にもこちらを叩き落とそうとしている。今はとにかく逃げるべきだ。
だが不思議な安心感がリーシャの手を止めていた。
瞬間、頭上からザナドの腕ではなく蒼い光が降り注ぐ。
円形、盾のように広がる大きな蒼い炎。
リーシャたちの頭上に広がったそれが、ザナドの巨大な爪を受け止めていた。
「これって……」
「ゼレウスの……魔法、か? そうか、封印が解かれたから……!」
そう。ゼレウスはもう魔法を封じられてはいない。
自らの手を確かめるように眺めながら、ゼレウスは笑みを浮かべた。
「八百年ぶりの魔法だが……確信がある。腕は鈍っていないようだ」
手のひらをぐっと握り込んだあと、ゼレウスは蒼炎を操りザナドの爪を弾く。
ついでに炎を礫のように飛ばして再利用したが、ザナドの強靭な鱗に煤をつけることしかできなかった。
「蒼い炎……どういう理屈でさっきの爪を防いだんだ?」
「《フェルファングの隔炎》。触れることのできる炎だ。我の創った魔法だが、この時代には伝わってないようだな。残念だ」
「うわー懐かしい。あれ強かったなぁ……まぁボクなら一撃で消せるけどね!!」
「ああ、今となっては頼もしいとも。……二人とも離れていろ。エレイナ、少しの間フュージアを頼むぞ」
こくり、とエレイナが頷きを返す。
「ゼレウスはどうするんだ?」
「まずはアーズルードを叩く。たとえ奴の操作が失われたとしても、この姿ならザナドを逃がすこともない」
「なら私も──」
手を上げ、遮られる。
「少し待っていろ」
ゼレウスはそう言って不敵な笑みを浮かべると、ザナドの頭部、アーズルードを見据えた。
「……我一人で足りる」
背中越しに言い残し、ゼレウスは空を飛んだ。
こちらを見下ろしていたアーズルードと同じ高度まで、一息で到達する。
「ハッ、飛ぶ速度も速ぇのかよ」
吐き捨てるようにアーズルードが言う。
「背筋を鍛えればお前も同じことができるぞ」
「聞いてねぇよ。そんなことより、どうやって封印を解いた?」
「我もまだよくわかっておらん」
「はぁ? まぁ教える理由がないか」
正直言って、エレイナがどういう理屈でフュージアを抜くことができたかゼレウスもわかっていない。
が、アーズルードは情報を秘されたと勘違いしたようだ。
些細なことのため、いちいち訂正もしないが。
エレイナがこの時代の勇者なら、フュージアがそれに気づけないとは思えない。
あとで彼女を問いただすべきだろう。
そのためにも、まずはこの戦いを──
「……始めようぜ、‶旧魔王〟」
「いや、終わらせる。これ以上の被害が出る前に」
魔法が放たれる。
二人、同時。漆黒の闇と、蒼い炎。
ぶつかり合い、せめぎ合う属性の奔流を、ザナドの剛腕が断ち切った。
二色の魔法が弾け、ゼレウスとアーズルードの視界を塞ぐ。
見えない。ゼレウスの姿が。
考える前に、アーズルードはザナドの鱗を蹴って背後の空へと身を踊り出した。
焦燥感がアーズルードに魔法の発動を選択させる。
念のためだ。ゼレウスが近接戦を仕掛けてくることを見越した、反撃の魔法。
念のために置いておいたそれだったが、功を奏した。
空を飛び瞬時に接近してくるゼレウスに向けて、闇の棘が迫る。
ゼレウスはそれを回避するために遠回りすることを強いられた。
おかげで、互いの速度に差があったとしてもすぐには追いつかれない。
だがアーズルードの焦燥は尽きない。
距離を取り続けながら魔法で追撃、ザナドを操作し誘い込むように爪の一撃を叩き込ませる。
が、ゼレウスはそのすべてを容易く回避する。
「ちょこまかと逃げるな……《隔炎》」
アーズルードの周囲を蒼い炎が渦巻く。
ザナドの一撃すら防いだ炎。
包み込まれれば脱出はできないだろう。
だが速度が足りず、アーズルードはそこから逃れることができなかった。
「やはり背筋を鍛えることを薦める。そして自身の身体に適した羽ばたきを見つけろ。そうすれば我の魔法も避けられた」
「……うるせぇよ」
炎の向こうから声がする。
声はこちらへゆっくりと近づくと、炎の檻にゆらぎを生んだ。
そこからゼレウスの手が差し込まれ、球状の炎の中にその姿が現れる。
‶旧魔王〟と‶第二魔王〟が正面から対峙する。
アーズルードは歯噛みしながら、ザナドに《隔炎》の檻を外から攻撃させた。
金属音にも似た轟音が炎の中に響くが、決壊させるには至らない。
だが一瞬の空白ののち……堕ちる。
蒼い炎の塊が中の二人もろとも空を堕ち、大地を抉る。
ザナドから離れ地上へと降りていたリーシャたちのそばに、それは落ちた。
「うおぉおおぉっ!?」
「ゼレウスッ!!」
巻き起こる風にリーシャは帽子を抑え、フュージアはエレイナの手の内でゼレウスの名を叫ぶ。
蒼炎が渦となって消える。
現れたのは……アーズルードの胸倉を掴み、地面に叩きつけるゼレウスの姿だった。
どうやら蒼炎の檻はザナドに落とされたわけではなく、ゼレウス自身が操作しただけだったらしい。
「無事だったか!」
「アーズルード殿……!」
リーシャが駆け寄り、イリーリャとともに戦いを見守っていたギグルが呟く。
人族、魔族ともにあらかた避難は済んでいる。
戦場の最前線に残っているのは、ゼレウスの帰りを待っていたリーシャたちと、残る二人の魔王、ギグルとイリーリャのみ。
「……あとはザナドだけだ」
アーズルードの喉元から手を離し立ち上がると、ゼレウスはリーシャたちへと振り返る。
勝負は一瞬。アーズルードとの決着にはほんの数分もかからなかった。
そう、誰もが感じたその時。
「ゼレウス後ろッ!」
フュージアの声に振り返る。
気絶したかに思われたアーズルードが、両腕をだらりと下げながらも立ち上がっていた。
──近距離。アーズルードは魔法使いだ、脅威ではない。いや──!
ゼレウスは口角を上げた。
アーズルードが踏み込んでくる。
魔法ではない。彼が最後に選んだ攻撃手段は──
(‶拳〟……!!)
一切余裕のない、剥き出しの予備動作がそう物語っている。
しかしアーズルードの筋力では何の脅威にもならないはずだ。少なくともゼレウス相手には。
右拳。斜め下から抉り込むような軌道。
ゼレウスは完璧な予測を立てる。
が、たった一つの要素だけがその予想を超えてきた。
(この速度……!)
アーズルードの四肢と背中を這う、無数の黒い糸。
闇魔法の糸だ。
彼はそれを束ね、精緻に操ることで筋肉を補強した。
黒い糸の束から、ギチギチと軋みが上がる。
速度だけでなく威力も増したそれを、しかしゼレウスは難なく受け止めた。
予測は超えても、ゼレウスの膂力と反応速度までは超えられなかったのだ。
「少し踏み込みが浅い。だが……」
ゼレウスが力強く、地を抉るほどに強く踏み込む。
まるでひとつ、手本を示すかのように。
放たれたのはなんの捻りもないただの正拳突きだった。
アーズルードが吹っ飛び、地面を何度か跳ねる。
「……いい拳だったぞ」
「聞いて、ねぇ……つってんだろ、くそ……っ」
空に向けて手を伸ばし、アーズルードは今度こそ気絶した。
「……まったく……第二魔王を危なげもなく倒すとは。人族をも支配する魔王……ゼレウスなら、本当になれるかもしれないな」
いつの間にかそばまで来ていたリーシャに、呆れたような笑みを向けられる。
アーズルードが立ち上がると同時に、ゼレウスを援護するためにこちらに駆け寄ってきていたらしい。
遅れて、フュージアを持ったエレイナもこちらへ歩み寄ってくる。
リーシャは空を見上げ、ゼレウスに問いかけた。
「‶竜王〟は……なんで動かないんだ? アーズルード殿が倒れて、操作が失われた結果か?」
ゼレウスも同様に空を見上げるが、彼女の言うとおり滞空するザナドに動きは見られない。
「気絶する寸前、アーズルードは空に手を向けていた。おそらくだが動かないよう指示を出したのだろう。他の魔族も含め、アーズルード自身も襲われかねないからな」
「そっか! じゃああとはゼレウスがザナドを倒すだけだね! ボクならあの鱗も斬れるんじゃないかな!」
背後、すぐ近くから聞こえるフュージアの声。
同時にしゃらりと音が鳴る。
「ああ、試してみよ──」
ゼレウスの呼吸が途切れる。
ザナドから目を離し、フュージアのほうを見ようとした瞬間だった。
ドッ……と、ゼレウスの身体を背後からの衝撃が貫く。
「……え?」
リーシャの呆けた声。
ゼレウスは自らの胸元を見下ろす。
それはある種、見慣れた光景だった。
胸元から棒状の物が伸びている……何かが身体を貫通しているのは。
前後逆ではあるが、それが白銀の輝きを帯びてさえいれば、いつもどおりの光景のはずだった。
(この、剣は……ッ)
血に錆びた刃物を思わせる、赤黒い剣身。
細身の両刃の剣だ。湾曲はしていない。
見覚えのない剣身だが、見るだけで邪悪だと感じさせるその威容には覚えがあった。
これは魔剣だ。
魔王であった頃なら何度か見る機会もあったが、今のゼレウスにはその使い手の心当たりはない。
ただ一人を除いて。
「エレイナ、ちゃん……?」
彼女の腰、抜き身のまま佩かれたフュージアが呆然と呟く。
胸を貫かれてはいるものの、痛みはない。
だがそれこそが魔剣の力が行使されている証。
振るえば誰でも力の一片を使える聖剣とは異なり、魔剣は選ばれた者しかその力を行使することができない。
フュージアの言を信じるなら、彼女は勇者でも魔剣使いでもなかったはずだが……。
ゼレウスは真実を自分の目で確認するために、後ろを振り返ろうとした。
だが──
「動かないで、ゼレウス」
「……っ!」
その声を聴いた瞬間、身体が勝手に彼女の言葉を実現させていた。
身体の自由を奪われる、強烈な不快感。
まるで何かに‶支配〟されているかのような……。
「その状態で振り返ったら、危ないでしょ?」
ゼレウスの隣を通って、エレイナが正面へと移動する。
無表情。
冗談めかした言葉だというのに、そこに感情は伴っていなかった。
代わりにギラリと輝く意思の光が、その瞳には宿っていた。




