07 「再会とはじめまして」
柄支は背中に冷たい感触を覚えながら目を覚ました。
見上げる視界には、暗いビルの壁が聳えている。思考はぼんやりと霧がかかったようで、はっきりとしていない。
何か、とても嫌な夢でも見ていたような最悪な目覚めだった。
徐々に思考の霧は晴れつつあり、自分が仰向けに倒れていることが分かった。何故と思いながら上半身を起こすと、酷い頭痛に襲われた。
思わず顔を顰めて頭を押さえると一瞬で痛みは通り過ぎたが、代わりに全身に悪寒が走る。
喉が渇いて、吐き気もした。
動悸が治まるのを待とうとするが、呼吸もおかしい。
えづくように断続的な息を漏らしながら、握るように両手を胸に押し当てる。
……そうだよ。わたしはビルの中にいて……。
自分の身に起きた出来事を思い出そうとするが、途中で記憶はぷっつりと暗転していた。
怪しいと思いながらも二人組を廃ビルまで案内した後、何かよくないことが起きたのだ。
その先を必死で思い出そうとすると、更に気分が悪くなる。助けを求めるように柄支が呻き、俯いた顔を上げた時だった。
「芳月先輩!」
好んで誰も通らないような路地裏に、彼女の名を呼ぶ声が響いた。
振り向いた柄支が見たのは、今日会ったばかりの後輩の少年の姿だった。
「浅霧、くん……?」
「よかった、無事で……」
息を切らしながら駆けてきた彼は柄支の姿を見つけて安堵したようだが、彼女の苦しげな様子を見て表情を変えた。
「先輩、具合が悪いんですか?」
屈んで柄支の背中を支えるように手を添え、真は心配そうに柄支の顔を覗き込む。その顔に妙な懐かしさを覚えて、柄支は思わず笑みを零した。
……あの子も、こんな顔をしてたっけ。
今は遠く離れた妹も、世話焼きな部分があった。自分の方が年上なのだから心配いらないと言い張るも、困ったように眉を寄せながらも口を出してくる。
その愛しい記憶に癒されて、柄支の気分は少し落ち着いた。彼女は真の寄せた眉間に手を触れ、安心させるように微笑みを作る。
「ありがとう。わたしは大丈夫だよ」
「そんなことないでしょう、顔が青いです」
「そうかな……だとしたら貧血かもね……」
無理に言葉を出そうとした反動か、柄支の身体が揺らぐ。前のめりに倒れた彼女は真の胸に倒れ込んだ。
「あぁ……ごめんね。すぐにどくから」
「あ、いえ……大丈夫ですよ。非常時ですから」
照れて焦りながらも、努めて冷静に振る舞う少年の声が頭の上から届いてくる。
不覚にも、少しだけ可愛いと思ってしまった。
そして、柄支は真の胸に身を寄せることで彼の異変にようやく気付いた。
上着の脇腹部分が破れており、傷を負っている。血は止まっているようだが、傷口の周りには乾いた血の模様が広がっていた。おまけに全身も砂埃にまみれている。
喧嘩でもしたのかと思ったが、それでは会ったときに垣間見せた安堵の表情はなんだったのか。
まるで自分を探していたようではないか。
情報が足りずに現状を把握しきれない柄支は、真の傍らに置いてある物を視界に捉えた。
「浅霧くん、それって、どこかで拾った?」
コンビニ袋だった。僅かに覗く中身は、今夜自分が買った物と一致しているように見える。
「え? はい。もしかして……」
普通は「買った?」と問うべきところを柄支はあえてそう質問した。真も彼女の意図を察したようで、顔に理解の色が浮かぶ。
「うん、多分それ、わたしのだよ」
柄支は心が軽くなるのを自覚した。未だに自分の身に起きた事の詳細は判らない。けれど、どうやら自分は何かに巻き込まれて、目の前の少年がその何かから守ってくれたことは確かなようだった。
「浅霧くん、怪我してるよね。救急車呼ぼうか?」
「そうですね。俺は大丈夫ですけど、先輩の方が心配です」
「うーん、浅霧くんがいいなら、わたしは大丈夫かな。ありがとう」
真の胸から身を離し、柄支は自然に笑みを浮かべることができた。足は多少ふらついたが、なんとか立つことに成功する。
「本当に大丈夫ですか?」
「へーきへーき、だからほら、浅霧くんも立って」
なおも心配そうにする後輩の少年を追い立てるように柄支は促した。まったく、これではどちらが気を遣っているのか分からない。
「ええとね、なんで浅霧くんがこんなところに居るのかとか、自分の状況もよく判っていないんだけど、浅霧くんは説明できる?」
「ええ、一応は」
「そっか。じゃあ、落ち着ける場所に行こうか」
「ここじゃダメですかね」
「嫌だよ、そんなの。暗いし寒いし、落ち着けない」
真の提案をにべもなく断り、柄支は腕を組んでしばし考えた後、決断して頷いた。
「仕方ないな。わたしの家が近くだから招待するよ」
「先輩の家? いや、流石にそれは……」
「大丈夫だよ。わたし一人暮らしだし、気兼ねしなくていいから」
「大丈夫な方向が違います。先輩、警戒心がなさすぎですよ。たった今、変なことに巻き込まれたばかりじゃないですか」
「浅霧くんが助けてくれたんでしょ。だったら問題ないじゃん」
「ないじゃんって……あるでしょ、色々と」
「ははぁ、突っ張ってるようで初心なのね」
「――」
放課後に話していたときは少し不愛想で人を遠ざけている印象だったが、既に柄支の中でその印象は変わっていた。
微かに顔を赤らめている今の彼は、お人好しで可愛げのある不器用な少年だ。きっと、こっちが素なのだろう。
「それに汚れちゃったしね。こんな状態で街中をうろうろもできないよ。浅霧くんも怪我してるんだし、ちゃんと看てあげるから、そうしよ?」
真ほどではないが、柄支の衣服もところどころ汚れてしまっている。時間的に治安も良いとはいえなくなる頃だろうし、悪目立ちはしたくなかった。
「いや、でもですね……」
「それとも、浅霧くんは女の子の部屋に入って変なことをする人なのかな?」
「しませんよ」
「だったら信用してあげる」
屈託なく笑いかけながら柄支は真に歩み寄ろうとする。が、足がよろけて倒れかけ、咄嗟に彼の腕にしがみついてしまった。
「あはは……面倒をおかけします」
「……分かりましたよ。行きましょうか」
照れ笑いを浮かべる柄支を見て、真は色々と諦めた顔で頷いた。どの道ここで彼女を一人置いて別れるつもりはなかったのだし、予定とは違うが容認できる範囲だと己の心に言い聞かせる。
「ところで先輩。言い難いことなんですが」
そして、歩き出す前に真は一旦言葉を切り、自分の背後に視線を向けながら言った。
「え? なに?」
「先輩には、見えていますか?」
真の腕を放した柄支は、彼の肩越しに後ろへと視線を向ける。なるべく気にしないようにしていたが、問われたと言うことは見間違いではないのだろう。
柄支は頷き、正直に答えた。
「うん、浅霧くんの後ろに、女の子が見えるよ」
◆
繁華街のとあるファミレス内にて、紺乃剛と咲野寺現は四人掛けの席で向かい合っていた。
時間はそろそろ日付を跨ごうとしており、店内は閑散としている。ぽつぽつと客はいるものの、大体が注文を終えて居座っている状態がほとんどだった。
「お待たせしました」
お互いに黙っている二人のもとに、店員が注文の品を運んできた。現の前には鉄板で湯気を立てるステーキ、紺乃の前にはホットコーヒーが置かれる。
現は汚れた黒のロングコートを脱いで自分の脇に置いている。その下は黒のパンツにセーターと、やはり同じ色で統一されていた。
両手に巻かれた真新しい包帯が痛々しかったが、彼女自身は気にした様子もなくナイフとフォークを器用に扱いながらステーキを切り分けて口に運び始めた。
「それにしても、よく食えるもんじゃな」
コーヒーカップを傾けながら、紺乃は感心して言う。ステーキの脂っぽい匂いでコーヒーの味が鈍るような気がしたが、彼は構わず黒い液体を啜った。
「ちょっと消費しましたからね。今回、紺乃さんは働いてないんですからここは持ってくださいよ」
口の中のものを一旦飲み込んで、現は不満そうに口を尖らせて手に持ったフォークを彼に突き付けた。
「不作法じゃな、やめい」
「おっと、失礼しました」
紺乃の注意に現は素直にフォークを引っ込め、食事を再開する。それから彼女はものの数分で用意された肉を綺麗に平らげた。
「それにしても――」
水を飲んで一息ついた後、現は若干声を落としながら口を開いた。
「あの人たち、本当に見逃しても良かったんですか?」
廃ビルで戦った少年のことを思い出し、現は煮え切らない思いだった。不覚を取ったのは自分の落ち度として気持ちの整理はつけたつもりだが、まだ紺乃の采配には疑問を抱いている。
聞かれると問題がある場所のため具体的な言葉は避けたが、紺乃には自分の意志が伝わるはずだ。
どうして生かしておくことを選択したのかと、彼女は言外に問うていた。
「少しは自分で考えたらどうじゃ」
しかし、現の疑問に理解を示しながらも紺乃はすぐに正解を教えることはしなかった。
それは部下の成長を願ってのことだったが、現からすれば彼ののらりくらりとした態度は迂遠でしかない。頭を使うことはあまり得意な方ではないのだ。
「現はあの坊主と戦って気付いたことはあるか?」
「霊気は高かったと思います。私の『爪』を壊しましたから」
率直な現の感想に、紺乃は頷いて同意を示す。
「そうじゃのぉ。人一人が作れる霊気には上限っちゅうもんがあるもんじゃが、あの坊主の霊気はそれを遥かに超えとった。それがどういうことか解るか?」
「あの人も、私たちと同じってことですか?」
廃ビルで取り込んだ魂の捕食。霊気の上限を引き上げるために現たちが行っていることがそれだ。
魂は霊気を生成するための器であり、それを己の魂へと組み込んで補強することで生成される量の底上げをしている。
回帰するはずの魂を捕え食らうことは自然に反する行為だが、現たちはその点については頓着していなかった。
「坊主の立場からすれば、それはないじゃろう。何せ思想が異なるんじゃからな。中には変わり者はおるかもしれんが、根っ子はそうそうぶれないもんじゃ」
あの少年は退魔師だ。一時的にも現を打ち負かすほどの霊気を放ったのは、魂を食らっているからではない。でなければ、魂を食った現に対してあれほど怒りは見せなかったはずだ。
「引鉄ははっきりしとる。坊主が従えとった霊じゃ」
少女の霊体が少年に合流した時点で彼の霊気は爆発的に上がっていた。紺乃はその現象に一つの仮説を立てている。
「あの霊が坊主の霊気の予備みたいなもんなんじゃろう。そこまではいい。問題は、その上がり幅が異常だったということじゃ」
少女の霊は明らかに自律して動き、現が人質に取った少女を逃がしていた。あれは少年が霊気を操作して動かせる範疇を超えている。
肉体が死に、霊体となったものは意志を持たない。
それは、肉体が死ぬと同時に魂も死ぬからだ。
意志や自我といったものは魂に宿るとされており、抜け殻に意志などあるはずがない。身体を動かしていた残滓がこの世に留まっているに過ぎないのだ。
「故に、導き出される答えは自ずと決まるわけじゃが、結論を出すにはまだ早い。そういうことで、坊主たちには縁を作って逃がしてやったわけじゃ」
「結局、私はよく理解できなかったのですが……」
「はっきりとしたことが分かるまでは結論は言うべきではないっちゅうことじゃ。それに、試しはまだ続いとる。そのためにあのお嬢ちゃんも逃がしたんじゃからな」
「あぁ、やっぱりワザとだったんですね」
「あのなぁ、素性を本気で隠すつもりなら渡しとらんよ。何のために儂らが名乗ったと思っとるんじゃ」
そういえばと現は思い出す。少女に対して自分たちははっきりと名乗っていたのだった。もっとも、紺乃に関しては自分が一方的に紹介しただけだった気がするが。
「その時点で減点一じゃ。次からは儂の名前を勝手に出すなよ」
そのせいで余計な同行者を一人つける羽目になったのは紺乃の誤算だったのだが、今回はそれが少年に対する餌になったので結果的には良かったと言える。
「ともかく、坊主の出方を窺おうやないか。餌は撒いた。果報は寝て待てってな」
「もし追ってこなかったらどうするんです?」
「なんなら賭けるか?」
「……止めておきますよ。紺乃さんに吹っ掛けられた勝負で、勝てた試しがありませんから」
「ノリが悪いのぉ。まぁええわい」
紺乃は意地悪く口端を吊り上げ、低く笑った。