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08 「心の旅路」

 そして、夜が明けた。

 真は一人、しんとした朝の冷たい空気を身に沁みこませながら、自室にて出かけるための支度をしていた。

 窓から見える空は平たい雲に覆われ、仄かな明かりが透けて見える。

 結局、一晩経っても状況に何ら変化はなかった。呼び掛けてもハナコの声は聞こえない。体調に然したる変化はないことが、逆に不気味でさえあった。


 大き目の旅行鞄に数日分の着替えを詰め込み、肩に担ぐ。これから行うことが、おそらく長丁場になるであろうということは、今朝の段階で聞かされていた。

 だが、何があろうと関係ない。絶対に、ハナコを救い出す。

 そう思う彼の表情は頑なであったが、そう思えば思う程に、ふと昨夜の珊瑚の問いが思い起こされてもいた。


 ……助けることに、何故も何もないだろう。


 雑念を振り払うように真は首を横に振る。助けることに、今更理由などいるものか。

 ハナコを助ける。それだけは確かなことなのだと、彼は己の言い聞かせるように、何度も心の中で呟いていた。



 玄関を出た先の門の前では、既に珊瑚が待っていた。彼女のそばには凛が立っており、凛は真の姿を見つけてはっと表情を強張らせたようである。


「お待たせしました」


 真が声を掛けると珊瑚はふわりと微笑み、会釈を返した。彼女は今、栗色の髪を下ろし、白いコートに小ぶりの鞄を肩に掛けた姿である。あくまでも付き添いであり、大掛かりな荷物を持って来てはいない。

 続けて真は凛を見る。メイド姿の彼女は両手でエプロンの裾を握り締め、明るい茶色の瞳で彼を見上げていた。


「見送りはいいって言っただろ」

「……だって! ほっとけないし……」


 反射的に声を上げかけたが、凛は言葉尻を萎れさせて目を逸らす。そんな彼女の態度に真は眉を顰めながら、少しだけ口端を持ち上げた。


「心配しなくても、ちゃんと帰って来るっての」


 片手を持ち上げ、幼馴染の頭を数回軽く叩く。子供扱いされたみたいで凛はむくれて頬を膨らませたが、やがて「しょうがないなあ」と笑みを表情に取り戻した。


「うん! ちゃんと、ハナコさんを連れ帰って来るんだぞ!」

「任せろ」


 凛と短く視線を交わし合い、真は「行きましょうと」と珊瑚を促す。二人は凛に見送られて門を抜け、診療所への道を歩き出した。





 そうして、二人の背中が見えなくなるまで見送り続けたところで、凛はほぅと気の抜けた息を吐いた。

 元気を与えようとしたつもりが、逆に気遣われてしまった。今朝の彼は、どことなく雰囲気が違うように思え、何となく調子が狂ったのである。

 大人びた、と言うべきだろうか。いや、それも何かしっくりこない気がする。

 いずれにしても、それはきっと、彼の相棒である少女のことに起因するのだろうけれど。


「うーん……何だろう……」


 もやもやとした気持ちは消化しきれなかったが、空模様と同じく晴れる兆しは見えない。ひとまず家事に戻るべく、凛は家に戻ろうと振り返った。


「青春の匂いがする」

「うぇ!? つ、柄支さん!?」


 と、いつの間にそこに居たのか、柄支が凛の背後に立っていた。彼女は思わず変な叫び声を上げ、数歩後退りする。


「行っちゃったね」

「あの……もしかして、ずっと見てたんですか?」


 柄支は地味目のパーカーにミニスカートと、家の中からひょいと出て来たという恰好だった。だとすればとんでもなく恥ずかしい場面を見られていたのではないかと、凛の頬が熱くなる。

 果たして予想通りと言うべきか、柄支は可愛いものを見るように目を細め、にっこりと頷いた。


「まったく、浅霧くんも隅に置けないお人だねぇ。こんなに可愛い幼馴染がいるなんて……」

「え、ええと、その……柄支さん?」


 可愛いと言うなら、凛は自分よりも年上だが身長の低いこの少女の方こそ可愛いと密かに思っていたりもしたのだが、怒られそうなので口には出さなかった。


「心配だよね、入院なんて。でもまあ、浅霧くんなら大丈夫だよ」

「……そうでしょうか」


 根拠に欠ける――無神経とも取られかねない物言いに、思わず凛は訊き返した。

 真はこれから、如月診療所にて数日間寝泊りをすることになっている。表向きはハナコの調子が思わしくないため、経過を診るため彼を診療所へしばらく泊まらせるというものだった。

 しかし、事がそう単純なものではないのであろうことは誰もが察していた。あえて問い質す者はいなかったが、これから彼が重大なことを行おうとしていることは伝わるものだ。


「そうだよ。手の届かないところにいるとどうしようもないけど、遠くに行っちゃうわけじゃないんだし。すぐに顔が見れるんだから、元気づけにも行けるでしょ?」


 柄支はあくまでも普段通り、明るい調子で訊いてくる。そこにはある種の余裕みたいなものが感じられ、凛はまたしても急に恥ずかしくなってきた。


「……そうですよね。ごめんなさい。お客様に気を遣わせてしまって」

「いいよいいよ、気にしないで」


 ぺこりと頭を下げる凛に、慣れない調子で苦笑しつつ柄支は手を振る。


「さて、そろそろ休憩も終わりにしないと麻希ちゃんに怒られるから、戻るね」

「はい。わたしも家事に戻るので、ご一緒します」


 最後にちらと後ろを振り返り、凛は柄支と並んで家の中へと戻るのだった。





 診療所へと辿り着いた真と珊瑚は、まずは建物の裏手に回り込むことになった。年始ということで表の玄関口は閉められており、正面から中に入れなかったためである。

 日陰となった薄暗い場所だった。スチール製のドアの横にあるインターホンを押し、しばらく待つと内側からドアノブを回す音が聞こえる。


「来たか。入りな」


 如月が顔を出し、挨拶もおざなりに二人を招き入れた。今日の彼は業務に従事するためか白衣を羽織っており、この場のあるじである風格を漂わせている。

 森閑とした院内の廊下に靴音を響かせ、如月は無駄口を叩くことなく目的地を目指した。


 そこは、翼が眠っていた病室だった。白い個室は清潔に整えられており、カーテンで閉ざされた窓辺にはベッドが一つ据えられている。


「とりあえず、真は着替えろ」


 そして、如月がベッドの上を指して言った。見ると、そこには畳まれた水色の病衣が置かれている。


「これにですか?」

「なるべく余計なもんは身につけない方がいいんでな。さっさとしろ」

「……わかりましたよ」


 その場で背を向ける珊瑚を尻目に、真は鞄をベッドの脇に置いて半強制的に着替えに取り掛かる。少し薄手ではあったが、生地は肌触りが良く、病室も暖房が効いているため問題はなかった。


「終わったか? それじゃ、次はベッドに乗りな」

「は、はあ……」


 続けざまに出される指示に、真は何か言いたそうにしながらもベッドの上で胡坐をかく。


「よし、それじゃあこれから説明をする」


 それでようやく満足したのか、真の隣に移動した如月が重たげに口を開いた。珊瑚も、如月の向かいへ移動し、真を挟む形を取る。


「先に言っとくが、説明を聞いて受けるも受けないもお前の自由だ。判断は任せる」

「それ、着替えさせといてから言うことですか?」

「どうせ断りはしねえだろう。建前だよ」


 そうして真の言葉を鼻で笑ったのを皮切りに、如月は説明を始めた。


「お前とハナコの置かれている状況ってのは、昨夜話した通りだ。まあ、ハナコ側の意志は推測でしかねえが、一晩経っても出てこないってことは、何かあるとみて間違いはねえだろう」

「先生、それはもう分かってます。俺が聞きたいのは、その先です」

「分かってる。だがな、はっきり言うと、ハナコに対して俺が出来ることはもう何もない」


 本当にきっぱりと歯切れよく言われ、真は一瞬言葉を失った。では、何故わざわざ診療所へ呼んだというのか。


「俺が出来るのは、せいぜい気の巡りを良くすることくらいだ。意識を深くに潜らせちまった以上、その人格に呼びかけることなんざできねえよ。だが――」


 如月は不意に伸ばした指先を真の胸に突き付け、言葉を繋いだ。


「お前は別だ。ハナコと魂の繋がったお前なら、ハナコに呼び掛けることができる。いや……違うか。踏み込むことができる」

「踏み込む?」

「そうだ。真、こうなった以上、お前がハナコを迎えに行くしかねえ。お前はこれから、ハナコの心に土足で踏み込む。そして、引きこもっちまった子供ガキを、無理矢理にでも引っ張り出すんだ」

「ちょっと待ってください。話がまだ……」


 歯に衣着せぬ乱暴な言い回しに、真は如月の説明を遮る。しかし、如月は止めずに口を開き、言葉を並べ立てた。


「それだけのことをしようってことだよ。霊と同調して記憶を垣間見る行為の強化版みたいなもんだと思えばいい。お前は、自分の意思をハナコの魂の最深部まで潜らせるんだ」


 それから、と彼は続ける。


「意思を潜らせている間、お前は意識を失った状態になる。これは、接続による簡単な意思疎通じゃねえ。本当に、お前そのものを相手の魂へ向ける行為になる」


 指を離し、如月は背筋を伸ばして真を見下ろす。真は言われた言葉の意味をどうにか頭の中で噛み砕き、理解に努めた。


「……だから、診療所まで来させたんですね?」


 意識を失うなら、設備の整った診療所内の方が如月にとってもやり易いということなのだろう。そう思って訊ねる真に、如月は頷いた。


「そういうこった。だが、口で言うほど生半なことじゃねえ。なあ、真。お前はハナコのことを、信頼しているか?」


 唐突なその問いに真は眉を顰めた。冗談かと思って見上げるも、如月の目はあくまで真剣である。こちらを揶揄することが目的でも、皮肉のつもりでもないようだった。


「もちろんです」


 だから、彼は迷うことなく首を縦に振った。信頼しているかと問われれば、当たり前だと答える以外の返しはない。


「そうだな。訊ねられれば、お前たちは互いに信頼し合っていると口にするだろうよ」


 如月はその回答を予想していたように頷き返した。いや、これはそもそも予想するようなことでもない。彼の本題は、次の質問にこそあった。


「だが、それをどう証明する?」

「え……」


 刃物を突き付けるかの如く差し向けられた声に、真は言葉を詰まらせた。


「言葉以外で、お前たちは信頼し合っていると、どうして言える?」


 如月は眼を鋭く細め、言葉を変えて再度訊ねる。すぐさま答えが返ることを期待してはいなかったのか、彼はそのまま続けた。


「人の心ってのは、多くの顔を持っている。話す相手によって顔を使い分けるってのが典型的なもんだ。人の顔色を窺って、おためごかしを言うなんざ世渡りの常だろうぜ」

「先生は……信頼という言葉が嘘だと言いたいんですか?」

「そうじゃねえ。その信頼しているって言葉にする顔もまた真実の一つだ。だが、あくまで一つに過ぎねえってことだよ」


 真の瞳を覗くようにして、如月はなおも言葉の刃を向ける。


「要するに、お前が信頼してるっていうハナコは、一部でしかない。言っちまえば、お前にとって都合の良いハナコでしかねえってことだ」

「……そんなことは!」

「本当にお前たちは、自分の心を全て曝け出した上で、幻滅せずに信頼できると言える関係なのか」


 感情を昂ぶらせる真に対し、如月は冷ややかな声を浴びせかける。珊瑚は二人の会話を見守りながらも、いつでも止められるように身構えていた。


「人には誰にも触れさせたくない部分ってのがある。お前にだって一つや二つ、覚えはあるだろう。魂に潜ることで、お前はハナコの心を全て見る。そして間違いなく、そうした部分に踏み込むことになる」


 土足で踏み込むというのはそういうことだと、如月は口端を吊り上げた。


「そして十中八九、踏み込まれることをハナコは拒絶する。そうなれば、潜り込んだ剥き出しのお前の意思がどうなるかまでは保障しねえ」


 彼の言葉が脅しではないことは真にも伝わっていた。彼は事実しか口にしておらず、ハナコの心――彼女すらも普段意識していないであろう深層に踏み込むということは、それほど危険を伴うことなのだ。

 その心を掴もうとした瞬間、真は彼女の心に殺されてもおかしくはない。


「お膳立てはしてやる。答えな。お前は命の危険を冒してまでハナコの全てを受け入れ、連れ戻してやれるか?」


 それが最後の問いなのだろう。如月は口を閉ざし、真の返答を待った。

 真は改めて自分の胸に手を添え、気持ちを確かめるように目を伏せる。

 しかし、いくら考えようとも、やはり変わらない。どれほど言葉を尽くされようが、選択は二つに一つ。

 ならば答えは最初から決まっている。


「当たり前です」


 決然と顔を上げ、瞳をこゆるぎもさせず、真は答えた。


「……だろうな。ここまで言っても聞かねえとは、頑固なやろうだ」


 舌打ち交じりに苦笑を漏らし、如月は吐き捨てるように言う。そして、対面の珊瑚に顔を向けた。


「珊瑚、お前も手伝え。そのために来たんだろ」

「もちろんです。協力は惜しみません」


 珊瑚は真の覚悟を問い質すような真似はせず、唯々諾々と頷いた。それが彼女なりの信頼の示し方でもあるのだろう。


「ありがとうございます。珊瑚さん」

「……いえ、私も、ハナコさんをお救いしたい気持ちは同じです」


 珊瑚の笑みに厚い頼もしさを感じながら、真は改めて如月に向き直った。


「先生、教えてください。俺はどうすればいいですか?」

「ああ。それじゃ、早速始めるとするかね……。お前は横になれ」


 如月は真の肩を軽く押す。その指示を今更疑うことなく、真は大人しくベッドに横になった。


「出だしについては、特に難しいことはねえ。大人しく目を閉じて、意識をハナコの魂に向けろ。俺はお前の気がそこに集中するように流れを作る」


 白衣の袖を捲り上げ、如月は続けて珊瑚を見た。


「珊瑚、お前はハナコへの魂の道を作れ。真と接続しているお前の役目はそれだ。できるな?」

「かしこまりました」


 珊瑚もコートを脱ぎ、支援する態勢に整え始める。ここは二人に任せ、真は自分の役目をこなすべく瞼を下ろし、意識を集中させた。




 深く、奥へ、底へと沈むように。

 生体活動を維持するための最低限の霊気が肉体に残され、埋没させているはずの意識が徐々に鮮明になっていく。

 まるで意識そのものが肉体を得たかのようだ。

 今、意識は魂の内側に存在する。感覚としてでしかないが、辺りは淡く、青白い光に包まれていた。

 光には一定ではない流れがあり、耳を揺らすような低い唸りをあげている。いわばこれが、霊気の流れとでもいうべきものなのだ。


 広大な海のような空間を、真は覚醒した意識で泳いだ。この中に魂の繋がり――ハナコの魂へと通ずる道があるはずである。

 そして、そのとき青白い光景の中に、一際強く光る白い糸のような輝きを見つけた。それは光の流れを無視し、一直線にある方向へと伸びていく。

 確信をもって、彼は光の糸をたぐるように追いかけた。思った通り、その先には大きな横穴とでもいうべきか、この空間を占める青白い光の源流があった。


 ゆるやかに光はそこから流れ出ており、空間を満たしている。真は得も言われぬ感情に支配され、胸が締め付けられた。


 躊躇うことなく光の流れに逆らうように、穴へ飛び込んでいく。上も下も分からぬ状況になりながらも、ひたすらに前に進んだ。

 しかし、広がる光景に変化はなく、どれほど進んだのか、時間が経過したのかも分からない。外ではごく近い距離で言葉を交わせたというのに、互いの魂がこれほど距離のあるものだとは思ってもいなかった。

 それでも、泣き言など言う暇はない。

 既に意識は己の魂から飛び出していた。この繋がりから放り出されてしまえば、いったい自分がどうなってしまうのか予想もつかない。そんなのは、間抜けもいいところだ。


 ……ハナコ!


 深く、念じ、祈るように少女の顔を思い浮かべながら、強く想う。

 果たしてそれが通じたのか、不意に目の前が開けた。

 光が強まり、転がり落ちるように真の意識は吸い込まれていく。


 そして、気が付けば広大な白い空間にいた。

 無機質な床だけが、ただ地平へと続いている。歩いても音は響かず、天井も、空も存在しない。


「ここは……どこだ」


 真は言いながらも、繋がりの道を越えたのであれば、ここがハナコの魂の中なのだろうと感じていた。彼女が秘めている魂の一端に、ようやく踏み込んだということだ。

 しかし、見たところ足掛かりとなりそうなものは何もない。あてどなく歩き回るのも危険な気がする。そう思い、首を巡らしたときだった。


「え……」


 真は驚愕に目を見開いた。

 さっきまでは何もいなかったはずの目の前に、佇む少女の後ろ姿を見つけたのである。

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