三話
山崎勝重から養子縁組の話がきたとき、和泉進は天の恵みだと思った。養子になってくれれば両親までをも扶養してくれるというのだ。
三人家族だった。父親と母親と進。
生来身体の弱い父親が大病を患い、いよいよもって働けなくなってから稼ぎ手は母親一人しかいなく、生活費や養育費、そして高額の治療費と入院費など、とてもすべてを賄うことはできず、借金は増える一方で家計はつねに火の車だった。
給料のよい仕事に就いて早く自分が両親を支えなくてはと、進は学校へ行けば勉学に励み、家においてはわがままや文句を言わずに家事を引き受け入院中の父親の世話をした。アルバイトが可能な年齢になればそれが加わった。
進はつねに両親のためにあろうとした。ひいてはそれが自分の幸せだと。これが家族だと。――間違っていたとは、今でも思わないけれど……。
金のことは清くありすぎた。まともな世界で、まともに働いて、それで心身がぼろぼろになってさえも火の車というのだ。良民だったがゆえに、下層エリアの7、8よりも貧しい暮らしをしていたように感じて、その点はのちに反省した。
勝重に会ったのは高等学校に入って二年目のことだった。
勝重は学校に寄付をしていた援助者の一人であった。呼び出される心当たりのないまま理事長室へ行き、そこで勝重と初めて対面し、突然に養子縁組の話が持ち出された。
驚きと戸惑いがあった。不審を感じる心があった。――けれども、それらを上回る喜びがあった。
自分ひとりが養子にいけば母親はあくせく働く必要がなくなるし、父親は安心して養生できる、と。
勝重宅に両親も受け入れてよいと言われ、たとえ養子に出ても父母と一緒に暮らせなくなるわけでも、ましてや会えなくなるわけでもないことが、いっそう進をその気にさせた。
両親と離別することになったからといって、進の返事は変わらなかっただろうけれど。
差し出された勝重の手を、進は迷わず取った。
養子となって二年後のことだった。
進が家政婦たちの噂話を偶然耳にして、勝重が母親に手を出していたのを知ったのは。
当然進は怒りに燃えた。
燃えたが、しかし、我慢した――してしまった。病気の父親を想って、通常と同じようにふるまった。ここで勝重と縁を切ったら父親にかかる金が払えなくなる。何も言わず黙って耐えていた母親も同じ気持ちなのだろうと思った。
そうして一年が経ち、結局父親は病に勝てずに亡くなり、母親はその翌日にあとを追うようにして自殺した。
母親の遺体を茫然と眺めた。
息子をかえりみることなく、独りにした。
けっして母親の苦悩を理解しない進ではなかったが、自分の存在が母親にとってなんら力になるもの――この世に引きとどめておくだけのものではないという事実をつきつけられたのはショックだった。
むしろ自分はただのお荷物で母の苦しみのひとつだったのかもしれない、という思考も頭に浮かんだ。
母親にかけられた最後の言葉はなんだったろうか。
(進はちゃんとしているから大丈夫ね)
(しっかりね。……やるんだよ)
夜、寝る前に部屋にきて言われた。ひどく曖昧な言葉だったが、夫が死んで落ち込んでいるんだと、その真意を確かめずにただ、うん、とだけ答えた。
翌日になってから、なるほどよくわかった。
――進はちゃんとしてるから、独りでも、大丈夫ね。
――独りでも、しっかりね。……やるんだよ。
と、そういう言葉だったのだ。
見捨てられたのだと理解して悲しみより怒りがわいた。行き場のない憎しみを持った。けれど問題はそのあとだった。
進の頭を、困惑が占めだした。
これから独りでどうすればいいのか……。
両親が死んだと同時に目的がなくなってしまった。
両親のために勉学をし、両親のために給料のよい仕事を望み、両親のために勝重の養子となった。
進は、何も持っていなかった。
進の周りもたったひとつのものだけで、それを失ったとたん、なんにもなくなった。
独りとりのこされて、独り何もない荒野においていかれて、追いかけようにも相手がそれを望んでいないことをありありと知ってしまった。
荒野にぽつねんと立ち尽くす進に、一歩を踏み出す勇気はなかった。
自分を理由にして行動を、人生を決めるべきだったと今になって思う。間違いであったとは言い切れないけれど、そう進は思う。しかしながら、当時の自分に教えを垂れることはできない。
――勝重のせいだ。
どの方向でもいい、荒野を去りたかった。
しばらくして歩み出す新たな目的を見つけるに至った。
――勝重のせいで母は死んだ。
それはあながち誤りではなかっただろう。母親は父親の身体が弱いのを承知で結婚し、病に臥しても連れ合い続けたのだ。多少の覚悟はしていたはずだ。そんな母親が死を選ぶなぞ、勝重にいいようにされていたからに他ならなかった。
――復讐してやる。
それをいいわけにして荒野を歩くことを、生きることを決めた。……いや。去りたかったから、生きたかったから、いいわけをした。
孤独に打ち勝とうという気概を、進は持ち合わせていなかった。
だからかもしれない、進がいままで勝重にもアダムにも直接手をくだすような行動をとらずにいたのは。
今度目的が消えるときは、自分も消えてしまうときでないとならない。しかも、自ら死することは抵抗のあることだから、他者によって消されなければ。
その絶好の機会は、長いあいだ待ったのち、アダムの出現によって訪れたのだった。