07 「陰雨の夜」
真と静が浅霧家に帰還したのは、その日の夜半になる前のぎりぎりだった。
その時には、黒雲に支配された空からは大粒の雨が降り注ぎ、ときおり雷光が下界を威嚇するまでになっていた。
浅霧家に着いた送りの車から二人が降りると、門の前で傘をさして佇んでいた珊瑚が待ちかねたように早足で近づいて来た。
車が走り去るのを見届けると、彼女は二人に早く家の中に入るよう促した。門を潜れば玄関から漏れ出る温かな白い光が二人を出迎えてくれた。
「まずは身体を温めてください。お話はそれからお伺いします」
ハナコの声は依然として感じ取れず、真の気持ちとしてはそれどころではなかったのだが、強引に背中を押されて仕方なく彼女に従い入浴を済ませた。その後、静と入れ替わり、自室で着替えを終えると、先日と同様に兄の部屋まで向かう。
ばたばたと軒先を打ち付ける雨音が雨戸越しに響き、廊下の足音が乱暴に掻き消されていく。そして、兄の部屋に入った真を待っていたのは、礼と珊瑚、如月だった。
「ご苦労だったな、真。局長殿から大凡のことは連絡を受けている。まあ、座れ」
礼は労いの言葉を掛け、緩りと目の前の座布団を指差した。真は目に焦りの色を灯しながらも、言われた通りそこへ座る。
「兄貴、聞いてるなら話は早い。先生がいるってことは……もう、ハナコのことは知ってるんだろ。だったら――」
「落ち着けや、真。焦っても始まらねえぞ」
身を乗り出さんばかりにまくしたてようとする真を制したのは如月だった。目を眇めて不機嫌そうな顔をした老医師は、やれやれと肩を竦めて息を吐く。
「お前を診に来てやったのは違いねえが、それは後だ。ま、見たところ元気そうだから安心はしたがよ」
「先生、ふざけてるんですか? ハナコが……」
「だから、分かってるって言ってんだろうがよ。ちったあ待てねえのか」
如月に睨まれ、真は膝の上で拳を固くする。礼の隣に座る珊瑚が気遣わしげに彼の顔を窺っていたが、彼女は口を結んだまま言葉を発しはしなかった。
礼は苦笑気味な顔で表情を穏やかにしようと努めているようだが、それが逆に部屋のひりついた空気を目立たせているようである。
「――待たせたな」
と、そこへ無遠慮な声と共に障子戸が引き開けられた。静である。
彼女はずかずかと真の隣まで進み、その場の全員を睥睨するとどかりと腰を据えた。
「それで、どこまで話した?」
「まだ何も。姉さん、ちゃんと風呂には入ったのか?」
「死臭は洗い流したから問題ない」
生乾きの髪を後ろに軽く払いのけながら静は答える。待ったところで姉の気性が落ち着きそうにないことを感じとった礼は、諦めて吐息を零した。
「では、もう遅いので手早く済ませよう。姉さんたちが、拠点で見つけた遺体は無事回収された。身元の確認についても、封魔省が全面的に協力してくれるそうです」
「それは、あの局長が言っていたのか?」
静の目つきが鋭くなったが、礼は受け流して頷いた。
「この件については、経過を待つしかないでしょうね。それから、もう一つ……」
礼はそこで言葉を切り、何やら言い難そうに言葉を切る。
「何だよ、兄貴。早く言ってくれ」
今更もったいぶってどうなるものではないだろうと、真は腹の底からせり上がる焦慮を隠さずに言った。しかし、礼は対照的に顔から感情を伏せ、真と静を順に見据えると、あえてゆっくりと口を開く。
「……拠点の調査を行っていた、滅魔省のチームと連絡がつかなくなったそうだ」
「は……? 何だって……?」
真は目を見張り、思わず訊き返していた。兄はそれに答えるように、続けて淡々と事実を告げる。
「向こうのメンバーは四名。芳月清言、レイナ・グロッケン、フェイ、芳月沙也。連絡がつかなくなっただけでそうなったと決めつける訳ではないが、不穏ではあるな」
何度目かの息を吐き、礼は「こっちからは以上だ」と締め括った。
「心配の種を増やすようで悪いが、事実として覚えておいてくれ。状況が変われば連絡も来るはずだ」
「きな臭いな……。珊瑚、お前の目から見て、その四人が敵の罠に嵌るような奴らに思うか?」
静に問われ、珊瑚が一瞬考えるように目を伏せる。真もその四名とは相対してはいたが、実力のほどを見極めた上での意見を聞くには彼女の方が適任だという判断なのだろう。
「直感で申し上げれば、思えませんね」
「……俺も、そう思う」
短いが実のこもった珊瑚の言葉に、真も同意した。その四人の実力は目の当たりにしたから良く分かる。フェイと沙也については実際に戦ったのだから尚更だった。
それに加え、急増チームと言うわけでもないはず。同じ組織内の者同士、真たちとは異なり布陣としては完璧なものがあったのではないのか。
「ふむ、お前たちが言うのなら間違いはないのだろうな。フェイとかいう少年は私も顔を合わせたが……」
静は納得していないが、やがて思考を放棄するよう「まあいい」首を横に振った。これ以上、この場であれこれと考えても埒が明かないことではある。
「酷なようようだが、時間を無駄にしている暇はない。真、ハナコのことは話したのか?」
即座に話題を切り替えて進めようとする姉に、礼は助かるとばかりに口端を歪めて真へと目を向けた。
「手間を取らせてすまなかったな、真。詳しく聞かせてくれ」
「ああ……」
促された真は逸る気を堪えながら、拠点の調査でこの身に起きた事を話した。凄惨極まるその内容に、改めてその場にいる者全員が表情を顰める結果となった。
珊瑚は肩が震えんばかりに両手を握り締め、青ざめた唇を戦慄かせていた。礼は表情が崩れるのを隠すように額に片手を添えたが、指先から覗く煮え滾る瞳は隠せていない。静は一度見たこととは言え、やり切れない思いを呑み下すようにきつく瞼を閉ざしていた。
「……ハナコの声はまだ聞こえねえのか?」
その中で唯一、冷めた声で如月が訊ねた。
「はい。先生、どう思いますか? ハナコは……」
「少なくとも、お前がきちっとしてる分には、大事はねえと思いたいところだがな……」
言いつつ、如月は大儀そうに膝を上げて真の前まで進み出ると、再び腰を下ろした。衰えを見せない黒い眼光に見据えられ、真はにわかに息を呑む。
「ちと辛いかもしれんが、じっとしてな」
おもむろに両手を上げた如月は、真の心臓部に手を重ねた。衣服越しに感じる彼の無骨な指先から、気の流れが体内に侵入してくる。
いつもの診察とは異なる違和感を真は覚えていた。それが何なのか思い当たらないままに、彼の気はより深く手荒に食い込んでいくようで、不快さへと変わっていく。
口から呻き声が漏れるが、如月は頓着せずに押し黙ったまま行為を続行した。そうして、時間にしては数分の後に、真は解放された。
身体の内側から発せられる違和が痒みとなって彼を襲う。全身を掻き毟りたい衝動に駆られたが、両手を下げた如月は「すぐに治まる」と事もなげに言った。
「先生、これは、何の意味があったんですか……?」
「痛みのありそうな場所を探ってみたんだよ。触診みたいなもんだ。特に反応はなかったがな」
片手で顎を撫でつけ、如月は言う。
「爺、分かるように話せ。異常がなかったということか?」
「うるせえな。今から説明するところだ」
横槍を入れる静を睨み、咳払いをして如月は続けた。
「要するに、わざと痛むように真の中に気を流したんだよ。仮にハナコが狸寝入りでもしてるんだとしたら、痛みに対する反応くらいはあるはずだ。それをまずは潰したってわけだ」
「……ハナコは、気を失っているってことですか?」
「そこまでは分からねえが、可能性は二つある」
白い眉の間に皺を刻みながら、如月は指を二本立てた。
「一つは、さっきお前が言ったように気を失っているって可能性だ。何にショックを受けたのかは、言うまでもねえことだな」
真は首を縦に動かす。しかし、調査からもう半日以上は経過している。その可能性が低いのであろうことは、如月の言葉からも滲み出ていた。
「そしてもう一つ……ハナコが自ら意識を閉じている可能性。解り易く言えば、引きこもっちまったってことだ」
「それは、さっき言っていた狸寝入りとは違うんですか?」
「違うな。狸寝入りは無視だが意識は起きているし、こっちの声が届く。だが、俺が言ってんのは、こっちの手が届かねえ深くまで潜っちまったって話だ」
微妙な意味合いの違いに真は眉を顰めるが、細かいことに拘っている場合ではないとひとまず思考を片隅に追いやる。彼は僅かに身を乗り出し、如月の目を見た。
「治すことは、できるんですか?」
「そうだな。しばらく様子を見るのが正道だろうが……」
「そんな悠長なことを言ってる場合じゃないでしょう! 治してくれる気があるんですか!?」
真は畳に両手を打ち付け、食ってかかる勢いで声を上げた。如月が冷静であればあるほどに、それが冷や水となって彼の中で燃える火を煽る結果になっている。
「……治す気があるかだと?」
しかし、その真の言葉に如月のこめかみがピクリと動いた。
「おい、てめえ。誰にものを言ってやがるんだ」
不意に如月は膝立ちとなり、真の胸倉を締め上げた。低く唸るような、冷たい怒りを孕んだ声である。
「先生!」
珊瑚が泡を食って如月を止めようと腰を浮かす。だが、その前に静が動いていた。
右手で如月の手首を掴み、左手で真の胸を突き飛ばす。二人の間に割って入った静は、素早く二つの動作を同時に行っていた。
「真さん、大丈夫ですか!?」
畳に横倒しになった真に珊瑚が駆け寄り抱き起す。だが、彼は珊瑚の声に答えもせずに立ち上がろうとした。
「おやめください!」
それは流石にいけないと、珊瑚は真の腰に抱き付くようにして彼を止める。真の足が止まり、期せずしてその瞬間、彼の頬に静の平手がひらめいた。
口で言っても分からぬなら、実力行使。一歩踏み外せば横暴でしかないが、この時の真にはこれが一番効果的だった。
「バカ者、私をあまり落胆させるなよ」
短く言い捨て、静は腰を据える。如月も解放された手首を擦りながら、既に元の位置に戻っていた。
「真、お前の気持ちはわかるつもりだ。今は堪えて座ってくれ」
礼が諭し、珊瑚が真の肩に手を添えて座るよう促す。真は黙って目を伏せると、力なくその場に座り込んだ。
「先生、説明の続きをお願いできますか?」
「ああ……。真、俺が今一番想定している最悪はな……ハナコがこのまま引きこもっちまったまま、二度と出てこなくなるってことだ」
真が目を開き、顔を上げる。如月はその視線を跳ね返すように睨みながら言った。
「これは推測だが、その拠点で見た記憶ってのがハナコの中にあった記憶を思い出させたんだろう。それがショックであいつは引きこもった。だとすれば、同じことが起きてもおかしくはねえ」
「同じこと……?」
「あいつが今の心を殺すってことだ」
多くの死を浴びせられ、ハナコの心は死に続けた。それがハナコの記憶喪失の根幹であることは、もう疑いようのないことである。
その記憶が喚起された彼女は、再び心を消そうとしているのかもしれない。それが、如月の最悪と言う見解だったが、最悪である理由はもう一つある。
「そして、そのことはお前の生き死ににも直結する」
言われたことに対し理解が追い付かず、真の表情が固まる。「いいか?」と如月は噛んで含めるように説明を続行した。
「今、ハナコがお前に取り憑ているのは、今のハナコの意志だ。仮にハナコの人格が真っ新になっちまったとして、その時ハナコがお前に憑く理由があると思うか?」
「……! それ、は」
真とハナコの魂を繋いでいるのは、あくまでお互いの意志によるもの。その片方が失われてしまえば、果たしてどうなるか。
「答えは、なしだ。お前と繋がる記憶をハナコが失った時点で、お前たちの魂の繋がりは消えるだろうよ。そうなったら真、お前の魂は緩やかに死に向かう」
ハナコも失い、真の生命線も断たれる。それが如月の想定し、語る最悪の事態ということだ。
今にも爆発してしまいそうな静寂の中、外で響く雨音がにわかに激しくなる。一気に語り終えた如月は一息つき、ゆっくりと足を組み直した。
「で、お前は純粋にハナコの事だけを心配して焦ってんだろうが、それだけじゃねえってことを理解したか?」
「先生、だとしても……悠長にしていられないのは変わりないんでしょう? 俺は、どうすればいいんですか?」
「ま……そうだな。とりあえず、今日のところは休め。そんで、その気があるなら明日、診療所へ来な。珊瑚、とりあえず真を縛ってでも布団に放り込んで来い」
「先生!」
「それが最短だってことを理解しろ。これは長い旅になる。今のお前の体力じゃあ、無理なこった」
この場ではこれ以上取り合う気はないと、如月は顔を背けて真と目を合わそうとはしなかった。それでも真は諦め切れず、じりじりと彼を睨み据えている。
「……真さん、今は如月先生の言葉を信用しましょう。顔色もよろしくありません。お休みになってください」
見兼ねた珊瑚が真にそっと声を掛ける。それでも動こうとしない彼に、業を煮やした静が苛立たしげに横目を向けた。
「いい加減にしろ真。これ以上駄々をこねるのなら、簀巻きにして軒下に吊るすぞ」
あと少しでもごねようものなら、本気でやりかねない。そう彼女の背中は物語っていた。
「それとも、一人で不安なら珊瑚に添い寝でもしてもらうか?」
そして、真面目な顔で挑発めいた台詞を吐かれ、真の頬が熱くなる。彼は震える拳を幾度か開閉し、やがて全力で握り締めると立ち上がり、踵を返した。
「先生……明日、絶対に伺いますからね」
「ああ、準備だけはしておいてやる」
如月の返答を聞いた真は、それ以上何も言わずに部屋から出て行った。
「……珊瑚さん、大丈夫ですよ。ちゃんと休みますから」
大股で廊下をしばらく歩いたところで真は立ち止まり、後ろからついて来る珊瑚を振り返らずに言った。珊瑚は物寂しげに微かに笑むと、「お部屋までです」と言い、彼の数歩後を離れずに付き従った。
「明日は、私も同行します。手伝えることもあると思いますので」
真が自室の前まで来たところで、珊瑚が言う。真は戸に掛けかけた手を止め、僅かに顔を彼女へと向けた。
「珊瑚さんには、先生が何をする気なのか分かってるんですか?」
「ええ……おそらくは、そうですね。旅とは、よく言ったものだと思います」
真はその詳細を訊くことはしなかった。例え訊いたとしても、彼女は如月の意志を尊重して言うことはしないだろう。
「俺は……何があってもあいつを助けますよ」
しかし、だから何だというのか。自分のすることは変わらない。
別に何か返答を期待して言ったわけではない。ただ、言葉にすることで、決意を揺るぎないものにしたかっただけだった。
「それじゃあ、もう休みますね」
そう言って、真は今度こそ部屋へと入ろうとする。
だが、その手を珊瑚が静かに掴み、止めた。
「……お待ちください」
「え?」
振り返ると、こちらを見つめる珊瑚の揺れる瞳とぶつかった。彼女は真剣な眼差しを彼に突き付け、問いを投げる。
「真さん、それは何故ですか?」
「え?」
「何があっても……それは、きっと正しいことなのでしょう。ハナコさんをお救いすることは、あなたの中では揺るぎないこと。でも、それは何故です?」
「何故って……」
その問い掛けは、これまでも形は違えど何度かされた気がするし、考えもしたことだと思う。
だが、真は困惑した。
それは彼にとっても意外なことだった。
命を救われた。大きな借りがある。自分の命は、彼女のものだ。
そんなことは決まりきっていると言葉にしようとするのだが、今まで思っていたはずの言葉は何故か空虚に聞こえた。
まるでそれら全てが、自分の心を覆い隠す虚飾のような。そんなはずもないのに、そう思えてしまうような掴みようのない何かが、胸の中で浮かんでは沈んでいく。
「……差し出がましい質問をしました。お忘れください」
そして、とうとう真が答えられない内に、珊瑚は笑みを作って真の手を離した。
「添い寝は必要ありますか?」
「……要りません。珊瑚さんも遅くまで付き合ってたんですから、早く休んでください」
「承知しました。お休みなさいませ……」
深々とお辞儀をして廊下を引き返す彼女の背が見えなくなった頃には、真の胸を騒がせる何かは正体不明のまま消え去っていた。




