13 「扉」
二階の廊下へ出た真は、吹き抜けから一階へと視線を落とした。ワイン色の絨毯の上を歩く、弐道の背中を見つけたためである。
「お知り合いですか?」
「お前と一緒だよ。今日知り合ったんだ。成り行きでな」
真につられてハナコも視線を階下へと向け、訊ねていた。彼の視線に気付いたのか、ふと足を止めた弐道が振り返り、顔を上げた。
「真君、何だか騒がしかったけど大丈夫かい?」
「ええ。今、そっちに行きます」
真の顔を見て、弐道は微かな安堵を顔に浮かべていた。彼の呼び掛けに応じて、真は一階へ下りるべく廊下を回り込んで階段へと向かう。
「ハナコ、お前はあんまり下手な動きはするなよ」
歩きながら小声でハナコに忠告し、真は目配せする。隣に浮かんでいるハナコの姿の方へ弐道が視線を動かしてはいないことを、彼は目聡く観察していた。
「あの人には、わたしのことが見えていないんでしょうか?」
「多分な」
短く答え、階段を下りて弐道と合流する。より近くで面と向かってみても、やはり彼はハナコの姿を見咎めることはなかった。
多少物足りなさそうな顔をするハナコを、真は横目でちらと一瞥する。余計なことはしてくれるなよという彼の視線に気づいた彼女は、意味ありげに、にこりと微笑んだ。
「本当に大丈夫だったのかい? ずいぶんと服が汚れているみたいだけど。それに、何か叫び声も聞こえていたような……」
「いや、その、二階のバルコニーの柵が脆くなっていたみたいで、ちょっと踏み外しそうになったんですよ」
砂と埃で汚れてしまったシャツと騒動の原因について、真はそう釈明した。全てを語ってはいないが、嘘ではない。
「それは……大変だったね。まあ、怪我がなくて何よりだけど」
弐道は訝しむように眉を寄せつつ、一応といった感じで頷いた。鵜呑みにはしていないようではあったが、それ以上この件に関する追及はなかった。
「気をつけます。それより、鍵は見つかりましたか? こっちには何もなかったですよ」
真は半ば無理矢理に話題を変えるべく、そう水を向けた。当然、変な幽霊を見つけました下りの報告は省く。
唐突に出てきた知らない話題に、横でハナコが「鍵って何のことですか?」と訊いてはいたが、真は返答を避けた。
「ああ、そうだったね」
話題を振られ、弐道は思い出したように笑みを浮かべる。
「じゃあ……そっちがないとするなら、これが当たりであることを願うしかないかな」
そして、ズボンのポケットから飾り気のない銀色の鍵を取り出した。
「本当にあったんですね」
「応接室っぽい部屋の机の引き出しにあったよ。見つけたのは、これ一つきりだ。とりあえず、もう一度行ってみようか?」
正直見つかるかは半信半疑であったため、真は少し驚いていた。彼の反応に弐道は苦笑しつつ、提案する。
断る理由もないため、真は頷いた。横ではなおもハナコが「教えてくださいよ!」とせがんでいるが、根気強く無視を決め込む。
「それじゃあ、行こうか」
そうして、弐道が先に立って歩き出したところで、ようやく真は不機嫌と顔に書いたような面構えでハナコを睨んだ。
「うるさいぞ」
「えー……、だって、仲間外れは寂しいじゃないですか」
「だからって、人前で騒ぐんじゃない。俺にしか聞こえてないってことを忘れるな」
薄暗い廊下を歩きながら、真はぶっきらぼうに低く囁く。ハナコもそうする必要はないのだが、彼に合わせて声を潜め、自然と二人は内緒話をするような形になっていた。
「それで、何か思い出しそうなのか?」
「うーん、そう急に言われても難しいですよ。というか、ここってどういう場所なんですか? ずいぶん荒れてるみたいですけど」
遅まきながら、ハナコは洋館の荒れ具合に言及し始めた。人の気配のしなさ具合といい、普通の館ではないことに気付いたのだろう。
「数年前から放棄されてるんだよ、ここは。さしずめお前は、廃墟の亡霊ってところだな」
「むぅ……わたしって、そんなに怖い顔してますか?」
「……」
「え、やだ、なんですかその無言の間は。もしかして、血塗れの恐ろしい顔とかになってるんじゃないでしょうね!?」
奇妙なものを見るような真の目つきに、ハナコが慌てて両手で顔面をまさぐりだす。何を勘違いしているのかと、彼は失笑気味に口端から息を漏らした。
「安心しろ。怪我とかはしてない。綺麗なもんだよ」
「そ、そうですか? ならよいのですけど」
安堵の笑みを零すハナコに対し、ふいと真は顔を背けて前を向く。その態度にハナコは首を傾げて顔を覗き込もうと身を乗り出そうとしたのだが、それを厭うように彼は早足になった。
「真君。なんだか独り言が多いみたいだけど、どうかしたのかい?」
「気にしないでください……考えをまとめていただけです」
真は弐道の隣に並び、彼の横顔を見上げる。
「そういえば、弐道さんはこの館について、どれくらいのことを知っているんですか?」
「何だい急に? 僕も、噂以上のことは知らないよ」
「そうなんですか? ライターっていうから、もうちょっと突っ込んだ情報も知ってるんじゃないかな……と」
「買い被りだね。その突っ込んだ情報を仕入れるために来ているんじゃないか」
「そうですか。けど、もともと宿泊施設の、こんな山奥の館を買い取った好事家って、どんな人だったんでしょうね」
「さて、どうだろう」
弐道は軽く笑い、肩を竦めた。
「よっぽど世俗を嫌っていたのか……はたまた、人目につかない場所で何かをしようとしていたのか……」
「地下には多くの死体が眠っている……ってやつですか」
やや芝居がかった口調の弐道に、真は眉をひそめる。
「まあ、本当に地下があるかどうかはさておき……だ」
弐道の足が止まる。いつの間にか、件の鍵の掛かった扉の前に辿り着いていた。
「少なくとも僕は、その好事家がどんな人だったのかっていうヒントが、この部屋の中にはあるんじゃないかと思うんだ」
弐道は手にした鍵を無造作に鍵穴に差し入れる。指先で捻ると、何の抵抗もなくあっさりと鍵は回り、開錠の音が短く響いた。
「……当たりだね。開けるけど、心の準備はいいかい?」
顔を向けて確認する弐道を見返し、真は頷いた。
そして、「よし」と弐道が一言呟いてレバーを押し、そのまま扉を内側へと押し開いた。
その部屋は、これまで見てきたどの部屋よりも広々としていたように真は思った。
ドアの正面――西側に並ぶ窓は厚いカーテンで閉ざされており、中は廊下から輪をかけて薄暗い。まだ全体像は把握できないものの、澱んだ空気の中に堆積する埃と黴で廃れた臭いは健在だった。
「まずは、窓を開けようか」
空気の入れ換えをするべく、弐道は部屋の中に足を踏み入れる。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められており、彼の足音は吸い込まれていた。
「真さん、入らないんですか?」
「……ああ、入るよ」
真は入口から部屋の中をざっと見渡したところで、遅れて中へと入った。ハナコも、彼の背に続く。
弐道がカーテンをさっと開くと、頂上から傾き始めた陽光が差し込み、室内を照らし出した。それから間を置かずに窓も開放され、暑いながらも新鮮な空気の流れが生み出される。
天井には吊り下げられたアンティーク調の電灯。北側には木製の大型の机と、その後ろには中身のない本棚が壁に沿って陳列されていた。
「書斎かな。館の主人の私室だったのかもしれないね」
全ての窓を開放した弐道が、全貌が明らかになった部屋をぐるりと見渡して言う。彼は南側に設置された革張りのソファの方へと歩み寄り、壁に掛けられている絵画を眺めた。
「有名な絵とか、ですか?」
長閑な田舎町を描いた風景画のようであったが、残念ながら真の知識にはないものだった。それは弐道も同じだったようで、彼は首を横に振って苦笑を返す。
「しかし、生活の痕跡みたいなものはないね。そっちには何かあるかい?」
「ちょっと待ってください。見てみます」
真は大型の机を調べようと壁際へと回る。表面は埃で白くなっているものの、深い色合いで高級感漂うものだった。
両袖に置かれたキャビネットを含めた引き出しに鍵の類はなく、中を調べるのに手間はかからなかった。とは言っても、やはり中は空っぽで、この部屋の主のことが分かりそうなものは見当たらない。
それは、天井近くまである高さの本棚も同様だ。中身があれば持ち主の趣味趣向といったものが窺えたかもしれないが、何もなければそれも叶わない。
「地下への入口、なんてのはなさそうだね。やっぱり、噂は噂だったかな」
メモを取った手帳をショルダーバッグへと突っ込み、弐道が口端を軽く持ち上げた。
「僕はもう一度軽く館を回ってみるけど、真君はどうする? というか、君の用は済んだのかい?」
「いえ……俺は……」
言葉を濁して真はハナコの姿を見ようと視線を動かした。が、さっきまですぐ近くにいたはずの彼女の姿が見当たらないことに気付く。
驚きを空咳で誤魔化すようにして、彼は首を横に振った。
「……もう少し、この部屋に残って調べてみますよ」
「そうかい? じゃあ、そうだね……一時間後にロビーで落ち合うっていうのはどうだい? 山を下りるなら、暗くなる前の方がいいしね」
「わかりました。そうしましょう」
弐道は真の様子に気付いた風もなく、真もその提案に乗った。そうして、弐道の気配が十分に遠ざかったのを見計らい、真は部屋を見渡しながら声を上げる。
「ハナコ! どこに行った!?」
「真さん! 真さん! わたし、ちょっと発見をしたのですが!」
と、真の心配をよそに、興奮気味な少女の声が外から聞こえてきた。真は舌打ち交じりの溜息をつき、窓から顔を突き出して首を巡らすと、すぐに彼女の姿は見つかった。
「何やってんだ!?」
真の声に、ハナコが振り向く。彼女は伸び切った雑草の上に浮かびながら、洋館の外壁を見上げているところだった。
「外から建物を見ていたのですが、なんだかおかしいなぁと思って。ちょっと来てくださいよ」
「……なんでお前が仕切ってんだよ」
奔放過ぎる彼女の行動にぼやきながらも、真は素早く窓枠を足を掛け、段差を飛び越えて地面に着地した。
「くだらないことだったら、承知しないぞ」
「そんな意地悪を言わないでくださいよう。ほら、ここなんですが」
近づく真に笑いかけながら、ハナコは目の前を指差した。
洋館の壁が聳えている。ところどころ塗装が剥げかけ、陽射しを跳ね返すこともできなくなるほどに汚れてしまった白い壁だ。
「で、壁がどうかしたのか?」
真には呼びつけられる程の不審な点が見つけられず、半眼となってハナコに訊ねる。
「ええとですね……この壁、妙に出っ張っていませんか?」
「……どういうことだ?」
ですから、とハナコは壁を指差したまま、北側の壁の端まで素早く移動した。
「ここから――ここまで、ちょっとした距離があると思うんですよ。何か、変だと思いません?」
そこまで言われて、真もようやくハナコが何を言いたいのか理解した。
彼女が最初に指した位置は、部屋の端に当たる部分だった。丁度、本棚が置かれていた場所になる。
そして、彼女が移動した壁の端まで、五メートル以上はあるように見える。ただの壁にしては、分厚過ぎるというものだろう。
真は二階を見上げた。彼とハナコの中間地点には窓があり、そこが二階の廊下の角であることが分かる。
「念のために訊くが、裏口みたいなのはなかったのか?」
「この角の周りは見てみましたけど、入口みたいなのはなかったですよ」
既にそれは調べましたと、ハナコは即答した。つまり、一階のこの空間だけが、不自然に空いているということになる。
「……それじゃあ、お前が行って見て来てくれよ」
「ふぇ!?」
「お前ならすり抜けられるんだから、丁度いい。手伝ってくれるんだろ?」
目を見開くハナコに、真は壁を軽く手の甲で叩いて至極あっさりと言った。
「い、いやですよ! 一人でなんて、怖いじゃないですかっ」
しかし、ハナコは激しくかぶりを振った。
「さっき話されてましたけど、ここって怖い噂があるんですよね? 何か出たら責任取ってくれるんですか!?」
「どの面下げてそんなことが言えるんだよ、お前は……」
自身の存在を棚上げするにも程があると、真は呆れ返って息を吐く。弐道と話したのは彼女にある程度の情報を聞かせるためだったのだが、このような形で裏目に出るとは思わなかった。
「ったく、仕方ねえな。しかし、だとすると、可能性がありそうなのは……」
いくら傷んでいるとはいえ、壁を叩き壊すのも容易なことではないし、弐道にばれるのは必至である。真は再び窓枠に飛び、一旦部屋の中へと戻った。
今一度ざっと部屋を見渡した彼は、陳列された本棚へと歩み寄る。北側のこの壁の向こうが、ハナコの言う不自然な空間になっているはずだ。
「真さん、どうするつもりですか?」
「お前が役に立たないんだから、やれることをやってみるだけだよ」
嫌味の一つを言って、真は本棚の一つを支えるように両手で持つと、手前へと引っ張り始めた。中身は空とはいえ、自分よりも遥かに背の高い本棚である。倒さないようにバランスを保ちながら、慎重に脇へと運んでいく。
「ここは、外れだな」
本棚の裏の壁には何もなく、白い壁と埃の溜まった床があるだけだった。しかし、彼はめげずに次の本棚を運ぶべく作業へ移る。
そして、何度目かの本棚をずらしたときだった。
「真さん!」
その裏に隠されたものを見て、ハナコが声を上げる。真も本棚を下ろしてそれを見て、思わず笑ってしまっていた。
「まさか、本当にあるとはな」
飾り気のない、黒い扉だった。
壁に短い通路のような窪みがあり、その奥で影と同化したかのように扉が佇んでいる。
真は知らず、唾を飲み込む。にわかに空気が重くなり、通路に立ち込める影が、あたかも闇の触手のごとく蠢いているかのように見えていた。
「……行くぞ。付いて来れるか?」
「は、はい。でも、さっきの方は呼ばなくてもいいんですか?」
ハナコはおっかなびっくりしながら頷き、訊ねる。弐道のことを言っているのだろうが、真はゆっくりと首を横に振った。
「勘だが……何か感じるんだよ。あの人が気付く前に、さっさと調べてしまいたい」
「何かって……やっぱり幽霊とか、ですか?」
「まあ、そうなるな。お仲間がいたとしたら、何か思い出すきっかけにもなるんじゃないか?」
「どうですかねえ……ちょっと怖いですけど、お手伝いすると言った以上、付いて行きますからね!」
ハナコはぐっと表情を引き締めて、真の背後にぴたりとくっつく。言っていることは勇ましいのだが、さっき一人では嫌だと駄々をこねた件といい、行動がいまひとつ決まっていなかった。
「まあいいが、勝手な行動はするなよ。俺から離れるな」
「はい! 死んでも離れません!」
「だから……はぁ、まあいい」
これ以上言っても無益だと、真は早々に見切りをつけて息を零す。やや緊張感に欠けながらも、二人は隠された通路へと向かった。




