29.‶ひとりぼっち〟なんかじゃない
帽子を抑えながら地を蹴って、空中に跳び上がる。
「おらぁ!」
滞空するイリーリャに向け右足で薙ぐような蹴りを放つが、上半身をひょいと動かすだけで避けられた。
流石にこんな単純な攻撃が当たるような敵ではない。
帽子を抑えたまま、放った蹴りの勢いに身を任せてリーシャは回転する。
今の蹴りは囮だ。本命はこっちの──
「アッハハハッ!」
「……くそッ!」
最初の蹴りに追従するような、左の後ろ回し蹴り。
横薙ぎの踵落としのようなそれは、しかし回避されてしまった。
「ふっ、そんなの当たるわけないじゃない!」
勢いを失い、空から落ちる。
当然、空はハーピーの領域だ。リーシャには自身の姿勢を制御し、攻撃に備えることしかできない。
「おひとり様、奈落へご案内ぁ~い♪」
落下するリーシャへイリーリャが瞬く間に追いつく。
降下の勢いを殺さず縦に回転。
頭上を越えて振り上げられた鉄爪が勢いよく振り下ろされた。
重力の乗った踵落とし。
リーシャは闇魔法で硬化させた右腕で防いだが、受け止めきれない衝撃がビリビリとした痛みを残す。
意趣返しに放たれたイリーリャの踵落としだったが、その威力は先程のリーシャのものとは段違いだった。
空中でなんとか姿勢を制御し、足から着地。
殺しきれなかった蹴りの威力が、リーシャの足を通して大地に小さなヒビを刻んだ。
「『おらぁ!』とか『くそッ!』とか、品がないわねぇ。ニセ姫さまにはお似合いだけど」
「私だってお姫さまのつもりはない! いちいちうるさい奴だな!」
「そう思うなら──」
イリーリャがニヤニヤとした笑みを消し、妖艶に目を細める。
「──黙らせてみなさいよ」
「っ……言われなくとも!」
リーシャが吠え駆け出した瞬間、イリーリャが虹色の翼を翻した。
無数の羽根が視界の先に降り注ぐ。
見据えるのはイリーリャの真下。そこから再び跳び上がり、今度こそ攻撃をくらわせてやる。
思惑を抱え、リーシャは虹色の雨を掻い潜った。
しかし駆けるリーシャの足元で魔力が蠢く。
地面に突き刺さった羽根から土魔法が展開され、まるで花弁のように石の棘が咲き誇った。
だがリーシャはそれらをステップで回避。怯むことなく進み続ける。
真下。石の花弁を潜り抜けた先で、リーシャは再び大地を蹴った。
空中戦。
チャンスは一瞬だ。ほんの数手で敵を追い詰めなければならない。
だからまず、リーシャはその前提を覆すことにした。
イリーリャの胸倉へ向け、右手を伸ばす。
「っ!」
リーシャの狙いはイリーリャにも伝わった。
胸倉を掴み、イリーリャの力を借りて無理やり滞空するつもりなのだと。
闇魔法で腕をコーティングすれば、ハーピーが纏う風の刃にも耐えることができる。
ヴァンパイアの膂力は脅威だ。
ハーピー最大の武器である脚力が使えない状況では否応なく不利になる。
右手で胸倉を掴み、空いた左手でタコ殴りにする。
それがリーシャの狙いだろう。
──それが通用すると、本気で思っているのか。
イリーリャは自らの胸倉を掴む手を、あえて受け入れた。
小さな手だが力強い。こうなってしまっては逃げ出すのは困難だ。
あっけない作戦の成功にリーシャの眼は軽く見開かれたが、そのまま構わず左腕を引き絞った。
闇を纏った拳が振り抜かれる。
しかし──
「なにッ!?」
振るった拳は、突如現れた岩の壁に遮られた。
いつの間に。一体どこから展開を?
疑問が思考を埋め尽くすが、すぐに氷解する。
翼だ。
イリーリャの、虹色の翼。
飛ばした羽根ではなく、いまだ翼を覆う羽根の一枚一枚から魔法を展開したのだ。
広がり、結合した土魔法はまるで歯車型魔法陣のように噛み合い、強固な壁となる。
踏ん張ることのできない空中での一撃。
リーシャの拳はそこにほんの小さなヒビを作ることしかできなかった。
だがまったくの無意味だったわけではない。
ヒビは入ったのだから、何回も殴ればいずれは砕ける。
少々無理をしなければならないが、胸倉を掴んでいるのだからまだまだ攻撃は続けられる。
しかしリーシャが次に取った手は防御の一択だった。
岩が砕け散る。
が、リーシャが砕いたわけではない。
自らの翼に纏わせた岩の壁を、イリーリャ自身が爆散させたのだ。
視界を埋め尽くす岩のすべてがつぶてとなり、リーシャの眼前で放たれる。
リーシャは胸倉を掴んでいた右手を放し、攻撃に使うはずだった左腕と合わせて、なんとか頭部を守るしかなかった。
重力に従い、リーシャは再びイリーリャから遠ざかる。
リーシャの頬には裂傷が走り、潰された左眼からは血の涙が流れた。
防ぎきれなかったわけじゃない。
リーシャは顔を守らなかったのだ。
護ったのは、大切な大切な、家族の形見。
‶夜陰の三角帽子〟だった。
血で滲む視界に虹色の光が差し込まれる。
イリーリャの羽根。追い打ちだ。
空中のため避けることはできない。
両腕で弾いても防ぎきれはしないだろう。それほどの量だった。
(ここまでか……大した時間稼ぎもできなかったな……すまん、ゼレウス)
思考が引き延ばされ、自らの死を悟る。
しかしその瞬間、何かが風を斬る音を、リーシャは確かに聞いた。
一瞬遅れて視界に現れたのは、一陣の風を伴った──
(……矢?)
一条の軌跡が、降り注ぐ羽根を一枚だけ撃ち抜く。
風を纏わせていたのか、矢はその周囲の羽根を数枚巻き込み彼方へと運んだ。
ハッと、沈みかけていたリーシャの意識が覚醒する。
この量なら、捌ける。
突如生まれた光明にリーシャはだらりと広げていた両腕を急いで引き戻すと、残る羽根のすべてを弾き飛ばした。
空中で体勢を整える時間は取れず、リーシャは背中から地面に落ちる。
「かはッ……!」
衝撃に肺の中の空気のほとんどを吐き出した。
ゲホゲホと咳をしながら身体をねじり、両手をついて上体を起こす。
痛みに沈み込もうとする身体を何とか持ち上げ、リーシャはゆっくりと立ち上がった。
(今の矢、一体誰が……いや──)
矢は冒険者たちのいる方向から飛んできた。
リーシャは魔族だ。そんな彼女を助ける人族など……一人しかいないはず。
誰が助けてくれたかなんて考えるまでもない。
だけど、まさか──
「早く治療しなさいリーシャ。お互い、一人じゃ勝てない」
「エレイナ……!」
冒険者たちの中から駆け寄ってきた赤いポニーテールの少女が、リーシャの隣に並んだ。
ゼレウスと同じく、共に居たいと願った少女。
まさか助けてくれるなんて。
魔王を相手に怯むことなく、助けに来てくれるなんて。
嬉しさから、リーシャは帽子のつばの両端をぎゅっと掴んだ。
掴んだ両手でつばを下げ、ほころぶ表情を隠す。
そうだ、自分には友がいる。
‶ひとりぼっち〟なんかじゃないのだ。
闇の光で自身を癒したリーシャは、左眼から流れていた血を拭い、覇気に満ちた表情で顔を上げた。
「助かったエレイナ! いっしょにあのムカつく女をぶん殴るぞ!」