32.対峙する旧魔王
「ザナド……お前か?」
普段どおりの態度に一抹の緊張を交えながら、ゼレウスは問う。
が、返事はなかった。
ゼレウスは二の句を継ごうとしたが、音にそれを遮られる。
地を蹴った音。
それを理解した時にはすでに、ザナドはゼレウスの眼前に迫っていた。
一瞬にしてゼレウスの懐へ潜り込んだザナドが、斜めに回転。
硬い鱗に覆われた尻尾が袈裟に斬り裂くように振るわれた。
ゼレウスは思考を戦闘に素早く切り替え、後退して回避。
空ぶった尻尾が地面を砕く。
いや、そんな生ぬるいものではない。
まるで焼き菓子のように容易く、大地が裂けた。
波打つ地面が膝をつくギグルを吹き飛ばす。
(この速度、この威力……まさにザナド!)
「なんつうパワーだ! 流石に避難させるべきだな」
地響きに少々体勢を崩しながら、アーズルードが空へと魔法を放つ。
と、同時にザナドが動きを止めた。
ゼレウスはさらに数歩下がり、その様子に眉根を寄せる。
放たれた魔法は空高くで黒い花弁を生み出すと、そのまま消えた。
すると、周囲のデーモンたちが膝をつく魔族のもとへと降りていく。
アーズルードは撃ち出した魔法で配下に指示を出したのだ。どの属性が何を示しているかは事前に通達してある。
闇属性の信号は治療、避難を意味していた。
「これは魔法なのか? 死者を蘇らせ、操るのか」
「ああ。積もる話もあるだろうけど、会話はできない。残念ながら意識がないからな。八百前にはなかっただろ? こんな魔法」
「……死者を蘇らせる魔法などなかったな」
「代償として媒介となった死者の身体の一部は失われ、膨大な魔力が必要になる。でも力を求めるアンタなら、この魔法の価値がわかるはずだぜ?」
これはプレゼンテーションだ。
ゼレウスを殺してしまうのもいいが、最善なのは仲間に引き込むこと。自身の配下にしてしまうことだ。
ギグルやイリーリャ、一介のハーピーですら必要だとゼレウスは言っていた。
ならばこの魔法の価値を理解できれば、彼は新たな技術に喜ぶはず。
他の者たちと同じように歓迎されるだろう。
これをきっかけにゼレウスを仲間に引き込めるかもしれない。
アーズルードは笑みを浮かべながら、念押しするように言葉を続けた。
「それに……因縁の相手だ。アンタも決着をつけたいだろ? もしアンタがこれからオレの協力者になるってんなら、これを復讐の機会にさせてやってもいいぜ?」
が、アーズルードの目論見は大きく外れることとなる。
「我々を愚弄するか、外道!!」
突如放たれた威圧感に、ビリビリと空気が震える感覚が周囲の者たちを襲った。
アーズルードの背筋が凍る。
「ザナドは確かに我を裏切り、その果てに死んだ。我にも思うところはある。だが外道にその横入りを許すほど、我ら‶魔王〟の誇りは安くないぞ!!」
獣のように荒々しくも、厳かに響くゼレウスの声。
鋭く厳しい視線に射抜かれたかのように、アーズルードの両足はその場に縫い付けられた。
今まで見ていた姿は本当の姿ではなかったと思わせるほどの、猛々しいオーラ。
魔力を失った混乱によって、周囲の剣戟の音は止んでいる。
いやその混乱がなかったとしても周囲の喧騒は消えていただろう。
放たれる絶対強者の気配に、まるで野生の獣のように誰もがゼレウスへの警戒心を駆り立てられているからだ。
が、ゼレウスが一度瞑目し鋭くも静かな表情を取り戻すと、その雰囲気はさっと掻き消える。
「力だけが必要ならこの戦争はとっくの昔に終わっている。我が欲しいのは力ではなく、強い意志だ。それがもたらす技術と技巧、そして信念だ!! 信念は新たな道を踏み出すための一歩となる。意思を持たぬ死体など、我には必要ないッ!」
「…………そうかよ。ま、どっちでもいいぜ、オレは……」
残念ながら必要とされなかった。
ため息を吐きながら、アーズルードは下を向く。
肩を竦め、なんでもない風を装った。
「……その意思のない死体に、アンタが殺されるだけだ」
「!」
顔を上げたアーズルードが冷たい目でゼレウスを指さすと、ザナドが再び弾けるように動き出した。
飛び出した勢いを乗せた拳がゼレウスの顔面目掛けて振るわれる。
回避すると、ザナドは勢いそのままに回転し尻尾を薙ぎ払った。
左手を振り上げ、ギャリギャリと音を立てて受け流す。
ゼレウスは回転するザナドを迎え撃つように、その顔面向けて右拳を振るった。
入るが、強靭な鱗に阻まれダメージは小さい。
素早く拳を引き戻し同じ箇所へ再び撃ち込む。
三度振るったところでようやくザナドは引き下がった。
が、ザナドは受けた勢いを利用して素早く逆回転し、反転。
今度は爪を振り上げてきた。
ゼレウスは回避しきれず、頬に傷が入る。
続けざまに再び尻尾が振るわれる。
地にぴたりと張り付くようにして回避するが、背中のフュージアが尻尾に引っ掛かり、そのあまりの膂力にゼレウスは地を転がった。
「ふんっ!」
ゼレウスは地面を強く叩き、跳ねるように体勢を整える。
片手をついて地面を滑り、衝撃を殺す。
瞬間、眼前に膝蹴り。
片膝、片手を地面に着いた状態のゼレウスはそこから素早く身を起こすと、後退してそれを回避した。
ザナドがさらに追撃を仕掛けてくる。
逃げてばかりでは埒が明かない。
ゼレウスはその場で短く踏み込み、最短距離で突きの動作を完了した。
ザナドの右拳を同じく右拳で迎撃。
拳が正面からぶつかり合い、ズドン! と地響きのような衝撃波が周囲へと広がった。
先程までの戦場が児戯であったかのように思えるほどに、それは桁違いの速度、桁違いの戦いだった。
他の誰も手出しができない……いや、そんな考えすら湧き上がらないほどに。ただ固唾を呑んで見守る。
(身体能力はかつてのザナドと同じく、我と同等! ……しかし)
魔法で動いているのなら、フュージアで一撃入れれば楽に倒せるだろうか。
だがゼレウスにフュージアを振るう余裕などなかった。
せめてフュージアを手に持つことができれば……しかし贅沢は言えない。
それに振るったとしても、あの強靭な鱗の前では生半可な斬撃は通らない可能性もある。
とはいえこの戦いを目で追いきれていない様子を見て取るに、アーズルードがすべてを操っているわけでもなさそうだ。
おそらくあれは簡単な指示だけを守る、本能だけの存在なのだろう。あくまで動く死体でしかない。
この程度、ザナドの狡猾かつどこまでも合理的な戦い方には遠く及ばない。
ゼレウスはため息をついた。
「凄まじいな……ぶつかり合った衝撃がここまで伝わってくる。……大丈夫か? エレイナ」
「……ええ、楽になってきた。ありがと」
ゼレウスの近くから避難したリーシャが、肩に抱えていたエレイナを下ろす。
復活の魔法の影響で乱された呼吸を、エレイナは深く息をついて整えた。
魔力量が多いためか、体力までは失われずに済んだのは幸運だったとリーシャは思う。
おかげでエレイナと……あとついでに一名、運んで避難することができたのだから。
「私を助けるなんて余裕ねぇ姫さま? ……あいたっ!」
「助けられたと思ってるんなら素直に感謝しろ、減らず口め!」
掴んでいたイリーリャの首根っこを放すと、彼女はゴチンと地面で頭を打った。
リーシャは不服そうにしつつも彼女のそばにしゃがみこむ。
「念のため治療はしてやる。もう勝負はついたんだから、余計なことはするなよ」
「はいはい、ありがとうございまーす。──っ!」
「うぉ……!」
衝撃と轟音に、イリーリャとリーシャが身を竦ませる。
またゼレウスたちの拳がぶつかりあったらしい。
エレイナが厳しい目でゼレウスの戦いを眺めている。
その様子を見やったイリーリャは、含み笑いとともに彼女へ問いかけた。
「あなた、何を企んでるの?」
エレイナが振り返り、その桃色の瞳にイリーリャを映す。
どこか暗い輝き。
「……企む?」
「そのギラギラとした眼……まるで、自分がこの戦争を終わらせてやるんだ~……って感じ。そんなの誰にもできっこないのに。……あぁ、あの旧魔王サマならできるかもね? それを期待してるのかしら?」
イリーリャが妖艶に、しかしいやらしく笑う。
「おい、余計なことはするなと言っただろ」
「ただ喋ってるだけじゃない」
「ダメだ。お前の言葉はほとんど攻撃に等しい」
「急に褒めないでよ」
「褒めてない。性悪め」
身を起こしたイリーリャがクスクスと笑う。
リーシャに治療してもらった彼女は余裕そうな態度だ。
しかし本人の言うとおりただ喋っているだけで、もう攻撃を仕掛けてくるつもりはないらしい。
「……そうね。ゼレウスの力なら……この戦争を終わらせられるのかもしれない……」
意外にも、エレイナはイリーリャの皮肉を気にも留めなかった。
いや、そんな余裕がないのかもしれない。
ゼレウスの戦いに視線を戻した彼女の表情は、どんどんと厳しくなっていった。
「これでどうだ!」
「ナイスゼレウス!」
ザナドの尻尾の横薙ぎを、今度は身体の側面をべたっと地面に着けることで完璧に回避。そのまま足払いを仕掛けた。
すぐさま立ち上がり、宙に浮いたザナドを思いきり殴り飛ばす。
(やはり弱い。本当のお前は、この程度ではない!)
アーズルードの魔法が飛んでくるが、ゼレウスは一瞥もせず拳で薙ぎ払った。
彼は先程から何度か魔法で援護をしようとしていたが、すべて徒労に終わっている。
ゼレウスはザナドへ向けて無造作に歩き出し、数歩目で一気に加速。
身を起こすと同時に振り上げられるザナドの爪を、手刀で叩き落とす。
尻尾の薙ぎ払いを裏拳で迎撃し、下方から突き出される拳を上から殴りつぶした。
ザナドが苦し紛れに飛びつき、口をぱかりと開く。
「──ッ!!」
噛みつきだ。
瞬間、表情を歪ませたゼレウスは、その顔を横殴りにして退けた。
飛びついたところを殴られ、ザナドの身体が大きく後退。さらにたたらを踏むようにして体勢を激しく崩す。
ゼレウスは大きく息を吸い込みながら両腕を後ろに振りかぶり、ザナドの全身へラッシュを仕掛けた。
抵抗する術はなく、ザナドの身体に無数の打撃が刻み込まれる。
最後に地面に叩きつけるように殴り飛ばして、ゼレウスは勝負を決めた。
「無様な真似を……! やはり死体に、魔王の誇りなど宿りはしない!!」
怒りを滲ませながらそう宣言する。
噛みつきなどというみっともない攻撃を、本来のザナドがしたことはない。
ただの死体は黒い土くれのようになって崩壊した。
横を向き、ゼレウスはアーズルードに鋭い視線を送る。
「次はお前だ」
「っ!!」
反射的に身体が震え、アーズルードは息を呑む。
それでも一歩も退かずにいられたのは、魔王としての誇りゆえか。
対照的に、ゼレウスは彼に向けて一歩踏み出そうとした。
しかしその瞬間、視界の端で何かが蠢く。
「! ゼレウス……!」
フュージアの驚愕と緊張を孕んだ声。
視線を戻せば、崩れた土くれが再び人型を形作っていた。
土塊はリザードマンの姿を再び模り、黒い鱗を形成する。
「っ……まだ終わらねぇぞ! オレも、‶最後の魔王〟も!」
アーズルードが飛翔し、再び立ち上がったザナドの背後へと移動する。
蠢く土くれの中に、光の宿らぬ虚ろな瞳が垣間見えた。
「なんというザマだ……ザナド」
ゼレウスの表情が不愉快そうに歪む。
再び立ち上がったザナドの背後で、アーズルードは唸るように問いかけた。
「アンタは知ってるか? ザナド・リュシーにはもう一つ、異名がある。最後の戦いでの姿から名付けられた異名だ」
土くれはリザードマンの姿を形成し終えたにもかかわらず、蠢き続けている。
それどころかどんどんと巨大化していった。
リザードマンの範疇を超え、デーモンやエルフ、さらにハーピーやマーメイドの背丈を超え、オークを凌駕していく。
見上げるゼレウスを、影が覆い尽くす。
つるりとしていた頭部からは二対の角が生え、その背中から伸び出た翼が空を隠した。
これは魔法の効力ではない。ゼレウスはその姿に見覚えがあった。
「オレといっしょに飛べ、‶竜王〟ザナド!!」
巨大な翼を羽ばたかせ、‶竜王〟は‶魔双王〟と共に空へと飛び上がった。