17 「再生」
火の海と化した書斎にて、真に与えられた時間は圧倒的に足りていなかった。
後ろからは迫りつつある亡骸の群れ。目の前には炎と死体。
これは明らかに、一少年が持つ脳の処理能力の許容範囲を超えている。
とはいえ、いつまでも呆然と立ち止まっているわけにはいかないのが苦しいところだった。
時間は待ってくれない。刻一刻と過ぎるにつれて、事態は悪化するばかりである。
真は錆び付いたロボットのごとく、関節を軋ませる思いで身体を無理矢理動かした。
「ま、真さん……その、人……」
「あまり、見るな」
怯えるハナコの視界を遮るように立ち位置を変えて真は言ったが、霊を相手とする彼とて本物の死体を見慣れているわけではない。
それは警察の仕事であって、退魔師の仕事ではない。
しかし、確かめるべきことは確かめなければならなかった。
真は弐道が横たわる大机へと近づき、彼の姿を今一度目に焼き付ける。
胸――心臓部には大きな裂傷があり、そこから血が溢れ出していたようだ。今は炎の熱で乾いており、まるで真紅の服を着ているかのようにも見える。
それ以外に外傷はなく、凶器らしきものは見当たらなかった。
確実に死んでいる。
目撃者にそう思わせるには、十分過ぎる程の有様だった。
真はそっと弐道の瞼を下ろさせるにとどめ、それ以上遺体を検めることはしなかった。何か上に掛けてやりたくはあったが、生憎とものがない。
夏場のため外套の類も羽織っておらず、カーテンも燃えている。
「……窓からは逃げられそうにないな」
「え……これって……!?」
用意周到と言うべきか、書斎の窓は本棚で塞がれていた。当然本棚にも火の手は上がっており、天井近くまで聳えるそれは、火柱のようである。
いくら真が肉体を強化できると言っても限度がある。燃え盛る炎に触れれば衣服は燃えるし、直接触れればただではすまない。
「仕方ない……部屋から出るぞ。他の道も塞がれていたら厄介だ」
「は、はい。でも、あの、この方は……」
ハナコが横目で弐道の遺体を見ながら言ったが、真は首を横に振り、何も言わなかった。後ろめたい気持ちはあるが、今は生き残ることが優先である。
「もたもたしていたら、道が塞がれるかもしれない。行くぞ」
書斎の出入り口の扉には進路を塞ぐものは置かれていなかった。真は逃走経路を誘導されているのではないかと嫌な予感も覚えたが、実質選択肢はなく諦める他はない。
勢いをつけて扉を開け放つと、その先の廊下もまた、炎に支配されていた。
「……ハナコ、悪いが一つ頼まれてくれ」
「え、何を……でしょう?」
早く逃げないと――そう目で訴えるハナコだったが、真はすぐに動かなかった。彼は注意深く周囲を観察しながら、彼女に問う。
「ここからロビーまでの道は覚えているか?」
「はい。そんなに長くありませんでしたからね」
弐道と真とで連れ立って歩いて来た道のりを思い出し、ハナコは頷く。
「上出来だ。とりあえずそのルートだけでいい。道が塞がれてないか見て来てもらいたいんだ。お前なら、火の中でも大丈夫だからな」
「で、でも、一緒に来た方が早くないですか?」
「いや……最悪なのは、道に行き詰まってあの骸たちに追い詰められることだ。とにかく時間がない。頼む、行ってくれ」
ハナコはまだ何か言いたそうな顔をしていたが、真に強く見られて意を決したように表情を正す。時間を無駄にできないのは、彼女とて重々承知していることである。議論は避け、今は彼の判断を信じることにした。
「すぐに戻りますからね!」
「ああ、大丈夫だったら呼んでくれ。一気に駆け抜けるからよ」
危機的状況であるにも関わらず、真は口端を軽く持ち上げて言って見せる。そんなことで安心などできるはずもないのだが、ハナコは気丈にも首を縦に振ると、急いで彼の指示に従うのだった。
「頼むぞ……」
そして、彼女の背が見えなくなるまで見送ったところで、真は突如崩れるように片膝をついた。
呼吸は乱れ、嫌な汗がじっとりと全身から滲み出ている。炎の熱に煽られ、渇きが止まらなかった。
逃走経路を確保する名目でハナコを行かせたのは嘘ではない。しかし、半分は自分の不調を隠すためでもあった。
地下で目覚めたときから感じている倦怠感は収まっていないどころか、酷くなりつつある。目覚めたばかりで身体が強張っているだけかとも思っていたが、どうやらそうではないらしい。
この感覚は、徐々に蝕むように全身に広がっている。気を抜けば、こうして膝を屈してしまうくらいに、力が抜けそうになっていた。
やはり、襲われたときに何か仕掛けられていたのか。
そう思わせるほどに、あからさまと言える程におかしかった。もはや不調というレベルを通り越している。
気合だ、根性だと精神的なことを言う以前に、身体を動かすための燃料が足りていないのだ。
燃料とは、言わずとも霊気のことである。
肉体を動かすための原動力となる、魂から生み出されるはずの生命力が、身体を酷使する度に減っていく。
使えば減る。それは正しいことなのだが、それと同等に回復しないのである。
異常だった。肉体と精神の歯車が噛み合わず、何かが狂っている。
だが、それをハナコに訴えたところでどうしようもなく、解決策もない。逃げることを優先しなければいけない以上、彼女に余計な気を回させたくはなかった。
ひとまず、少しでも身体を休めて体力の回復を期待する。館を脱出するまでは、なんとしても持たさねばならない。
真は跪いたまま、祈るような姿勢でハナコを待った。
しかし、彼の祈りが届く前に、背後から炎が空気を焦がす以外の音が聞こえる。
それは、ボロ布を床に擦り付ける音であり、手足が折れる音であり、皮が焼け焦げる音だった。
振り向いた真は、即座に書斎への扉を閉め、押さえ付けるように背中をもたれさせる。
包まれていた布を中途半端に引き摺り、身体を燃やしながら迫る骸たちだ。
仲間意識など――そもそもまともな意識などとうに死んでいる彼らは、押し合い、互いの身体を潰しながら進軍している。
扉を閉めるとき、弐道の遺体が床に転がり落ちるのが一瞬見えたが、真にはどうすることもできなかった。
「……まだか、ハナコ」
がりがりと扉を引っ掻く音が耳を苛み、背中に掛かる重さと熱が徐々に激しくなる。
これ以上は限界かと、真が汗の滲む手で短刀を強く握った。
「――真さん! 来てくださいッ!!」
そのとき、少女の必死の叫び声が煙の向こうから聞こえた。
真はほとんど反射的に両足の裏へと爆発的に霊気の強化を施して、勢いをつけて飛び出した。背後で扉がぶちやぶられて骸の波が吐き出されていたが、一顧だにせずに全力で駆ける。
ハナコも迫り来る光景に飛び上がり、真の姿を認めると彼を先導するように前を行った。
「ロビーの様子は見たか!?」
「はい! もうギリギリですよ! 急いでくださいッ!」
ハナコの語気も自然と荒くなり、速度を上げていく。真も置いて行かれまいと、決死の覚悟で吹き荒れる火の粉と黒煙を掻い潜っていった。
そして、廊下を抜けてロビーに辿り着いたところで、不意にハナコがピタリとその動きを止めた。
「うぁ……」
「…………だめか」
ロビーに敷かれたカーペットは炎上し、業火を巻き上げている。それだけならまだ予想の範囲ではあったのだが、玄関口の扉の前には、焼け落ちた木材や瓦礫が積み上がっていたのだ。
とてもではないが、人が通れるような状態ではない。
「真さん……」
ハナコは愕然として色を失った様子で、真を見つめる。しかし、彼は力強く彼女を見返し、口を開いた。
「大丈夫だ。まだ道はある」
彼女に不安を与えないよう、真はむしろ挑戦的な笑みすら浮かべた。
「お前は外へ逃げろ。あの骸どもに触れられたら、お前もどうなるか正直分からないからな」
「でも! 真さんは……!」
「でもが多いぞ。俺は上から行く。信じろ……必ず追い付く」
真は視線を上に向ける。扉の前に積み重なる障害物は、廊下が崩れ落ちたものだった。
穴の規模はそれなりに大きいようだが、強化した足ならば跳び超えられる距離だと判断できた。
そして、その先はバルコニーに通じている。
「迷うな! ちゃんと行けよ!」
ハナコに突き付けるように言い放ち、真は振り返らずに二階への階段を駆け上がった。そのまま吐いた己の言葉通り、彼も迷わず廊下を回り込んでバルコニーを目指す。
途中、焼け落ちた穴の前で助走から一気に跳躍。一瞬噴き出す炎が迫ったが、辛くも転がるように床に受け身を取って着地に成功する。
振り返ると、ロビーには骸の群れが押し寄せようとしていた。生きた真に反応しているのだろう。一様に玄関口へと向かっているようだが、そこから先は通行止めになっている。二階へ進もうとする個体もいたが、穴の空いた廊下を飛び越える筋力を有してはいないはずだ。
ひとまず逃げ切ったが、真は安堵する間もなく素早く身を起こし、バルコニーへと向かった。石造りのそこにはまだ火の手が回っておらず、外の空気を浴びて一気に視界が開ける。
山の稜線は暮色に染まっており、空に浮かぶ白い月が、館を燃やす炎に焦がされていた。
「こっちですよ!」
地上から叫ぶハナコの声を耳にして、真はバルコニーの鉄柵へと駆け寄る。それとほぼ同時に、彼の背後で建物の一部が焼け落ちる音が聞こえた。炎は、もうすぐそこまで迫っている。
……失敗すれば、骨が折れるくらいで済むか?
普段なら強化を行えば二階からの着地など問題はないが、今はそのための霊気がガス欠寸前だった。
しかし、泣き言はいていられない。最後の一滴まで絞り出さんと意識を両足へと集中し、真は鉄柵を飛び越えた。
着地と同時に足の裏から脳天へ貫くような衝撃が駆け抜け、余韻が痺れとなって残る。ぐっと歯を噛んで堪え、痺れが消えたところで大きく息を吐き出した。
「大丈夫ですか!?」
「ああ……なんとかな」
「よ、よかったです……」
お互いに館から抜け出せたことにハナコは心底安心したようで、表情を緩めていた。
「早く離れましょう。危ないですよ」
一応の危機は脱したが、留まっていてはまだ火事に巻き込まれるかもしれない。なるべく遠くへ逃げなければと、ハナコは真を促す。
「……いいや、まだだ」
しかし、彼は呟くように言うと、あろうことか火を噴く館を振り返って歩き出していた。
「ちょっと! 何を考えてるんですか!?」
「……決まってるだろ。あいつらを、外に出すわけにはいかない」
真は右手に握る短刀に力を集中させ、大きく振り被る。彼がなけなしの霊気で強化を行った得物をぶつける先にあったものは、バルコニーを支える石柱だった。
既に館の一部は炎により損壊していたこともあったのだろう。一閃されて石柱が砕け折れたことで、ぐらりと傾いだ後、一気にバルコニーは崩落した。
「これでいい……あとは、勝手に焼けるだろうよ……」
視界を覆い尽くす砂埃が晴れ、瓦礫が館の扉を完全に封鎖したのを見届けた真は、ようやっと気を緩めたのだろう。後ろに数歩よろめきながら下がったかと思うと、その場で力なく大の字に倒れた。
「ま、真さん――!?」
倒れた身体は、地面に貼りついてしまったかのようで、指先一つ動かせなかった。
感覚が曖昧で、渇いた瞳に映る蒼然と燃える空が、やけに霞んでいる。
吸った空気も虚しく空回りするばかりで、まるで意味を成していない。
少女の声も、どこか遠くで響いている。
「悪い……な。ここまで……だ」
「冗談……ですよね?」
息も絶え絶えの真の様子に冗談など言う余裕がないのは分かり切っていたが、ハナコはそう問わずにはいられなかった。
こうして外に出て見て初めて分かったが、少年の顔は真っ青で生気がない。唇もどこか色が抜け落ちたようで、瞳からも光が失われつつある。
彼の命は、風前の灯火だった。
それは少女の目からも直感できることだった。だが、それが唐突過ぎてどうすれば良いのか分からない。
「ああ、そうだ……最後に、言っとく」
「え……?」
「お前の魂に、触れて……分かったことだ」
「今言うことじゃないでしょう!」
「今じゃないと言えねえだろうが……聞けよ。まず、記憶については……何も、分からなかった。悪いな」
魂に触れることで、本人も意識していない記憶が覗けるかと思ったが、それは空振りに終わっていた。ハナコの魂の――少なくともただ表面に触れただけでは、何も見ることはできなかった。
「それから……これは、お前を混乱させるだけかもしれないが……お前の魂は、生きてるのと変わらない。死んでるはずなのに、霊気を生み出し続けている……」
「何を言ってるんですか……どういう……」
真の言葉をちゃんと聞いているのかいないのか、ハナコはただ彼の顔を覗き込みながら、大きく瞳を揺らすばかりだった。
「ちゃんと起きて、説明してくださいよ! 勝手にわたしを見つけて、勝手にいなくなっちゃうなんて……そんなのって……!」
たった数時間程度の付き合いだったが、少女が悲しむ顔を見るのは辛いものがあった。できるものなら慰めてやりたくはあったが、それも叶わない。
ただ――刻み付けなければいけない。
自分の命は、ここで終わる。
何かを成したわけでもなく、潰えていく。
生き方と言う程大して生きたわけではないが、後悔の方が多く、心残りがないわけじゃない。
けれど、こうして足掻かず消えるのを待とうというのだから、本心は分からない。
死の間際に思う。
もしかすると、自分は死にたがっていたのかもしれないと。
……まあ、最後の仕事にしては……上出来かもな。
少女のことは気掛かりではあったが、この性格だ。浄化してやることはできなかったが、自分がいなくても何とかやっていけるだろう。
燃え上がる夜空を遠くに見つめながら、真はゆっくりと体を休めるように胸を上下させ、最期の息を零した。
◆
「――――」
言葉もなかった。
言葉などでなかった。
幽霊が誰かの死に目に会うなど何の冗談だ。笑えないにも程がある。
感覚などない拳をぎゅっと握り締める。中身のない、この透けた身体がこれほどもどかしいものだとは思わなかった。
倒れた少年は動かない。
閉じた瞼は開く様子もなく、息をしていない。
その身体を揺することも、抱き起すこともできないのだ。
「ふざけないで、くださいよ……」
勝手なことばかりを言って、何を満足しているというのか。
この少年は、何も分かっていない。何一つ気持ちは交わっていない。
たった数時間程度の出逢い。だからなんだ。
何もない自分にとっては――それが全てだ。
「……置いていかないで、くださいよぅ……」
それこそ迷子の亡霊にでもなったかのように、情けない声が溢れて来る。
燃え盛る館の熱も、わたしの身体には届かない。
せめてもの温もりが欲しい。
そう思って、彼に手を伸ばした。こちらも触られたのだから、これでお相子だ。
手は呆気ないくらい簡単に彼の身体をすり抜ける。そして、その中から、命の光が失われつつあるのが分かった。
きっと、これが霊気の流れというものなのだろう。
その流れはまだ辛うじて、か細いものでしかないが続いている。これが完全に干上がったとき、彼は本当に死んでしまうのだ。
それは、もうすぐそこまで迫っている。
「――っ」
泣きたいと思っても涙はでなかった。きっと、肉体がないとはそういうことなのだろう。
感情だけがどんどん溢れて来るというのに、それを表現するための機能が欠落している。
何かないのか。
泣きわめくこと以外で、自分にできることはないのか。
この薄情な身体でも、彼に与えられるものは、何もないというのか――!!
悲しみは己への憤りと混ざり合って、渦を巻いて暴れている。
彼の中は、こんなにも冷たくなろうとしているというのに、何故この身はこれほどまでに熱いのか。
「ぇ……」
熱い?
今、熱いと思ったのか。
炎の熱も感じず、何にも触れられないというのに?
いや……そうじゃない。
自らの体温を普段意識することなどないように、初めから熱はあったのだ。
「わたしは……生きている……」
両手を見下ろす。青白く透けて、なよなよとして頼りない手。
彼は言った。わたしの魂は生きていると変わらない。霊気を生み出し続けていると。
彼の身体を見下ろす。息をすることをやめ、死を受け入れて、その時を待っている。
それはほとんど、本能みたいなものだった。
「……許しませんよ」
そうだ。勝手にわたしを見つけて、振り回した挙句、何も解決しないままいなくなるなんて、ありえない。
「わたしが、あなたを助けます」
この身をどうすれば、この少年の命を救えるのか。魂が知っていた。
彼の顔を覗き込み、閉じられた瞳を正面から見つめる。
全身が、ある一点を中心に激しく脈打っているのが分かる。
自分が感じているその部分と、彼の同じ所へ両手を伸ばす。
優しく包むように。決して傷つけないように。
「責任は、取ってください……!」
彼の顔が近い。数センチの距離もない。
けれど、止まるわけにはいかなかった。
彼と重なり、彼の肉体の中に、溶けていく。
彼の冷たくなった魂に、狂おしいほどの熱を分け与えるように。
このとき、わたしは彼と一つになったのだ。




