14 「罠」
黒い扉は、何の抵抗もなく、あっさりと開いた。
その先にあったのは、扉と同じ色をした暗闇の空間である。
窓の類がないことは予め分かっていたため、真はリュックから取り出したライトをかざした。
濃霧のように立ち込める冷えた闇は、その一部を白い光に振り払われ、覆い隠していたものを二人の前に晒していく。
最初に視界に飛び込んできたのは、天蓋つきのベッドだった。
キングサイズというのだろうか、二、三人は優に寝転がれるだろう大きさのベッドは、この空間の半分ほどは占めているように思われた。
埃の溜まった木板の床を踏みしめて、真はベッドへと近づく。風など吹く余地もないにも関わらず、ベッドを覆う薄布が、誘い揺れているかに見えた。
「ひ、開くんですか……?」
「でないと、始まらないだろ」
恐々と訊ねるハナコに答えながら、躊躇うことなく真は布を引き払う。
「――これは」
声を漏らす真は、背後でハナコが息を呑む音を聞いた。鼓動が跳ね上がり、全身に怖気が走る。
ベッドのシーツはしわくちゃに乱されており、その上には赤茶けた何かの染みがぶちまけられていた。
それは見るからに乾ききってはいたのだが、鼻を抉るような生臭さを錯覚し、真は思わず顔の下半分を片手で覆っていた。
振り返ってハナコを見ると、彼女は声を出すことができないのか、瞳を揺らして首を横に振る。真は気持ちを落ち着け、改めてベッドに向き直り観察を始めた。
染みはベッドの中心から周囲に広がっており、よく見ると天蓋から垂れている布にも小さな斑点が描かれている。それに気付いた真はぎょっとして顔を覆っていた手を離し、激しく振った。
胸に込み上げる不快感をなんとか飲み下し、心の中で悪態をつきながら観察を続ける。
そして、視線を枕元へと移したとき、何か光るものを見つけた。
手の平ほどの細長い円筒状の、プラスチックでできた容器である。
真は最初それが何か分からなかったが、メモリが描かれ、先端から飛び出している突起を近付いて見たところで、ようやく把握した。
「注射器……?」
針と押し子の部分は欠けているが、そう見て間違いはないだろう。ハナコも彼の背中越しにそれを見て、そろそろと口を開いた。
「病気でもしていたんでしょうか……?」
「……だとすれば、まだ救いもあるのかもしれないが、やばい事件じゃないだろうな、これ」
二人は互いに注射器から異なる連想をし、一瞬顔を見合わせる。それから真が渋面を作りながらベッドを検めた結果、それ以上のものを見つけることはできなかった。
「…………」
しかし、彼には分かっていた。
先ほどから暗闇の中の一点から、なお一層深く、ともすれば臭気を孕むかのように立ち込める暗い影。
嫌な予感は、部屋に踏み込んだ時点で確信へと変わっていたのである。
外気を取り込み蒸し暑くなりつつあるというのに、肌を這い回るような薄ら寒さを感じているのは、決して気のせいでは、ない。
「どうしたんですか……急に黙って」
むっつりと黙り込んだ真を訝しんで、ハナコが彼の顔を覗き込む。不安げに揺れる彼女の瞳を見返して、彼はふと諦めたように息を吐いた。
「まあ、こんな部屋があるくらいだから、もう疑うつもりもなかったんだけどな……」
そして、ベッドの手前を回り込み、部屋の奥へと進んで行く。ハナコも慌てて彼の背に追い縋った。
「どういうことですか……? 何か分かったんでしょうか!?」
ハナコの呼び掛けに答えないまま、真は部屋の片隅まで進んで行く。そして、突然立ち止まると、その場でしゃがみこんだ。
「ねえ! 真さん!」
「落ち着けよ」
床を手で触りながら、真は顔を振り向かせてハナコを見る。
「お前は、ここから何も感じないか?」
そして、彼は今しがた探っていた床を、こんこんと指先でつついた。
「何もって……何も、感じませんけど」
「本当か? もっと、ちゃんと意識を集中して見てみろ」
「あの、言ってる意味が……」
「いいから、やってみろ」
有無を言わせぬ真の迫力に、ハナコは不満ながらも言われた通り、彼が示す床をじっと見つめてみた。目を凝らし、なるべく意識を集中する。
最初は、何の変哲もない埃で白くなった木板が見えるだけだった。
だが、変化は不意に訪れる。
「え……」
木板の隙間から、何か薄暗いものが蠢いている。
部屋の暗闇とはまた別の何かだ。
それを見た瞬間、ハナコは「ひっ」と声を上げていた。
まるで、岩をひっくり返してその下にいる無数の虫が散らばるのを見たような、不安と不快さが全身を苛む
「見えたか?」
「見えたか? じゃないですよ! 何ですか……この湯気みたいなのは……」
ハナコが叫んで身体を引かせようとしたが、寸でのところで思い止まった。真から離れてしまうことを嫌った彼女は、震える肩を抱きながら、彼の背に隠れるようにその場で屈んだ。
「これは、霊気の流れだ」
「れいき……?」
「力の流れみたいなもんだ。訓練しないと肉眼では見えないもんだが、霊体になったお前は、その手の気配に敏感になっていると思ってな」
「やればできるじゃないか」と真は言うが、ハナコは頬を膨らませて不満を露に彼を睨む。彼女からしてみれば、ただ不快な思いをしただけで、まったく釣り合いが取れていない行為でしかない。
「なんですかそれ! ちっとも嬉しくないんですけど!」
「分からないのか? 力の流れがあるってことは、この先に何かあるってことだぞ」
憤慨するハナコに対し、真が冷静に言葉を返す。彼は木板の一つに徐に手を掛けると、一気に持ち上げた。
「ええ!?」
「この部分だけ、妙な隙間がありやがる。そして、この薄暗い霊気は、ここから漏れ出ているものだ」
真は続けて隣接した板を持ち上げていく。元がそのための造りであったのだろう。抵抗なく板は外れ、その先にあるものを前に、二人はしばしその場で立ち尽くすことになった。
「……階段、ですね」
「そうだな」
現れたのは、地下へと伸びる狭い石段だった。果ては闇に呑まれて見えず、ねっとりとした霊気の流れが、ゆらゆらと水面のように揺れている。
「噂……本当だったんですね」
「ここまではな」
真は、自分の肩越しに階段の底を覗き込もうとするハナコを横目で見た。
「心の準備はいいか?」
「うぅ、やっぱり行くんですよね……」
「お前のことは抜きにしても、俺はそのために来たんだよ。怖けりゃ残っていてもいいんだぞ?」
「だ、ダメですよう! それじゃ、わたしが付いて来た意味がないじゃないですか!」
「……そうは言うが、お前、怖くないのか?」
「いえ、怖いですけど……でも、向き合わないと」
ハナコは神妙な顔で呟くように言った。その言葉の意味がよく理解できず、怪訝な顔で真が見つめていると、ふと彼女はくすりと弛緩した笑みを零した。
「もう。真さんが言ったんですよ。自分のことが分からないまま成仏するのは、後味が悪いって」
そして、意味もなく胸を張りながら、彼女は言う。
「ええ、まったくもって、その通りだと思います。ですから、わたしは行くんです」
恐怖はある。しかし、迷うことはしなかった。
「この先に行けば、わたしが幽霊になった原因が分かるかもしれないじゃないですか。だったら、行かないわけにはいきません」
そう宣言する少女の顔は暗がりの中でも何処か晴れやかで、真は眩しいものを見るように目を細めていた。
だが、それも一瞬の気の迷いである。
彼はハナコから目を逸らすと、彼女に背を向けて階段を見下ろした。
「……そうか。なら、さっさと行くぞ」
「は、はい! 頑張りますよ!」
威勢のいい声に背を押され、真は階段の闇へと潜り始める。ライトをかざしてはいたものの、光は先に続く闇に抵抗できず、頼りないものとなっていた。
一歩下りるにつれ、靴底に泥がまとわりつくような不快な重みが加わる。それが気持ちの問題だとしても、現実として彼への精神的負荷となっていた。
「ところで……真さん。わたし、不思議に思うことがあるんですけど……」
「なんだ?」
その中で、恐怖心を紛らわそうとしてか、ハナコが真に話し掛ける。彼は足元に注意を払いながら、振り返らずに応じた。
「さっきの部屋って寝室なんですよね。なのに、あんな風に本棚で部屋を塞いじゃって、不便じゃなかったのでしょうか?」
「……」
その疑問に、真は眉をひそめた。何か胸に引っかかるものがあり、それを確かめようと頭の中で彼女の問いを繰り返す。
おそらく、あの二部屋は館の主である好事家の私室。寝室への通路を塞いだのは、おそらく隠したかったから。
何をと言えば、今進んでいるこの地下へ続く道ということになるのだろうが……。
「……まずいかもしれないな」
「え?」
はたと足を止め、真が呟く。鼻先を彼の背にぶつけそうになったハナコも、慌てて立ち止まり、首を傾げた。
「まずいって、何がですか?」
「誰が、あの通路を隠そうとしたんだ」
「誰が……って、館の人ではないんですか?」
真もそう考えていた。だから、不便だろうと彼女も疑問を感じたのだ。
しかし、好事家は高齢だったと聞く。この先に何があるのかは分からないが、通るたびにあの本棚をいちいち移動させるような真似をするだろうか。
そもそも、人目を忍んで山奥に引っ込んでいること自体が、ある種の隠れた行為であるはず。その上であのような隠蔽を重ねるのは、些か心配性が過ぎるだろう。
「そうじゃない……。誰か、まったく別の第三者が、隠したんだとしたら?」
このとき、真は周囲の警戒を怠ってはいなかった。慎重に歩を進める中でも、暗闇の先から何が飛び出してきてもいいように身構えてはいたつもりだった。
だが、思考に生じた、一瞬の閃きによる空白。
何かを掴み取ろうとした、その数秒にも満たぬ間に、忍び寄る気配に彼は気付けなかった。
背後の闇が揺れ、頬に冷たい影を落とす。
振り返ろうとしたときには既に遅く、真は背中に強い衝撃を受け、階段を転がり落ちていた。
ハナコの悲愴な叫び声が聞こえたが、すぐに闇の中に閉ざされ消えていく。
全身を滅茶苦茶に打ち付けながら、彼は途中で止まることなく、とうとう階段の終点まで落ちていた。
「――……ッ」
激痛に全身が震え、すぐには動けなかった。
辛うじて動く指先をなんとか折り曲げ、うつ伏せに転がった身体をなんとか這わせようとするが、上手くいかない。
幸い、骨が折れているという感じはなかった。背負っていたリュックがクッション代わりになったのだろう。
衝撃が中々抜けきらないが、立たねばならない。
顔は見えなかったが、明らかに悪意をもって突き落とされた。
まさか、これで終わりだとは思ってはいないはず。
迎え撃たなければ。
意識は警鐘を鳴らし続けている。早く動けと命じている。
しかし、身体は言うことをきかなかった。
シャツ越しに伝わる硬い石床の冷たさが、腹を突き抜け臓腑を凍えさせる。
転げ落ちる途中で落としたライトはどこかへ行ってしまい、視界は闇に染まっていた。
……動け……動け!
焦燥に駆られ、必死で念じるも強張った身体は動かない。
そのときになって、真は己の身体にまとわりつく何かを感じた。
周囲は見渡す限りの闇が広がっている。
呼吸はできるはずなのに、泥の中にいるような閉塞感。
口を開けば、穢れた何かが体内へと侵入してくるような危機感さえある。
肉体の動きを阻害しているのは、間違いなくこの闇が原因だ。
地下から溢れ出んとしていた、闇の源泉。
「……ッくしょう……!」
闇は柔らかく、しかし重さを持って真の身体を圧迫していた。
零れる言葉は、その端から喰われていく。
じわり、じわりと、体内に染み込んでいくのが分かる。
このまま放っておけば、自分の肉体は果たしてどうなってしまうのか。
霊気を高め、拘束を振り解こうともしたが、全ては手遅れだった。
闇に侵された肉体は彼の霊気をまともに通さず、練ることもままならない。
いったい誰が――
何の目的で――
どうするつもりだ――
思考は目まぐるしく、しかしまとまりなく頭の中を駆け巡る。
冷静であろうとすればするほどに闇の感触が肌を逆撫で、鼓動が早鐘を打った。
――カツン……と、響く音がする。
床を擦りながらなんとか顎を上げ、真は前を見た。
暗がりに慣れつつある視界が、白くおぼろげな輪郭をとらえる。
コンコンと連続した音を鳴らして石段を転がって来るそれは、彼が取り落したライトだった。
明かりは消えておらず、目の前に転がったライトが彼の顔面に光を浴びせる。
そして、その眩しさに彼が目を細めたときだった。
光が不意に遮られ、何者かの気配を感じる。
「……! 誰だ……ッ!」
這いつくばったまま真は睨み上げるが、闇と逆光でその人物の顔は見えなかった。
最初はハナコが追いかけてきたのかもと思ったが、しっかりと足のシルエットは見えている。
真の横に回り込み、屈む気配。リュックが取り外され、脇へと放り投げられる音。
「答えろよ! 何をする気だ……!?」
背中に、爪を立てるように静かに触れられる。細い指先だった。
微かに漏れ聞こえる息遣いは、男か女かも分からない。
ただ、分かることは、嗤っているということだけだった。
「――ぁ……!!」
瞬間、熱が襲った。
焼きごてでも肌に押し付けられたかのような、激しい痛み。肉を焦がし、穿り返すかのごとく、体内に何かが侵入してくる。
身体の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられている。熱と痛みが暴れ回り、真は吼えた。
雄叫びに紛れて、嗤っている何かがいる。
侵入した闇が熱に浮かされ、奥へ奥へと歯を立てて食い荒らす。
その度に、決定的に、欠けてはいけないものが一つ一つが削ぎ落とされていた。
魂が――焼け落ちる。
喉から溢れる闇に声は溺れ、視界が色を失っていく。
真の意識は、ついに闇に喰われた。




