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16 「危地」

 その途方もない悪意に満ちた事実を前にして、これまでの考え事などは一切合切、真の頭の中からは吹き飛んでいた。

 もはやこの洋館にまつわる噂を疑う余地は微塵もない。布を引き裂いて現れたのは、人の亡骸だ。


 蠢動する黒く染まった塊の中からは、まだ多くの布を破る音が呻き声のように聞こえてくる。


 露になった骸の頭髪は抜け落ち、鼻の削げた顔面は平らになっている。口は歯も舌もなく空洞だ。

 皮膚は骨に張り付いただけで肉などなく、男女の区別ももはやないに等しい。違いはもはや大人か子供かの大きさの違いしかない。

 ただ、眼窩の奥に宿る、黒く燃えるような闇の揺らめきがあった。

 苦痛、憎悪、様々な濁った感情が暗く滾り、生きている真を見据えている。


 あまりのことに、真は呆けていた。状況の把握、対処、動かねばならないはずなのに、感覚が麻痺したように縛られている。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 右足首に鋭い痛みが走り、感覚が現実に引き戻される。彼の足元には、骨と皮だけになった骸が一体、這いずっていたのだった。

 生きた命を引きずり下ろさんと、筋肉などとうにないはずの手が、有り得ない力をもって彼の足首を握り潰そうとしている。


「――ッ……この!」


 哀れみはあった。躊躇いもあった。同情もする。

 だが、真は動く左足で骸の腕を踏み抜いた。

 枯れ枝を折るがごとく、腕は乾いた音を立てて容易にへし折れ、右足が解放される。


「ハナコ! 逃げるぞッ!」


 そして、真が次に取ろうとした行動は、この場からの離脱だった。

 骸の動きは鈍く、単体であれば相手取るには苦労はしないだろう。しかし、その数は膨大に過ぎる。塊から分離し、這い出して来る骸たちを数えることを彼はとっくに放棄していた。

 少なくとも、視界も悪く、逃げ場のない場所で戦うべきではない。留まれば状況は悪化の一途を辿ることは目に見えている。囲まれでもしたら、その瞬間に終わりだ。

 せめて階段――背後を取られない位置で迎え撃つ。全てを倒し切れるかという問題はその後だ。少しでも有利な条件で戦えるようにするため、まずは退路を確保する。そのための逃げである。


「おい! 聞いているのか!?」


 しかし、返事もなく、いつまでたっても動こうとする気配のないハナコに、痺れを切らして真が振り返る。

 そこで彼は、まだ彼女が立ち上がることもできず、ただ身体を震わせているだけであることに気が付いた。

 完全に精神が恐怖に屈服している。それはそうだろう。このような光景を目の当たりにして、まともな神経をしていればどうにかなって当然だ。

 加えて、じりじりと迫る闇の気配もある。霊体の彼女は、そこから発せられる禍々しい気に対し、真よりも影響を受け易いことも影響していた。


「くそったれ!」


 彼女を責めることなどできはしない。取り乱し、泣き叫ばないだけまだ良い方だとすら思ったが、真に口から吐き出される悪態を止める余裕はなかった。

 数で圧倒されている以上、守りながら戦うことは悪手だ。さりとて、肉体のない彼女を抱きかかえて逃げることもできないし、頬を張り飛ばして正気に戻すことも無理な話だ。

 真は屈んでハナコと目を合わせたが、彼女の目の焦点は定まっておらず、彼を見ていない。声も届かず、自力で彼女がこの恐慌から我を取り戻すことは不可能だと思われた。


「……世話の焼ける! 言っとくが、お前が悪いんだからな……!」


 届かない悪態を募らせながら、真は素早く右手に持った短刀を腰のベルトに挟み、空いた手の平に意識を集中させた。

 取れる手段が限られている以上、迷っている暇はなかった。口約束とはいえ破ることになるが、この際文句は言わせてなるものか。


「恨むなよ……ッ!!」


 霊気に覆われた真の右手が閃く。真は一気に腕を押し出し、ハナコの胸を突いた。

 腕は容易く彼女の霊体に沈み込み、彼はその中を掻き分けるように指先を動かしながら、奥にある魂へと届かせる。

 そして、そこに指先が触れた刹那、指先に熱が迸った。

 血潮の如き生命に溢れた熱が、そこにある。

 それは、真にとっては信じられないことであった。


 ……本当に、これが霊の魂なのか!?


 彼女の魂が、いかような構造になっているのか真には分からない。しかし、触れた魂から溢れるその正体が、本来有り得ないものだということだけは分かる。

 肉体が死ねば、魂もまたその機能を失う。故に、霊の魂は本来死んでいるものというのが常識だ。

 だが、今彼が触れている魂から生み出される熱は、霊気のものに他ならない。


「お前は……何なんだ……」


 その呟きに応えたというわけではないのだろうが、真が魂に触れたことの衝撃により、ハナコの瞳は徐々に正気を取り戻し始めていた。


「ぁ……え……?」


 揺れる二つの瞳がゆっくりと真の顔を捉え、震える唇から声が零れ落ちる。


「やっと気が付いたか。周りは見るな。俺の目を見て、言うことを聞け」


 真はさっとハナコの身体から右手を引き、まっすぐに彼女の目を見据えて言った。彼女は彼の右手を見て一瞬変な顔になったものの、状況を思い出したのだろう。短くこくこくと首を振り、素直に応じた。


「振り向いて、一気に逃げろ。動けるな?」


 もう一度ハナコが頷くのを確認し、真は短刀に手を掛けて腰を上げた。もうすぐそこまで、闇の気配は迫っている。


「――行けッ!!」


 号砲のように真の声が轟き、ハナコは全速で階段へ向かって飛んで行った。足を動かすというイメージはないが、それこそ風となる勢いで、彼女の気持ちは全力疾走であった。

 真は振り向きざまに短刀を横薙ぎに一閃し、それを迫る骸たちへの迎撃と牽制とした。更にその数は増しており、その様はまるで土石流か何かのようだ。

 骸が動くよりも、増え続ける別の骸に押し流される勢いが強いのではないのか。とてもではないが、相手になどしていられない。


 戦慄を覚え、真もハナコの跡を追うべく踵を返して全力で駆け出す。一気に突っ切って階段の通路へと足を踏み入れると、頭上からハナコの声が響いた。


「真さん! 早くッ!」

「いいから先に行けって!」


 ハナコは何かを堪えるように唇を引き結び、震える身体を押してそこに立っていた。まさか自分が来なければ、ずっと待っているつもりじゃなかったのかと、真は数段飛ばしで階段を駆け上がりながら声を荒げる。


「ダメですよ! ちゃんとついて行くって言いましたもん!」


 果敢にも少女は言い返し、真が追い付いたタイミングで再び動き出した。彼は忌々しそうに舌打ちをするが、彼女は堪えた様子もない。


「それに、ちょっと聞きたいこともありましたし……」

「あ?」


 このタイミングで何を言い出すのかと真が息を乱しながら眉間に皺を寄せる。ハナコはちらりと真を振り返り、細めた目で彼を睨むように見た。


「さっき、わたしに何をしたんですか?」


 恐慌に陥り正体を失いかけていたところを救いあげられた――そのときの感触は、身体が覚えていた。彼の口から、ちゃんと聞きたかったのである。

 真の目は明らかに後にしろと言いたげであったが、ハナコはそれを許さないと、目力を強める。すると、彼は諦めたように口を開いた。


「魂に触れたんだよ。ショック療法みたいなもんだ。お前を正気に戻すためなんだから、文句は言うなよ」


 身体――もとい胸に手を突っ込まれて文句を言うなというのも、些か乱暴ではないかとハナコはもやもやとした気持ちを胸中に生じさせる。それこそ掻き回されたことの影響かと思うくらいだった。

 だが、彼の言う通り文句を言っている場合でもないことは確かだ。そこまで割り切れないほど、彼女も子どもではない。


「ま、まあ、そうですよね。緊急時だったのですし、仕方のないことですよね」


 と、自らの気持ちに折り合いをつけてハナコは移動する速度を上げるべく前を向こうとした。

 しかし――


「ああ、気にするほどのことじゃねえよ」


 ハナコがそこまで怒ってはいないと知り、真がほっとしたような声で付け加えるように言う。


「だいたい、感触なんて、ほとんどないのと同じだからな」

「――は?」


 その言葉は、到底聞き流せるものではなかった。


「……おい、どうした?」


 急に立ち止まるハナコに、真も慌てて足を止める。靴音が通路に反響し、乱れた鼓動が耳朶を打つ。


「ど、ど、ど」


 ハナコの声は震えていた。その原因が恐怖ではなく、それと真逆に根差した感情であることは、流石の真も彼女の顔を見て気付く。


「どういう意味ですか! 感触がないってッ!」


 恥辱の極みだと言わんばかりに両の拳を振り回し、ハナコは盛大に文句をぶちまけた。


「……何を怒ってんだか知らないが、言った通りの意味だよ。触っても分からないくらいだし、無いも一緒だ。お前が気にするようなことはないんだよ」


 目に見えるかという違いこそあるが、霊気は空気のようなものなので、手を触れたところでほとんど無いに等しいものだ。

 真の発言はそういう意味でのことで、それ以上でもそれ以下もない。だが、そんな釈明にもならない台詞で、ハナコの怒りは収まらなかった。


 ……この人、まるで分かってません!!


 真の言葉を先に曲解したのはハナコなのだが、怒りの矛先は既に別の所に向かっていた。そんな勘違いさせるような台詞を、なんのデリカシーもなく言ったことが許せない。

 とはいえ、面と向かって指摘するのも恥の上塗りである。ハナコが爛々と怒りに燃えているのだが、真は彼女のそのような感情はどうでもいいと、後ろを気にしながら焦りを滲ませ口を開く。


「何だか知らんが文句は後で聞くから早く動け。くだらないことで時間を食ってる暇はないぞ」

「う……うぅ、も、もうお嫁に行けませぇん!」

「必要のない心配をしてんじゃねえよ! さっさと行けッ!!」


 泣き出しそうな気持ちを叫びながら動くハナコに、真が叱咤を飛ばした。



 そうして、後ろから追い付かれることなく、二人は階段の入口まで戻ることができた。

 光の差さない寝室へと上がった真は一旦足を止め、額から吹き出る汗をぐいと片腕で拭う。室内は熱気に包まれており、全力で走った身体には堪えるものがあった。


「それで真さん、どうするんですか?」

「……ここで、迎え撃つしかないな」

「逃げるんじゃないんですか!?」

「バカを言え。あんなのを野放しにできるかよ。ここで倒しておかないと、後でどうなるか……」


 侵入口はこの地下への入口のみ。なら、ここで出てくるのを待って倒していく。一斉に襲われない限り、あの骸の戦闘力自体は大したものではない。

 時間を掛けるわけにはいかないが、止むを得ないことだろう。せめて、まだ館にいるだろう弐道に気付かれなければ良いのだが。


「……いや、待てよ」


 真は浮かんだ思考の違和感に、部屋を見渡す。視覚を強化しているからこそ問題ないものの、入口の扉は閉ざされており、熱気の充満する室内は真っ暗だった。


「ハナコ、俺は扉を閉めたか?」

「え……? あ……そういえば……」


 その質問に、ハナコも彼と同様に疑問を抱いた。寝室を調査するにあたり、少しでも光を取り入れるために扉は開けたままにしていたのである。

 それがどうしたことか、閉められている。

 真は弐道のことが頭に浮かび、心にざらついた感覚が芽生え始めていた。

 弐道とは別れ際に、一時間後にロビーで落ち合う約束を交わした。なら、今も彼はのんびりと真が来るのを待っていると言うのか。

 気絶して優に数時間は経過しているのだ。普通なら探しに来るだろうし、探す場所として真っ先に思い当たるのは、最初に別れた場所になるはずだ。


「一応訊くが、俺が気絶している間、誰も来なかったんだよな?」

「は、はい……だと思いますけど……」


 自信なさげにハナコは頷くが、おそらく彼女の言う通りなのだろう。

 では、弐道は今何をしている。


 部屋の熱は刻一刻と増しているように思えた。まるで石窯の中にでもいるかのような気分となり、溢れる汗が止まらない。

 真は一度地下の階段を見下ろした。まだ敵の気配が近づいていないことを確認すると、彼はハナコの方へ視線を向ける。


「な、なんですか?」

「ちょっと見張っていてくれ。書斎の方を見て来る」

「え、ええ!? ちょ、待ってくださいよ!」


 ハナコの返事を待たずに、真は寝室の扉へと向かった。ハナコは心細そうに叫んでいるが、一応目に届く位置にいるので問題あるまい。

 ひとまず手早く書斎の様子が見られればそれでいい。真は扉へ短刀を握り直しながら、半身ずらして左手でドアを開けようとした。


 そして、扉が数センチの隙間を開けた瞬間に、襲い来る熱が彼の肌を焼いた。


 鼻の奥を突く、焦げた臭い。パチパチと、何かが弾け崩れ落ちる音が何重にも連なって聞こえてくる。

 短い通路の奥に見える書斎は、荒れ狂う紅蓮に覆い尽くされていた。

 その光景に、真は言葉を失う。闇を呑み込む人工ではない赤い輝きは身をくねらせ、今まさに寝室の方へと迫ろうとしていた。


「か、火事ですか!?」

「みたいだな……ハナコ! そっちはもういい! こっちに来いッ!」


 その様子は当然ハナコの目にも映っており、彼女の慌てふためく声がする。

 真は即断して彼女を呼んだ。こんな都合のよい火事などあり得るはずもない。どう考えても、これは放火だ。

 あの数の骸どもを相手にしている暇は本当になくなった。一刻も早く館を抜け出さなければ、丸焼けになる未来は想像に難くない。

 そうなれば、噂通りに骸の仲間入りを果たすことになる。

 それは御免こうむりたいところだった。


「な、なんで……こんなことに……」


 真の下へと急いで近づくハナコが、燃え広がる炎に顔を強張らせる。彼女は熱そのものを感じてはいないようだが、気持ちは圧倒されて呑まれつつあるようだった。


「わからない……とにかく、今は逃げ道を探すぞ」


 ハナコを励まし、真は腕で口を覆いながら書斎へと進んだ。次から次へと襲い来る事態に、思考を止めることは死に繋がる。焦慮はあるが、気持ちを引き締め直し、慎重にかつ迅速にいこうと決意した。

 だが、書斎に踏み込んで最初に視界に飛び込んできたものは、真のそんな心を嘲笑うかのようなものだった。


「――――」


 通路を抜けた先にある書斎の大机。蔓延する炎に赤々と照らされるそこには、炎とは別の色があった。

 火よりも生々しく、ぬめりを帯びた赤い雫が机の縁から零れ落ち、燃え上がる絨毯に染み込んでいる。


「嘘だろ……」


 机の上には、男が倒れていた。

 顔は横向き、もはや瞬くことのない光を失った双眸が、真を見つめている。

 それは、無残にも胸に風穴を空けられた、弐道五華の死体であった。

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