15 「蠢動」
粘つくような漆黒の中で、真の意識は緩やかに覚醒しようとしていた。
「――……さん!」
目はまだ開かない。しかし、耳には微かに声が届く。
甲高い少女の声は、悲鳴に近かった。
「真さん!」
脳の奥に、声が突き刺さる。
覚醒を促すのは、自分の名前。
五感が目を覚まし、真は瞼の裏側を意識した。
酷い倦怠感に身体が重いのだが、感覚だけは宙に浮いたように揺れている。
頬には冷たい床の感触。どうやら、腹這いになったまま気を失っていたらしい。
「起きてください! 真さんッ!!」
「……ッ、うる……さ……」
その突如、真は耳が壊れるかと思った。
「――! あぁ……よ、よかった。気が付いたんですね!? 大丈夫ですか!? 怪我とかしてませんか!?」
耳の中で木霊する声に、堪らず真は片耳を押さえる。瞼を震わせ、ゆっくりと薄目を開けると、目の前にはくしゃくしゃになった少女の顔があった。
「ハナコ……か……?」
真が少女の名を呼ぶと、彼女は心底安堵した顔となり、力一杯の頷きを彼に返した。
「はい!」
「あんまり、騒ぐな……頭に響く……」
「も、もう! 人を心配させておいて、いきなりそれですかっ」
頭を一度強く振って、真は両手を床について押し上げるように身体を起こしにかかった。ハナコは口では文句を言いながらも、彼の様子をはらはらと見守っており、心配そうに眉を曇らせている。
……動ける……のか。
片膝をついた真は、右手の指を曲げて拳を軽く握る。続けて、左手でも同じことを行った。
全身の気怠さに目を瞑れば、動かす分には問題ない。
頭から足の爪先に至るまで、全身には隈なく血が通っている。
周囲は相変わらずの暗闇で、霊体のハナコの姿だけが、薄ぼんやりと浮かんでいた。
「ハナコ……」
「はい! 何でしょう!?」
真が声を掛けると、即座に言葉が返される。余程心配をかけてしまったのかと、彼女の様子にようやく彼は気を向けて、少し声の調子を落として言った。
「俺が気絶している間に、何があった?」
記憶には薄い霧が掛かった状態で、その向こうからは密かな嗤いが幻聴として聞こえていた。
真は、自身の胸を掴むように手を当てる。心臓は確かに鼓動を刻み、正常に動いていた。
あれは、誰だった――
いったい、何をされた――
何故、生きている――
次々と疑問は湧いてきたが、そのいずれに対しても確とした答えは見出せない。ただ、襲われたという事実だけが感覚として残っていた。
「……すいません。わかりません」
返答を待つ真に、ややあってハナコは申し訳なさそうに言った。
「わたしがここに来た時には、真さんが倒れていて……それで……」
「ずっとそばにいてくれたのか?」
「は、はい……そうなります」
「じゃあ、俺を突き飛ばした奴の顔は見たか?」
「いえ……真っ暗で何も……」
もしかしたらと思って訊ねてみるも、答えは空振りだった。真は少なからず落胆し、彼の顔を見たハナコがますます縮こまって項垂れてしまう。
「……ご、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。責めてるわけじゃない……。それよりも、お前が無事でよかったよ」
「え……?」
ハナコは怪訝に首を傾げる。よく分かっていないといった風な彼女の顔を見て、彼は真面目な表情で口を開いた。
「たぶん……いや、かなり高い確率で、俺を襲った奴はお前のことが見えていたはずだ」
真は己の肉体を苛んでいた闇の感触を思い返していた。
あれは間違いなく、霊気の扱いに長けた者にしかできないことだという確信がある。
そうであるのなら、自分と同様に、ハナコの存在に気付いていたに違いない。
「お、脅かさないでくださいよ……」
ハナコは得体の知れない恐怖に身を竦ませ、真の顔を見返す。しかし、彼は首を横に振った。
「脅しじゃない……けど、俺もそうだが、何で見逃されたのかが分からない……」
「そんなのどうだっていいじゃないですか! とにかく、早くここから出ましょうよ!」
「……」
真は黙って膝を上げて立ち上がった。ハナコも寄り添うように彼のそばに近付き、期待を込めた瞳で見上げてくる。
しかし、彼には彼女の期待に応じることはできなかった。
「まだだ。ここを調べるのが先だ」
「そんな!」
叫ぶハナコに取り合わず、真は肚に力を込め、霊気を練って視力を強化した。彼の瞳がにわかに青く染まるのを見て、ハナコが驚きに声を詰まらせる。
「……なんですか、その目の色……」
「霊気は力の流れって言っただろ。それは人の中にもあるものなんだ。俺はそれを意識的に集中させて、身体の機能を強化できるんだよ」
軽く説明をしながら、真は首を巡らした。さほど広い空間ではなく、ざっと見ただけで落ちてきた石段以外の道はないように思えた。
奥の壁際には、何か白い塊が山のように積み上がっている。それが何なのかは真の現在の立ち位置からでは分からなかったが、その前に彼は別のものを見つけて視線を止めた。
先の襲撃で床に放り出された、自分のリュックである。
「は、はあ……そうなんですか……って、そうじゃなくてですね!」
あくまでも事務的に受け答えをする真に対し、ハナコは明らかに焦りの色を強めて声を荒げる。
「襲われたんですよ!? いつまでもここにいるのは危険ですってば!」
「そんなことは分かってる」
彼女の声を背に受けながら、真はリュックの中身を探る。そして、中から手の平からはみ出す程度のサイズの木箱を取り出した。
「……なんですか、それは」
「武器だよ。物々しいから使いたくはなかったんだが、そうも言っていられなくなったからな」
木箱の蓋を開けた中身は、木でできた長さ三十センチ程の短刀だった。真は右手に短刀を持ち、その感触を確かめるように幾度か空を斬りつつ、僅かに首を振り向かせて視線だけを後ろに向けた。
「だいたい……危険だって言うが、それはお前も分かってただろう?」
「うぅ……でも、死ぬかもしれなかったんですよ!? こんなに長い階段を落ちて無事だったこと方が不思議ですよ!」
「だから、こうして無事だったんだからそれはもういいだろ。それにお前、ここで引き返して、自分のことが分からないままでいいのか?」
「そんなのいいですよ、もう! わたしのことで、真さんが死にそうな目に遭うくらいなら、知らなくてもいいです。ね、だから帰りましょうよ……」
ハナコは縋るような目で訴えた。彼女の感情には恐怖もあるのだろうが、その根本は真の身を案じるものだ。自分のことは二の次で、今まさに危機に瀕した彼のことだけを気に掛けている。
だからか。彼女のその瞳が――気持ちが、彼の心を無性にささくれ立たせた。
「いいんだよ、俺のことは。これも仕事だ」
真はうんざりといった風に、わざとらしく重い溜息を零す。そして、その息よりも更に重苦しい声で言葉を吐いた。
「それに、別に……死んだらそのときはそのときだ」
真は前を向き直り、ハナコの姿を視界から消す。
言うべきかどうか、一瞬の迷いはあった。しかし、一度吐き出した言葉は無かったことにはできず、連なるように止めようもなく溢れて来る。
「そりゃ、襲われれば抵抗はするし、一応は生き延びようと努力もするさ。けど、及ばなかったらそれまでだ。お前には分からないだろうが……そういう結果もある仕事なんだ」
自棄でも起こしたかのようなぞんざいな口調で、真は自分でも分からない内に吐露していた。
こんなことを身内に言えば、問答無用で説教をされるだろう。いや、それならまだ良い方か。
しかし、偽らざる気持ちであることに違いはない。
家族を傷つけて、何も救えず、おめおめと生き延びている自分が許せない。
退魔師としての霊を浄化するというのも、結局のところ代償行為に過ぎないのだということも、自覚している。
この手は何も救えなかった。
だから、救われたいなどとも思えない。
それが正しいかろうが、間違いだろうが、どうでもいいのだ。
「俺の命は、いつ終わったっていいんだよ」
闇に喰われかけた――いや、確かに喰われた。
そのとき、死を間近に感じた。
隣り合わせの生の境界を侵し、心と魂を埋め尽くさんとする暗闇。
その闇に嵌ることに対する恐怖はあった。命の灯が消えゆくその様に、例えようもない感情がどうしようもなくなって暴れていた。
しかし、生き長らえた今にして思うこともある。
何故、あのまま……。
「――腹が立ちますね」
が、その先にある危うい思考を断ち切る、憤然たる少女の声が鋭く響いた。
真が振り向くと、細い眉をこれでもかと吊り上げ、鼻息荒く睨みつけてくるハナコと視線が激突する。
その剣幕に、彼は思わずたじろいだ。
「何だよ……」
「何だよ……ですって。何ですか、それ。呆れちゃいますよ。事もあろうか、わたしの前で、よくそんなことが言えたものですね」
ふつふつとハナコの怒りのボルテージは増しているようで、徐々に語気が荒くなっていた。
「死んでしまっている、わたしに対してですよ。いつ死んでもいいとか、失礼にも程があります!」
今さっきまで地下の不気味さに震えていたのが嘘のように、ハナコはびしりと真の鼻先に指を突き付け、怒鳴った。
「だいたい、わたしを成仏させるとか言っておいて、そんな気持ちで事に臨もうとしていたんですか!」
「お、おい……落ち着けよ」
「そういう考えなしの言葉を吐く人を、軽薄と言うんです!」
一気にまくしたてられて、真はすぐに返す言葉が見つからなかった。
少女は確実に怒り狂っていた。烈火のごとく燃える瞳は真の心を炙り、焦燥に駆り立てる。
怒り、ただそれだけはない。
癇癪を起した子供のようであるが、瞳の奥には怒りとは別の色がある。
それは、今にも泣き出しそうな程の悲しみだ。彼女は、悲しみに怒っているのだ。
……なんで、お前がそんな顔をするんだよ。
まるで帰る場所を失くしてしまった、捨てられた子犬のようではないか。
答えられない感情を向けられても、こちらには返すものなどないというのに。
二人の無言の睨み合いはしばらく続いた。そして、先に折れたのは真の方だった。
「……すまん、忘れてくれ」
真は頭を下げるわけでも、前言を撤回するわけでもなく、一言だけ言って視線を外した。
ハナコが何を言おうが、彼の気持ちは覆らない。しかし、経緯はどうあれ無用な言葉で彼女を傷つけたのは事実として認めた結果だった。
「いやです。根に持ちます。末代まで忘れません」
が、そんな彼の妥協も少女には通用しなかった。
そっぽを向いてむくれるハナコに、今度こそ真はどうすればよいのか途方に暮れたが、もうこれ以上時間を無駄にするわけにもいかなかった。
実際の問題として、いつまでもこんなところで言い争いをしているわけにはいかないのである。
できる限りの譲歩はしたつもりだ。それで彼女が納得できないのならもう仕方がない。それで軽薄と罵られようが構わなかった。
「とにかく、俺はまだここを調べる。お前は、好きにしろよ」
「む……逃げるんですか」
「お前がそう思うなら、それでいいよ」
真は会話を打ち切り、ズボンのポケットから携帯を手に取って時間を確かめる。階段を落ちた衝撃に健気にも耐えてくれた画面には、もうすぐ十八時になろうとする時刻が表示されていた。
軽く三、四時間以上は昏倒していたことになる。もたもたしていれば、直に日暮れだ。
地下はこの一部屋のみでそう広くない。気になる物と言えば、先に見つけた白い小山のような塊だけである。
いつ襲撃者が引き返して来るとも限らないのだ。早く終わらせるに越したことはない。
そちらの方へ真が歩き出すと、背中に無言の圧力をぶつけながらハナコもついてくる。彼は気にしないように努め、塊の前まで歩を進めた。
そして、塊の正体が、薄汚れた白い布に包まれた何かが積み上げられたものであることに気付いた瞬間、真の警戒は一気に閾値を超えていた。
それは、触れてはいけない、何か悍ましいものであるように思えたからだ。
間近で見る塊は思いの外高く、真の背を優に超えて不気味な威圧を放っている。
その形状は、大小様々でまるで繭か蛹のようにも見えた。
やめておけと、引き返した方がいいと、本能が訴えている。
だが、ここでおめおめと引き下がるわけにはいかないと、理性で感情を押し殺す。
真がゆっくりと手を伸ばし、その行為を見兼ねたハナコが口を挟もうかと開きかける。
そのとき、塊の頂上から布が擦れるような微かな音が湧いた。
「ひゃあああああぁ!!」
丁度口を開きかけた瞬間のことだったため、ハナコがそのまま驚きの叫び声を上げる。真は振り返り、思い切り彼女を睨みつけた。
「お前が驚いてどうするんだよ!」
「ま、真さん、あれ!」
このときのハナコの中では、真に対する怒りよりも恐怖が勝ってしまっていたのだろう。あわあわと落ち着かない口調で彼女は塊を指差していた。
そして、彼女が何を言っているのかを理解した真は、数歩後ろに足を引かせた。
塊の頂上から、布で包まれた何かの内の一つが、ゆっくりと転がり落ちて来ていたのである。
ごろり、ごろりと、でこぼこな斜面を転がるそれは、とさりと床へと微かな余韻を残して真の足元で止まった。
真はそれを見下ろしながら逡巡した。ここは地下で、風などあるはずもない。まだ触れてもいないのに、何故急に動いたのか。
布は結び目などなく雑にぐるりと巻かれただけで、解くのは容易いように見える。転がったことで少し緩まった布の端が、僅かに床に走っていた。
真は意を決し、腰を折り曲げる。
ハナコがまだ何か文句を言っているようだが、聞き届けはしなかった。
これは仕事で、自分は噂を確かめに来たのだ。
布の中身が何であるのか、見極める義務がある。
そして、真が布に手を伸ばそうとした、その一瞬――
彼が触れる前に、布は内側から歪な音を立てて引き裂かれた。
その中からは、枯れ枝のような細い土色の何かが飛び出してくる。
腕だ。
皮と骨だけの人間の片腕が、真の足を掴んでいる。
真は咄嗟に足を引こうとしたが、再び響き渡るハナコの悲鳴に動きを止められた。
彼女は腰を抜かしたようにその場で尻餅をつき、青ざめた顔で震えている。
その視線は、真の足元ではなく塊の方へと釘付けになっていた。
決して見てはいけないと思いながらも、恐怖に支配された身体は、彼女に動くことを許さない。
そして、顔を上げた真も彼女が悲鳴を上げたその正体を知る。
塊は蠢動し始めていた。
まるで一つの生物にでもなったかのように、内側から脈打っている。
その震動に押し上げられた『それら』が、ごろり、ごろりと滑落し、床へと転がる。
その形は、大小様々。
それこそ、男、女、大人から子供まで、ありとあらゆるサイズを網羅しているようではないか。
目の前の光景は、まるで蛹が羽化する瞬間。
だが、その中身は決して羽など持たず、進化とは真逆の存在だ。
いつの間にか、周囲は闇の気配に侵されている。
白い塊は黒く燃え上がり、虫の息のようでもあるのに、幾重もの喘ぎ声が重なりはっきりと耳に届く。
――洋館の地下室には、集められた死体が、骸が今も数多く眠っている。
噂はかくも悪夢の如き醜悪さを体現し、二人に襲いかかった。




