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だれ

作者: 暦師走

――ぶぉぉぉおおおんんっっ!!がたんがたんっ、がたんがたんっ…


 



 突風にスカートを巻き上げられ、忌々しそうに押さえつけると轟音がただ通り過ぎるのを待つ。

 だがそれも10秒と掛からなかったろう――がたんごとんっ…と鼓膜を震わせた耳障りな音を最後に風も落ち着きを見せ、反射的にスカートを払って居住まいを正した。


 静かになった駅のホームは内緒話どころか、ちょっとした動作も誰かの耳に届きそうで、神経質な人がいれば睨まれるのではないかとさえ錯覚しそうになるが、向かいのホームを含めても人の姿は殆どまばら。

 都心から離れた駅の、それも平日夜中近ければ仕方がないだろうと、少しばかり自分の浅はかさに溜息を吐いた。


 

 事の始まりは幼馴染2人が地元から離れた進学校への受験を希望した時。片や親戚の家から、片や引っ越しも相まって通学できる環境にいて、残されまいと意地になった結果、合格したまでは良かった。

 ただ膨大な通学時間はやっぱり辛くて、彼女たちも知っていたからこそ心配してくれたが、同じ高校に行ける事は素直に喜んでくれていた。


 入った部活でも新しい友達が出来た。たまに幼馴染の家に泊めて貰える時なんかは童心に還る思いになるし、何より始発近くの電車に乗らずとも、ゆっくり学校へ向かえるのは至福の一時と言えよう。

 それでも母からは「先方に迷惑をかけないように」重ね重ね言われていて、もちろん自覚はしている。成績さえ落とさなければと高いお金を払ってもらって学校や部活へ通い、毎朝日が昇る前に起こしてくれる親に散々お世話になっている手前、問題は起こしたくない。

 しかし何といえど、ピカピカの高校生。友達に誘われればカラオケに行くし、ご飯だって食べに行く。


 おかげで帰りは遅くなり、乗り継ぎに次ぐ乗り継ぎで、ようやくあと1本乗れば家まで帰れる駅に着いた頃には、この有様。話し足りないからと2軒目をハシゴしたのは調子に乗り過ぎたかもしれない。

 明日も学校があるのに、なんて自分でも分かり切っている事を母に連絡した時にも言われ、「もうすぐで帰るから」とだけ伝えて、無理やり電話を切った。

 

 その“もうすぐ”と言うのも実はまだ先の話。



――ぶぉぉぉおおおんんっっ!!がたんがたんっ、がたんがたんっ…



 また電車が通過し、スカートだけでなく髪も押さえる。下校時の難点は快速、それに急行も止まってくれない駅だという事。

 各停に乗らないと帰れないし、乗ってからもまだ遠い。1度寝こけたせいで通過して、戻りの電車がなくなったがために、父が迎えに来てくれた事まであった。


 自分の我儘で遠い学校に通っている自覚はある。親にも感謝はしている。

 それでも過疎地というわけでもないのに、生まれ育った地元が嫌いになりそうな時があり、今も半ば心が揺れ動いてしまっていた。

 実家から通い続ける生活があと2年以上。考えるだけで憂鬱になりそうで、いっそ1人暮らしでも申請しようかとも思えてくる。


 バイトで家賃を払いながら部活に励む先輩もいる。明日にでも話を聞こうと思っていた矢先、明るい光がホームをゆっくり満たし始め、ようやく家路に着ける心地に、眩く出迎えてくれた車内へ足を伸ばそうとしたが、そこでピタリと止まる。


 こんな上手い話があって良いわけがない。都心から離れた地元を嘗めないで貰いたい。

 慌てて引き下がって横腹に照った電光掲示板を睨みつければ、予想通り最寄り駅までの電車ではなかった。中途半端に途中で降りて、またホームを乗り換えなければならない状況に、惰性が身体を支配する。

 面倒臭い。どうせ乗り換えた所で家に着く時間は一緒。直行便に必ず乗ってやる。


 つまらない意地に呼応して扉はゆっくり閉まり、電車を温めるように少しずつ走る音が大きくなっていくと、生暖かい風が身体に吹きつけられて電車は去っていった。

 


 自分の判断は間違っていない。“残業した社会人な自分”を早めに体験しているだけなのだと言い聞かせ、焦る気持ちを落ち着かせようと試みるが、やはり後悔を覚えてしまうのはホームに誰もいなくなったからだろう。

 向かいも入れ違いで来た電車に人が乗って、今やホームは1人貸し切り状態。星や月明かりの代わりに照っていた蛍光灯が、今はただただ不気味に点滅し続けている。


「……コンビニで待ってようかな」 


 誰もいない油断からか、ポツリと呟いた独り言に続いて携帯を見てみるが、0時に閉まるコンビニはまだ余裕で開いている。入学当初は春先といえ、夜の寒さに負けて何度お世話になった事だろうか。

 おかげで買い食いと電車を逃がす負の連鎖を何度も経験して、なるべく行かないようにしていたのに、心細さが甘い誘惑を促してくる。


「やっぱり、ちょっとだけなら…」


 躊躇は瞬く間に崩れ、サッと財布を取り出してみる。小銭がチャラチャラと寂しい音を奏でるのは、楽しい宴の後の寂しさから来るものでも、温かいスープ缶の1つに在りつける金額は残ってる。

 早々に決断したアクションに思いを馳せ、財布を鞄にしまおうとした時。



――ぶぉぉぉおおおんんっっ!!がたんがたんっ、がたんがたんっ…


「ひぃぃっ!?」


 

 顔前を通り過ぎる轟音に後ずさり、部活で鍛えていなければ尻餅をついていたかもしれない。先程乗ろうとした電車から1歩引いたところに佇んでいたせいで、手を伸ばせば前腕部が持っていかれる距離にいたようだ。

 

 通学にいつも使うし、社会人になってからも、プライベートでもずっとお世話になるだろう移動手段だけれど、それでもいまだに電車の存在には慣れない。

 近付いてくる時に唸りを上げる風。身体を揺さぶる衝撃。一瞬でもホームから線路へと引きずり込まれそうな感覚は、まるで死神に誘われているようで――だから電車が来る時は、いつも黄色い線の内側どころか、ホームの後ろ側まで下がっていた。

 幸い心臓が止まる思いをした程度で済んだものの、自前の反射神経は身体の末端まではカバーしてくれなかったらしい。驚いた拍子に財布は指をすり抜けて、小銭ごと散乱。もうコンビニ気分ではなくなり、溜息を吐きながら屈むと夢の欠片をちびりちびりと拾い集めた。


 何故だか惨めな気持ちが押し寄せて、明日の学校に行くのも憂鬱になってくる。そんな時は魔法の呪文を唱えて自分を誤魔化せばいい。

 遠い学校を選んだのは自分の意思。財布が落ちたのは自分の身代わりになってくれたから。小銭が散乱したのも…。


 そこまで考えた所で、思わずホームを見てしまい、すぐに視線を逸らして小銭の回収に集中した。部活の顧問が語っていたポジティブ思考の大切さを自分に刷り込んで、今日あった良い事を目まぐるしく思い起こす。

 今朝は危うく遅刻しそうになったけど、おかげでカッコいい先輩とばったり会えた。購買部で普段はすぐ売り切れるパンも買えた。部活でいい汗をかいて、ファミレスでは先輩の甘酸っぱい恋バナを聞けた。

 少しずつ笑みを取り戻し始め、いまだ小銭を拾い続けれど誰が見ているわけでもない。今は自分1人。恥ずかしがる事など何もないのだ。



――…パサリ。


 などと、そんな風に思えていた時期があったのは、幸運だったのか。はたまた自分のお気楽さに呆れるべきなのだろうか。


――…バサっ。


 鳥の羽音ではない。ゆっくり顔を上げた先、反対側のホームのベンチにはサラリーマンが知らぬ間に座っており、憮然と新聞紙をめくっては紙を整えていたが、視線に気付かれたのだろう。パッと一瞥されて、すぐさま小銭拾いに戻った。

 自分が悪いわけではないのに、何で悪い事をした気になっているのか、財布に全部収めたことを確認がてら、立ち上がった勢いに紛れてもう1度様子を窺えば、男はいまだ視線を向けてきていた。

 

 そんなに小銭を拾う女子高生が珍しいのか。それとも新聞に目を通すだけの面白い事が書かれていないのか。居心地の悪い空間に耐えきれず身だしなみを整える振りをして、もう1回見てみる。

 なるべく自然体を装っていたつもりだったはずが、あまりにもハッキリとした眼光に棒立ちして、気付けば相手の瞳を見つめ返していた。

 決してロマンチックなものではない。ただ危機感を覚えるには、あまりにも漠然としていて、それでも初めての出来事に思考が一瞬カラになる。



 親、友達、学校の先生……警察。

 連絡先がぽつぽつ浮かび、脳内で警鐘がけたたましく渦巻くも、あいにく携帯は圏外。だからいつもは前の駅で母に連絡を入れていて、正直妨害電波でも出ているのか、やっぱり過疎地なのかと思えてくるが、仮に電話できた所で相手にも会話内容が聞こえる距離と空間にいる。

 下手な動きを晒して自ら危険に飛び込むような真似はしたくない。


 それなら改札に戻れば。ふいに浮かんだ閃きの中で、顔も覚えていない駅員の姿が神々しく見え、思い立ったが吉日。すぐにでも階段を駆け登ろうと踵を返した刹那。一段と明るくなったホームの蛍光灯に目を細めるや、プツンっと。唐突に全てが真っ暗になって何も見えなくなった。

 何もかもが見えなくなって、自分が盲目になったのかとパニックになる寸前だったが、目の前で手を振れば輪郭は見えずとも前を何かが横切った残像だけは見えた。


 単純に停電しただけ。すぐに復旧するだろうとホッとするも、問題は別にあった。

 反転して、サラリーマンを見て、明滅した明かりを見て――忙しなく視点を動かしたせいで、自分が今何処にいるのか分からなくなっていた。

 このまま前に進めば階段なのか、はたまた後ろに振り返って歩けばいいのか。最悪の展開はホームから線路へ真っ逆さまの転落。


 とにかく目が慣れるまで大人しく待つことにするも、突如背筋を走った悪寒が見えない目をカッと開かせた。



 夜風が吹き込んだわけでもない。ただ首筋にかかる生暖かい風はまるで人の息のようで、そんなはずはないと思いながら身を竦めるが、一向に遠ざかってはくれない。

 これまでだって痴漢に遭った事もないのに、よりによって何でこんな時に?

 理不尽な恐怖は次第に苛立ちへ取って代わる。毎朝学校で誰かに会うまで殺気立って登校している身に、帰りはとっぷり暗くなって寂しく帰る身に、漠然とした不安で今更押し潰されるなどあっちゃいけない。


 拳を固め、間髪入れずにビンタを容赦なく叩き込んでやろうと振り返った時。


――ぶぉぉぉおおおんんっっ!!がたんがたんっ、がたんがたんっ…


 

 空気を読まない轟音が再度飛び上がらせ、不完全燃焼の気合が、過ぎ去る電車に吸い取られるように消えていく。無機質な車輪の音がガタゴト鳴り響き、車内から零れる明かりがホームを照らして、ようやく自分の立ち位置が分かったものの、中途半端に振り返ったがために、自分が1人ではない事を改めて認識させられた。


――がたんがたんっ、がたんがたんっ


 車輪の音がいまだ駅を揺らし、車窓から交互に洩れる明かりがホームを断続的に照らす。その光と影の間に、誰かがずっと佇んでいた。

 過ぎ去る電車にではなく、顔も身体もこちらへ向けてきている。



「…だれ?」


 無意識に呟いた声が聞こえたかは定かではない。すぐ横を電車が今も走っているのだから。

 だが聞こえたと確信したのは、他でもない自分。問うた瞬間、まるで答えとばかりに真っすぐ歩み寄ってきた人影に、もはや乙女心は限界だった。自分の頭を抱え、それが最期の悲鳴となるかもしれない、精一杯の断末魔を上げるべく身体を折り曲げようとした時――パッと。

 閉じた瞼越しにも伝わる光量に恐る恐る顔を上げれば、蛍光灯は再びホームを照らしていた。


 いまだ震える手足に喝を入れ、ゆっくりでも良いからと自分に言い聞かせながら背筋を伸ばして、辺りを見回した。

 電車はとうに通り過ぎた。人影もいない。

 あまりにも唐突な事ばかりが訪れて呆然とし、やがて深いため息を吐き出すとホッと胸を撫で下ろした。これで向かいにサラリーマンさえいなければ、人目も気にせず膝から崩れ落ちられるのにと苦笑いするも、ハッと顔を上げて見ればベンチに座っていた彼はいなかった。

 

 向かいのホームを隈なく視線を走らせてもやっぱり見当たらず、もしかしたら先程の長い通過電車が去る間に迎えが来て消えてくれたのかもしれない。

 また駅に1人、それも不安な気持ちに陥らされる場所で取り残されているが、ジロジロ見てきた彼もまた懸念材料の一端。これで良かった。明かりも戻った。あとは自分が乗る電車が来て拾ってくれれば、自宅まで一直線。もちろん寄り道なんてしない。


 これまで何度も通り過ぎたのだから、そろそろ1台は来てくれるはず。



――…バサっ。


 期待を込めて線路の先を覗こうとした首が少しずつ戻ってきた。

 気のせいであってほしい。いっそフクロウでも駅に降り立ったのなら、今夜の出来事が全て帳消しになるだろうに、現実は無情にも悪夢を突き付けてきた。

 ゆっくり顔を向ければ、少し離れたベンチにサラリーマンが座っている。同じスーツ。同じ髪型。同じ鞄を向かいのホームでも置いていた位置に寝かせ、きっと同じ新聞を読んでいる。


 ふいに視線が向けられて思わず顔を逸らしたものの、状況は最悪。当初の計画にあった改札へ行くには彼の前を通らなければならない。

 いつこっちへ移ったか?そんなの停電の時に決まっている。まさか“ホームを間違えていた”なんてはずが今更あるはずもない。



(……見られてる)


 もう顔を向ける気にもなれず、背中に突き刺さる視線に悪寒が止まない。新聞を広げている音はするのに、あれから1度もページをめくる音がしない。

 停電が復旧していなかったら、今頃どんな目に遭っていたか。


 あの時、向かい合って一体何を考えていたのか。



 足が震えてきた。意味もなく携帯を点けては消してを繰り返し、一刻も早く電車が来るのを待つほかない中、ふと気付いてしまった。

 同じホームに、それも狙ってきたのなら確実に同じ電車に乗ってくるはず。恐らく他にも客はいるだろうから下手な事はしてこないだろうし、最悪、むしろ運転席まで移動すれば車掌に縋りつける。

 あるいは今すぐにでも悲鳴を上げて駅員に来てもらった方がいいのだろうか。電車で何もしてこないからと言って、そのまま家まで着いて来られたら。

 

 必死に思考を整理しようとするが一向にまとまらず、しかし百歩譲って彼が駅のホームを間違えたにしても、暗闇でされた事は絶対に勘違いではない。だからこそ無理にでも改札へ向かえば男がどう動くのか、想像したくない方向へばかり未来を予測してしまう。

 悲鳴を上げる暇すら与えられないかもしれない。彼が読んでいる新聞の見出しに自分の名前と顔が載る出来事がこの先待ち受けているかもしれない。

 

―…もしかしたら。


 最悪の展開はずっと脳内でぐるぐる回っていた。でも。そんなはずは。

 どうしても否定したくて勇気を振り絞ると、ぎこちなく首を回してサラリーマンの様子を窺おうとした。

 が、すぐに前へ向きなおった。


 もう新聞紙を読むふりすらしていない。真っすぐ、射抜くような眼光を向けてまじまじと観察されていた。

 否定が確信に変わる。新聞の見出しに自分が殺した被害者の顔写真を載せるのが彼の猟奇的な趣味。最低。変態。見んな。お願いだから向こうへ行って…。


 罵詈雑言は決して喉から出ず、代わりに涙がとめどなく溢れる。さっさと家に帰れたら、こんな。こんな時間に駅で待ちぼうけする必要もなかったのだ。

 学校だって毎朝早くに出て、夜遅くに帰ってくるのは辛い。意地と友達だけを理由に通学するのが間違えで、部活やクラスで新しい友達なんていくらでも出来た。進学校に通いたいなんて思ってもいないし、地元の高校に通えば電車に乗らずとも、毎日穏やかな生活を送れたはず。

 生きて帰れたら必ず親に謝る。母の言う通り、友達を理由にわざわざ遠くの学校へ通うのは、多分間違っていた。父の言う通り、電車に長時間乗って移動するのは社会人でも辛いというのは、毎日実感している。



 だから今日だけは見逃して。


 

 足も指先も限界のあまり悲鳴を上げている。こんな時に座りたいベンチは、今や殺人鬼の物。交渉の余地なんてないだろう。

 圧倒的無慈悲。いっそ男にでも産まれていれば、などと考える間もなく、ふいに差した明かりが遠くから近付いてきた。いつもの通過電車ではない、エンジンの音はゆっくり落ち着いたもので、駅に止まろうと速度を下げている。


 その時ばかりは神様に感謝を捧げた。きっと親と会うために送り込まれた使者と見間違う神々しさに、あるいは前面の光が眩しいだけだったかもしれないが、とにかく活路は見出せた。

 振り返るとベンチに座ったサラリーマンが物凄い形相で睨みつけてきた。殺される。

 タクシーを呼ぶ勢いでその場を離れ、気付けば手まで振っていたが、車掌から見れば滑稽な姿に映ったかもしれない。でも背後からベンチを離れる音が聞こえて、とにかく電車に乗って助かりたい一心で早く着くよう、必死に声にならない声で呼びかけ続けた。



――ドンっ


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。気付けば電車は真正面から向かってきていて、最後に覚えているのは背中に走った、押されたような衝撃。頭をレールにぶつけたのか、側頭部を鈍痛が広がって身体がうまく動かない。

 最初から罠だった。最初からこの瞬間を狙っていた。これが奴の手口。


 薄れゆく意識の中で、まんまと策略にはまった自分の間抜けさに呆れながら、死神のけたたましい警笛を最後に、ゆっくり瞳を閉じた。明日の新聞の見出し、きっと両親は悲しむだろうな……








――ぶぉぉぉおおおんんっっ!!がたんがたんっ、がたんがたんっ…


 脳を揺さぶる音に、一瞬電流が走った気さえした。固く目を閉じ、それからゆっくり開けば蛍光灯が頭痛をあざ笑うように明滅している。ぼんやりする意識は徐々にはっきりし始めるが、それでも身体の痛みも相まって、うまく起き上がれない。

 むしろ1ミリだって動かしたくなかった。


 頭がボーっとする。それでも現状を把握しようとして、懸命に思考と瞳を働かせてみれば、背中の感触からコンクリートの上に寝そべっているらしい。蛍光灯とは別に差し込んでくる光源は扉を全開にして止まった電車からで、ふいに何処からともなく聞こえた声に一層視線を忙しなく動かした。

 決して大きくはなく、小声でもない音源を探っていく内にようやく視界の端で見つけ、少しだけ頑張って顔を上げてみる。

 駅員が1人に警察が2人。それと“奴”の計4人。今ある情報を整理してみて、自分が横たわっている経緯まで考えてみると、ぼんやりする思考とは裏腹に次々ストーリーが組み立てられていった。


 殺人鬼の手口は失敗。電車の緊急停止が間に合って、警察も召喚された。証人は車掌で、今まさに取り調べを受けている所なのだろう。


 

――ぶぉぉぉおおおんんっっ!!がたんがたんっ、がたんがたんっ…



 こんな状況でも反対側のホームでは電車が走っている。人が死にかけたと言うのに無神経すぎると思う一方で、誰だって早く家に帰りたいと考えれば、それも仕方ない事なのかもしれない。

 そもそも今日中に自宅へ帰れるだろうか。病院に連れていかれるかもしれないし、目覚めた事に気付いた警察からの事情聴取もあるだろう。もしかしたら新聞記者が来て、凶悪な殺人鬼の魔の手を逃れたラッキーガールとして大々的に、それとも新聞の片隅に名前が載るかもしれない。

 これまでの恐怖が一瞬で報われた気がして、少しばかり得意気になるが、親に謝罪する約束を忘れたわけではない。それがなくとも今すぐ家に帰りたい。


 指先は動いても、鈍痛がまだじんわり残って、起き上がろうとも思えない。兎に角サラリーマンを逮捕して、一刻も早く駅から連れ出してほしい。

 そんな思いで4人を睨みつけようとするが、どうも様子がおかしかった。


 警察の背中しか見えなくとも、駅員もサラリーマンも顔を青くして、後者に至っては手錠すら嵌められていない。一体何をしているのか叫びたくとも身体の痛みが呼応してか声は出ず、静かなホーム内で彼らの声ばかりがやけに五月蠅く聞こえてきた。


「…もう1度確認しますが、彼女が自分からホームを飛び降りたのは間違いないんですね?」

「………ぉお、女の子が、満面の笑みを浮かべて、て手を振りながら電車に飛び込んできました…間違いありません……しょ、正直、飛び降り自殺とかじゃなくて、一瞬お化けか何かって勘違いするくらいで、あっ、でもそちらの男性が後を追って彼女を助けてくださったので、無事…と言いますか」

「……再三で失礼ですが、彼女に不審な点はなかったんですよね?こう、自殺の前兆と言いますか、ホームを移ってまで心配されてたんでしょう?」

「だから言ってるだろ!彼女の、後ろに、何かがずっと立ってたんだ!最初は彼氏かと思ってたけど、小銭を拾ってる間もずっと見下ろしてるだけで、その後もぴったり背中にくっついてて、何かヤバいと思ったんだよ!!」


――それなら、その“男”は何処にいるんですか?


 駅員たちの声音に反して、警察の声は気怠そうだった。ホームにいるのは女子高生と駅員にサラリーマン。警察2人が到着するまでも、男の姿を目撃したものは誰もいない。


 でも今なら彼が殺人鬼ではないと断言できる。駅員の発言も間違ってはいないと分かる。






――……ハァァァァ、…ハァァァァ、…ハァァァァ




 生暖かい風が、まだ首筋にかかっている。屈み込んで、耳元に顔をうずめている、“何か”が。


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