目を閉じて恋を数える
1.野村くんの葛藤
気になる……。
斎藤さんの前髪……。
絶対あのトイレの花子さんのような前髪はよろしくない。
右斜め後ろの席からその姿を眺めつつイライラと戦う。
あの重そうなストレートロングも陰気臭くて嫌いだ。
俺がこんなことを考えているなんて、斎藤さん自身は知る由もない。
俺だって他人の髪型に注文つけようなんて、余計なお世話だとわかっている。
――これは、多分、兄貴のせいなんだ。
高校の近くに兄貴の経営する店はある。
店と言うと聞こえはいいがトレーディングカードの中古屋で、限定レアカードや特典フィギュアを買い付けてマニアに供給している。
you tubeでそれらの解説や開封もやっている本物のオタクマスターだ。
そして兄貴は、相当な出不精で俺に髪を切らせている。
最初に依頼されたときはなんの冗談かと思ったが、一度やってみると面白かった。
元来手先が器用な俺は、独学してそれなりにできるようになってしまった。
プロから見れば良い迷惑だろうが、俺の行為自体は子どもの髪を切る親みたいなものだ。
兄貴が満足していれば問題ない。
面倒と言いながら拒否できないのも、嫌いじゃないのかもしれない。
「二次元天国」というあるまじきネーミングは、兄貴の独特な感性が存分に発揮されている。
古い雑居ビルは、お世辞にも健康的とは言いにくい暗さで、かつてはビデオのレンタルショップが入っていたらしい。
「おう、翔碁、おかえり」
長身の上にスラリとしたスタイルは男の俺から見ても恰好が良い。
ただファッションには興味がないので、ジーパンに白か黒のシャツばかりだ。
それでも足は長いし、顔立ちが美しいので憎らしいほどイケてる。
髪を短くしたがらないが、ワイルドな感じも似合うと思う。
「何時から切る?」
「7時くらいでいいか? 晩飯奢るよ」
「じゃあ、俺事務所でゲームしてっから」
レジ台を越えてバックヤードに入ろうとしたときだった。
店のドアがそろそろと開くと、紅いベレー帽に白いロングスカートの女が入ってきた。
「兄貴、最近、女の客も来るのかよ?」
ひそひそと耳打ちする。
「いや、珍しいな」
女の子は何かを探している様子だったが、俺らの様子が気になったのかこちらを見た。
「あ……斎藤、さん!?」
目を見開いた彼女はフリーズしている。
「の、野村くんもこういうお店来るんだね」
あたふたと逃げ出そうするのが、隠したヒマワリの種を見つけられてジタバタしているうちのハムスターに似ていて笑える。
「毛筆フォントの斎藤さんがこの店になんの用なの?」
「いや……その」
「しかも私服に着替えてるし」
「……」
しどろもどろの斎藤さんを見ると、もっと突っ込んでみたくなった。
彼女の書く文字は、パソコンの毛筆フォントよろしく整然としていた。
女子たちとつるまないばかりか、隣の席だった俺とも事務的にしか話したことがない。
トイレの花子さんみたいな頭が、鬱陶しい感じに拍車をかけていた。
「翔碁、うちのお客に絡むなよ」
兄貴に咎められて舌を出す。
「探してるもんがあるなら、あの人に聞けば? ここの店長だから」
斎藤さんは顔を赤くしながら、兄貴に近寄ると小さな声で申し出た。
「隣の沖田くんの限定イラスト、入ったらしいと聞いたんですけど……」
兄貴が顔をパッと輝かせた。
「隣の沖田くん狙いだったんだ。レアなやつをいくつか手に入れてあるよ」
事態がいまいち飲み込めない。
「隣の沖田くんって何?」
「新選組をいじった乙女ゲームなんだけど、キャラのイラストがなかなか人気で」
兄貴の言葉を受けて、斎藤さんの表情が一気に明るくなる。
「そうなんです。イベント限定のイラストは諦めてたんですけど」
「限定品なら任せてくれ。日本全国の二次元ネットワークには強いんだ」
「勇気を振り絞ってお店まで来たかいがあります」
「俺も、あのイラストレーターの絵は好きなんだ」
「男の人なのに、ですか?」
さっきまでのビビった顔はどこへやら、教室で見たことがないほどよくしゃべる。
一瞬、背筋が寒くなる。
「兄貴、俺、事務所に行くよ」
彼女の趣味に文句をつける筋合いはないが、兄貴と話が弾む奴は本物のオタク道を歩く素質がある。
教室での斎藤さんにイラついたのは、その本性を第六感でかぎ取っていたからかもしれない。
「兄貴? じゃあ、店長さんは野村くんのお兄さんなんですか?」
「聖也です。よろしく」
斎藤さんがまじまじと見る。
「なんだよ。似てないだろ? 知ってるよ」
でも、俺はさらに知っている。
兄貴は恐ろしくイケメンのくせに、二次元にしか興味がない。
念願のものを入手した斎藤さんは、ご機嫌そのものだった。
「聖也さん、また来てもいいですか?」
「もちろん。探しているものがあったら教えてよ。約束はできないけど、当たってみるよ」
2.斎藤さんの瞬発力
一晩経つと、俺にも余裕ができた。
あの斎藤さんが二次元派だったとは……。
あんなふうに男と話すのは初めて見た。
いつだってイケメンの兄貴が話しかければ、たいていの女の子は喜んでいる。
でも彼女の場合、顔の造作より趣味趣向の一致で喜んでいるのがありありとわかる。
――なんかズレてるっていうか。
いや、ズレてても一向に構わないが……。
翌日、音楽を聞きながら机に突っ伏していると、斎藤さんにひょいっとイヤホンを取り上げられた。
「なにすんだよ」
「聖也さんってカッコイイね」
「だろうね。でもあいつは、二次元専門家だから惚れてもムダだよ」
「そういう意味じゃないけど……。――あたしがあの店に行ったこと、学校では言わないでよ」
そっと低めの声で付け足したが、これが一番言いたかったに違いない。
「なんで?」
「とりあえず学校では違うキャラでいたいの」
「昨日の姿が本性だろうに……。お前絶対ムッツリだろ?」
とたんに斎藤さんの顔が真っ赤になる。
「――っ!うるさい」
リアクションの瞬発力はなかなかのものだ。
その日の放課後も店に斎藤さんは現れた。
もうバレたからいいやと言わんばかりに、俺がいてもお構いなく「隣の沖田くん」のキャラグッズを物色している。
「そんなに好きなんだ、それ?」
「そりゃあ、もう」
うっとりと自分の世界に入っている。
「はあ……。マジで兄貴路線行くんだな」
「ねえ、ところであのカウンターの端にいる子、知ってる子?」
レジ台は長く、対面キッチンのように椅子が数脚ある。
「あの子は、兄貴のVIPだ」
「まだ小学生だよね? 一人でここに来てるのかな」
「俺も詳しく知らないけど、今年になってからよくいるんだよ。絵がすっげー上手いんだ」
「そうなんだ。見たい」
「あ、いや、でもそんな、いきなり、やめろよ」
と言ったのもつかの間、斎藤さんは彼の背後から覗き見する。
こういうときの瞬発力も意外と高いらしい。
「――ほんとだ。なかなかのクオリティだわ」
突然声をかけられた彼は、困惑して俺を見る。
「俺のクラスメートだ――すまん」
「なんだ、彼女じゃないのか」
「こんなの彼女なわけないだろ。さっきからそこの何とか沖田くんに夢中だ」
「ぼく、八巻渡って言います」
「兄貴に懐いてここに来てると思ってたんだけど、兄貴は友達だって言ってる」
渡が嬉しそうにはにかんでいる。
「渡くん、小学生でしょ? ホント上手ね。プロみたい」
「いやいや、まだまだです。マネばっかりだから」
普段、あまり話さない渡がハキハキと受け答えしている。
渡も二次元派の一族だから、そういう意味じゃ毛並みが違うのは俺なんだろう。
「お姉さんは、隣の沖田くんが好きなんですね……。こんなやつでしょ」
渡は鉛筆を走らせると手持ちのノートに、そのキャラをさらさらと描いて見せた。
「す、すごいっ。野村くん、すごいよ、この子」
「ぼく、カメラアイみたいです」
「――カメラアイって?」
「一度見たものを、カメラで撮ったみたいに記憶できるんです。絵を描くときは、それをアウトプットするのでコピーは得意かもしれません」
「こんなふうに描けたらうらやましいな。昨日買った限定イラスト、欲しかったのは間違いないんだけど、背景が惜しいんだよね」
「どんな雰囲気が良かったんですか?」
「あのね、ここまでメルヘンじゃなくっていいの。なんていうのかな……もっと時代感が欲しい」
「じゃあ、こんな感じにしてみましょうか?」
さっき書いたイラストの後ろに、渋い江戸の街並みがほんの数十秒でうっすら浮かび上がる。
「うわ、手品みたい。うん、いい。こっちのが断然好み」
「これ、あげます」
「え、いいのっ? 嬉しいっ! ありがとう」
斎藤さんの嬉しそうな顔と言ったら正視に堪えないし、教室とのキャラが違いすぎる。
――あんまり関わらない方が良さそうだ。
ため息をつきかけたとき、買い出しに行っていた兄貴が戻ってきた。
「もう仲良くなったんだ。斎藤さんだっけ?」
「名前でいいですよ。真琴って言います。」
少し間をおいて、渡が斎藤さんに申し出る。
「あの、ぼくも真琴ちゃんって呼んでもいいですか?」
なんだろう。
この3人が揃うと、こめかみあたりが痛みそうだ。
3.斎藤さんのフェロモンについて
「斎藤さんに告白したい」
――なんだって?
そんな声が聞こえてきて、教室のドアに伸ばしかけた手を止めた。
同じクラスの林田と渋谷じゃないか。
立ち聞きなんて――と思いつつ、しっかり聞き耳を立てる。
「文化祭が終わったら、斎藤さんに告白する」
林田と言えば、学校一の秀才で京大の現役合格をほぼ確約されてる男だ。
男二人で放課後の教室で恋バナとは意外と女々しい。
――いいか、斎藤さんはもっさりあか抜けないだけじゃなくて、実は二次元専門だぞ。
「そんなに斎藤さんっていいの?」
俺の代弁をしたように渋谷が問いかけると、林田は余裕の笑みを浮かべる。
「――みんなが知る必要もないけど、時々すっごいかわいいんだ。なんかフェロモンが出てる気がする」
心がちくっと痛んだ。
「はいはい。あばたもえくぼって話だよな」
高校ともなると、学校行事への意気込みは人それぞれだ。
俺自身は、すでに中学時代から部活を口実にできるだけ距離を置いている。
でも今年は、我ながら教室にいる方だと思う。
オンオフを見事に使い分ける彼女が、ぼろを出す瞬間を見てみたいのもあるが、林田のひと言が引っかかっているのかもしれない。
遊びに来る小学生にはどえらい人気があるというお化け屋敷をやるらしい。
大量の段ボールや大型の仕掛け諸々、準備の要るものをよくまあ選んだものだ。
窓の細工ついでに脚立の上から眺めると、林田は熱い視線で斎藤さんを見ている。
人の恋路に興味はないが、これに気づかない斎藤さんもやっぱり鈍感な方なんだろう。
――何しろ二次元派だからな。
ひそかに冷やかしてみたものの、心がざわつく。
そのとき、ガムテープが俺の手から落ちた。
真下に斎藤さんがいる。
「危ないっ!」
林田がそのガムテープをキャッチした。
「野村、危ないだろ。顔に当たったらどうすんだよ」
――ナイスプレイだ。彼女だってキュンとしたかもしれないぞ。感謝してくれ。
こっそり悪態をつくものの、次の瞬間凍り付く。
引っ張り出していたテープの粘着部分が、斎藤さんの前髪の一部にくっついていた。
彼女は一瞬驚いていたものの冷静だった。
「林田くん、ありがとう」
「待って、ガムテープがくっついてる」
髪に触れようとした林田を見て、とっさに二人の間に入ってしまった。
それぞれに驚いた顔で俺を見たが、彼女はすぐに笑いかけてきた。
「大丈夫だよ、髪なんて切ってもすぐ伸びるもん」
ハサミに手を伸ばした斎藤さんの手首を反射的につかむ。
「俺がちゃんとしてやるから、まだ切らないで」
ガムテープごと前髪を持ち上げながら、上目遣いに斎藤さんが俺を見る。
「ちゃんとするって?」
「今日、俺らここで抜ける。俺がテープ落としたから責任とるわ」
斎藤さんの手から奪ったハサミでガムテープ本体のみを切り離し、教室を抜けた。
「ねえ、野村くん、どこ行くの?」
「兄貴の店」
「なんで?」
「店には髪切る道具があるんだ」
斎藤さんが目をぱちくりする。
「な、何の話?」
雑居ビルの階段を上がると「二次元天国」のドアを勢いよく開けた。
「翔碁、どうした? 真琴ちゃんまで……」
「事務室借りる。俺がミスしてガムテープつけちまった」
「お前が切るって?」
「このまま帰せないだろ」
兄貴は何が面白かったのか突然吹き出して、斎藤さんに告げた。
「俺の髪、いつもあいつが切ってるんだ。下手な美容師よりうまいから安心して」
「野村くんって何者なの?」
「翔碁、トイレの電気切れたから買いに行ってくる。客が来たら頼むな」
「……ったく。俺店番してる暇ねえよ」
事務室に入るとケープと七つ道具を取り出して、斎藤さんを椅子に座らせた。
「聖也さんの髪を切ってるの?」
「――正しくは兄貴に切らされてるんだけど」
「そんな簡単にできるもんなんだ?」
「簡単かどうかはわからないけど、それなりに研究はしてる」
「好きなんだ」
「さあ? でも手先は器用な方かもな」
「ひゃっ!……」
霧吹きの水が冷たかったのか、小さく叫んだあと恥ずかしそうに笑う。
「――野村くんが、自分のこと話してくれるの、初めてだね」
「そうだっけ?」
自分のことを話しているという自覚はなかった。
「――あたしのこと嫌いだったでしょ?」
突然の指摘に、一瞬動作が止まる。
「いや、別に嫌いとかそういうわけじゃ……」
「うそ。隣の席のとき、いっつも冷たい目で見てたもん」
斎藤さんにはそう見えていたらしい。
「……ちょっと髪が重そうだなって気になってただけなんだけど」
「え、髪?」
「鬱陶しい感じだったし――ま、余計なお世話だよな」
「美容師にでもなれば?」
呆れた口調とは裏腹に砕けた笑顔の彼女を見て、ここで初めて会った日のことを思い出した。
そういえば、俺を見たとき少々怯えていたような……。
彼女が怖いと思うほど目つきが悪かったなら、俺に非があるかもしれない。
「じゃあ、野村くんがやりたいように切っていいよ。うっとおしくないように」
笑顔ではあったが、鬱陶しいという言葉には少なからず引っかかっているようだ。
俺が切る以上は、適当に終わらせる気などさらさらない。この重そうな前髪をすっきりさせる絶好のチャンスだ。
斎藤さんの髪はしっかりしていて、一本ずつ体積がある。
――だからトイレの花子になるんだよ。
「この部分を切るけど、分け目をこっち側に変えて、前髪増やしたらカッコよくなるから」
櫛を当てながら説明する。
「ねえ、もっとばっさり切っていいよ」
予期せぬひと言に思わず呆れる。
「髪は女の命とか言うだろ。失敗して泣かれたら困る」
「泣かないよ。あたし美容院嫌いだし。前髪なんて自分でざくざく切ってただけだもん」
正直なところ、そうだろうとは思っていた。
気にする女子なら、あの前髪で登校しては来ない。
――やっぱり兄貴と同類なんだよな……。
「野村くんがどんなふうに変えてくれるのか、見たい」
瞳の奥が、挑戦的に光る。
鬱陶しい髪だと思っていたことを、根に持っているとしか思えない。
数十分後、鏡の前には、何倍も明るい印象になった斎藤さんがいた。
「すごい! あたし得しちゃったな。ありがとう」
素直に喜ばれると照れくさい。
「細かい髪の毛落とすから、目つぶってて」
化粧用のブラシを手に持つと、兄貴の髪を切った後のように額、目の下、頬についた髪を払っていく。
斎藤さんが「ふふっ」と小さく笑うので心臓が跳ねた。
カットに夢中で今の今まで忘れていたが、今、密室に二人きりという事実。
閉じた瞳に影を落とすまつ毛や、柔らかそうな唇ばかりが目に入ってくる。
林田が話してたフェロモンのことがよぎった。
――急に可愛く見えるのは反則だ。
自分の中から突き上げてくる衝動に逆らえず、斎藤さんの唇に自分の唇を重ねた。
「……っ!」
真っ赤になった斎藤さんと目が合う。
(俺、今、何したんだ)
「か、帰るね」
斎藤さんはケープを投げ捨てると、足早に店を出ていった。
俺は、混乱している。
「真琴ちゃん、帰ったんだ?」
「うん」
「翔碁、どうした? 飯食ってく?」
「……いらない」
「なんか、あった? 真琴ちゃんと」
思わず顔がほてる。
「な、なんにもないって」
「それはなんかあったって言ってるのと同じだぞ、若造め」
「二次元専門家に言われたくねえぞ」
4.斎藤さんの逆襲
こんな気の重い登校は初めてだ。
――まさかショックで泣いてたり、しないよな。
教室に行くと、彼女は珍しく女子に囲まれていた。
「斎藤さん、そっちのが似合う!」
「昨日あれから美容院行ったんだ?」
「野村くんが紹介してくれた美容師さんがせっかくだからって」
斎藤さんの声もいつもより大きく聞こえる。
「その前髪だと大きな目がめっちゃきれいに見えるよ。いいなー」
俺が言うのも説得力がないが、なんで女子はこういう変化に大きく食いつくんだろう。
でも、あれを見る限り、泣き明かしたってことはなさそうだ。
声をかけようとして近づくと、すっと距離を取られる。
――あれ、避けられた?
林田が斎藤さんの近くに駆け寄る。
「斎藤さん、今日、放課後ちょっと残れる?」
「大丈夫だよ」
「相談したいことがあって」
――おい、林田、彼女を放課後残して何しようっていうんだよ。
告白は文化祭終わってからと言っていたはずだ。
授業が終わってからも、部活に行く気にならなかった。
しかし、教室には生徒が残っていて二人きりにはなりそうもない。
――何いちいち気にしてるんだ、俺は……。
「あたし行ってくるよ」
段ボールのゴミを学校のゴミステーションまで運ぶ役割に斎藤さんが立候補した。
「じゃあ、俺も……」言いかけた林田に、担任が呼んでいたと嘘をつく。
一人で段ボールを運んでいく斎藤さんの後を追った。
「一緒に行くよ」
無言で段ボールを手渡してくる。
「斎藤さん、怒ってる?」
「別に、怒ってない」
ゴミステーションに段ボールを積み上げると、彼女はすぐに踵を返した。
「俺のこと、避けてる?」
「別に、避けてない」
「今日、ぜんぜん俺と目合わせないじゃん」
「……」
俺に背を向けたままの彼女の表情は、読めない。
「あの昨日の、あれは……その、つい――」
「『つい』でできちゃうんだ! 野村くんは」
――やっぱり怒ってるんじゃないか。
「ついって言うか……」
急に可愛く見えたなんて、事実でも通用しないかもしれない。
「しょうがないだろ、急にそういう気分になっちゃったんだから」
「そういう気分――」
「可愛いなって思わなかったら、そんな気分にならなかったし」
小さめの声で言い訳がましくつぶやく。
「俺だって驚いたし……考えてみたら、キスしたくなるなんてやっぱ好きなんだなって――あっ」
はずみで出た言葉に、思わず口を抑えた。
(俺、今、言った)
振り返った斎藤さんは、顔色ひとつ変えずに近寄ってくる。
「じゃあ、あたしも実験する」
「じ、実験?」
「そういう気分になっちゃうかどうかの実験」
もはや前後のつじつまが合っているか否かを、冷静に判断することもできない。
「目、つぶってみて」
後ろめたさからか、言うことを聞かざるをえない雰囲気にのまれる。
「あーだめだ……野村くん背が高いからこれじゃわかんないや」
ゴミステーションに廃棄されていたぼろい椅子をチョコチョコと運んでくる。
「これに座って」
「なんのマネ?」
言われたまま壊れそうな椅子に座り、目をつぶる。
言葉がないまま、数秒経過。
「――確かに。普段、こういう顔って見られないよね」
……なんだ? 新手の羞恥プレイか?
「こうやって見ると、聖也さんと似てるところもあるな」
「っ! 当たり前だろ、兄弟なんだから……もういい?」
体温だけが勝手に上がっていく。
「まだ、だめ。――絶対、目開けちゃだめだよ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、唇に温かくて柔らかいものが触れた。
昨日の記憶が間違えでなければ、多分、今、キスされてる。斎藤さんに――。
唇の圧迫感がなくなり目を開けると、上気して頬を染めた斎藤さんがいた。
「ほんとだ……そういう気分になっちゃった」
「どういう――」
「これでおあいこだから、フライングは許してあげる」
思わせぶりな笑顔にどぎまぎして、右手の甲で唇を拭いてごまかす。
「……そっちの方が長い時間してただろ」
すっかり斎藤さんのペースで進んでいる。
このまま終わらせるわけには行かない。
「3回目は合意の上ってことでいいんだよな?」
体の自由を取り戻した俺は、斎藤さんの目が照れたのを確認してから、もう一度口づけた。
その夜、俺はとても斎藤さんには言えないような夢を見た。
男子高校生なのだから仕方ない。
―――完―――