05 「処刑台」
無限とも思えるような責め苦の時間が流れ、気が付けば真は地べたに座り込んでいた。
脳裏に映し出される映像と現実がない交ぜになり、何がどうなったのか判然としない。混沌とした意識を振り払うようにかぶりを振った彼は、強化した視界で周りを見渡そうとした。
広がる暗闇を照らすものはない。
つまり、霊は残らず浄化できたということだろうか。
「終わったぞ」
不意に目を貫く白い光が灯された。マグライトを手にした静が、凛然として立っている。
「お疲れ様でした。何とかなったようですね」
続けてラオの声も広間に響く。彼はスーツの汚れを払い、微笑みながら真に歩み寄ると、片手を差し伸べた。
「立てますか?」
「あ、ああ……」
ラオの手を掴み、真は立ち上がる。立ち眩みを堪えて両足を地につけ、何とか気分を持ち直すことに成功した。
「……全部……倒せたのか?」
「ええ、ご安心を。しかし、憐れではありましたが、恐ろしい光景でしたね。正直なところ、ここまでとは思ってはいませんでした」
「ぅ――」
その台詞に振り払い続けていた光景が視界にちらつき、空になったはずの胃が騒ぎ出す。しかし、嘔吐きそうになるその瞬間に、真は背中に強い衝撃を受けた。
「しっかりしろ。この先もたんぞ」
「ってえ……くそ、もうちょっと優しくできないのかよ……」
静の力強い平手を受け、真の背が伸びる。思い出したように殴り飛ばされた頬も痛みを主張し始めており、彼は背中をさすりながら姉を睨みつけた。
「贅沢を言うな。どうも、お前は珊瑚に甘やかされ過ぎているきらいがあるな」
「珊瑚さんは関係ないだろ」
「どうだかな。それはそうと、ハナコは無事か?」
「あ……」
問われ、真はそのときになってようやく相棒の声がないことに思い至った。自分のことに精一杯で、彼女の事を気遣うのを忘れていた。
「ハナコ……無事か!? おい!」
今更ながら焦る感情に急き立てられて呼び掛けるも、彼の声は闇に反響するだけで返事はなかった。
その後、自分の胸に手を当てて何度も叫ぶが、結果は同じだった。最終的に、見兼ねた静が彼の肩を掴み、無理矢理に振り向かせて行為を中断させた。
「落ち着け。大丈夫なのか?」
「わからない。単に消耗しただけかもしれない……けど、俺の中にはいるのだけはわかる」
以前にも一度、霊気を使い過ぎたハナコが姿を保てなくなることはあった。だが、それだけなら彼もここまで困惑はしていない。
「霊気は使えるんだ。だから、あいつが姿を見せられない理由が……わからない」
記憶があやふやになるほど、乱暴な霊気の使い方をしてしまったことは確かだ。しかし、精神的な疲労はともかく、まだ力そのものには余裕を感じられる。
「……今の戦いが原因、と考えるのが自然でしょうね。気にはなりますが、先へ進みましょう」
ラオは考える素振りを見せるが、早々と決断して言った。彼の視線は、既に広間の先へと向けられている。
「待ってくれ。もう少し……」
「立ち止まっている暇も、引き返している余裕はありませんよ。もちろん、貴方だけを引き返させるわけにもいきません。静様も、よろしいですね?」
諦め切れずに言う真に、振り返ったラオが厳しい言葉を突き付ける。同意を求められた静も、溜息を吐いて手にしたライトをラオに向けて放り投げた。
「構わん。真、今は割り切れ。霊気が使えるということは、ハナコはまだ無事だと考えられる。そうだな?」
「それは……そうかもしれないけどよ……」
「いずれにしても、立ち止まっていては始まらん。調査を早く終わらせれば、その分余裕もできる。今は前に進むべきだ」
「……わかったよ」
真は姉の目を見返して頷いた。そして、頭を切り替えてラオの方へと向き直る。
「それで、ここから先はどうなっているんだ?」
「ええ。それなんですが、あちらをご覧ください」
ラオは静から返されたライトを前方にかざし、道を示した。広間に入って来た方から正面の位置に、二つの道らしき穴が開いている。
「分かれ道か。どちらへ進むのだ?」
「こればかりは運ですね。まあ、どちらも調べることになりますので、まずは左へ向かいましょうか」
反対する理由もないため、真と静は同意し、ラオの先導で再び隊列を組んで進むことにした。
霊を一掃したせいなのか、蠢くような闇の気配を真は感じなくなっていた。その代わりに、煩いくらいの静寂の中、心臓の鼓動が酷く寂しく耳に纏わりついてくる。
それからしばらく進んだ先で、更に道は左右に分かれていた。端から虱潰しにするべく、左へと進路を取ってしばらくした後、それは見えてきた。
岩肌に取り付けられた木製の扉である。粗い造りで扉というより穴を塞ぐために板を立てかけているといった方が近いかもしれない。
鍵の類はなく、ラオが押すと扉は木屑を散らしながらあっさりと口を開けた。
中はさほど広くなく、個室のようだった。土壁の側面に掘られた穴には明かりの消えた燭台が置かれており、光源らしきものは他にはない。
「なんだよ……これは」
そして、部屋の中央に設置されたあるものを見た真が、気味が悪そうに呟いた。
簡素な造りの木で出来た椅子だった。真っ直ぐに伸びた背もたれに平坦な座部。それを支える細い四つの脚。
がらんとした空間の中で、不気味な存在を殊更に主張するそれは、一見して何の変哲もない椅子に見える。しかし、そうでないことはよく見れば分かった。
前脚、肘掛け、そして背もたれの上部――座れば首が当たるくらいのところだろう。艶を放つ黒いベルトがつけられていたのである。
「霊の気配はないな」
室内に目を走らせた静が言い、臆することなく椅子へと歩み寄る。気にはなったがそれは彼女に任せ、真も周囲に何かないか調べるために壁伝いに歩き始めた。
荒れた様子はなく、こう言っては何だが綺麗なものだった。隠し扉の類でもあるのではないかと思い壁を凝視し、触って確かめたりもしてみたが、その手の仕掛けはなさそうである。
「……どうやら、こちらは被検体の部屋のようですね」
一頻り調べ終えたところで、ラオが顎に片手を触れさせながら言った。真は意味ありげな台詞に眉を上げて向き直る。
「被検体って、何の話だよ?」
「そのままの意味ですよ。教団が行なおうとしていたであろう……魂を肉体から引き剥がすというね。ここには目ぼしいものはなさそうです。次へ向かいましょう」
ラオは真たちに背を向けて、部屋の入口へと歩き出した。彼の目は「付いて来ればわかる」と言っており、それ以上のことをここで言う気はないようだった。
来た道を引き返し、二度目の分かれ道のもう一方へと進む。すると、道が途切れた先で同じような木の扉が見えた。
「かつての殲滅作戦でも、同じような部屋があったのですよ」
と、扉へと近づきながらラオは唐突に話し始めた。
「部屋は、必ず一対で用意されていました。中央には椅子が一つ。片方の部屋は小奇麗なものでしたが、もう一方の部屋はと言うと……」
真は知らず唾をのむ。ラオは彼の表情から思考を覗くように目を細めると、浅く頷いた。
「貴方が見た光景は、間違いなくこの拠点で行われたことでしょう。思いませんでしたか? あの椅子は、まるで処刑台のようではないかと」
押し開かれた扉の中の構造は、さっき見た部屋と同じだった。
中央には椅子が一つ。
しかし、視界がその光景を鮮明に捉えるにつれ、決して同じではないことが分かる。
まず、木製の椅子はぼろぼろに朽ち果てていた。至る所に黒く乾いた染みがこびりついており、それは地面へもぶちまけられている。
脚は杭でも打つように地面に埋もれており、動かぬように固定されている。そして、もう目を逸らさすことはできないだろう。各所に付けられている擦り切れかけたベルトの用途は、座る者を拘束することを目的にしているとしか考えられない。
――された。大勢……された。
「……!?」
そのとき、真は何者かの声を聞いた。
――んだ。大勢……んだ。
ざらついた感覚が胸の奥から湧き上がり、どんどんと強まっていく。彼は不快さに顔を顰め、口元を押さえた。
「おい、真!」
弟の異変を察知した静が、彼の背中を支える。気分は最悪であり、悪寒に震える膝を立たせているのがやっとだった。
まるでこの部屋にいること自体を、身体が拒絶しているかのようである。
「静姉には、聞こえていないのか……?」
脂汗を滲ませながら真は訊ねたが、静は首を横に振った。
「いや……何が聞こえている?」
瞳を覗き込まれ、真は言葉を詰まらせた。何と形容してよいのか、自分でも正確なところは分からない。
「声が聞こえるんだよ。さっきの広間で聞こえたのと……似た感じだ……」
ぐずぐずと燃え広がるように、声は身体を内側から蝕んでいる。心臓のあたりが、たまらなく痒かった。
「真さんにだけ聞こえる声ですか。なるほど、やはり……」
真の変調を見て、何か知っている風にラオが呟く。静は顔を上げ、彼を睨んだ。
「お前、何を知っている?」
「私見ですが。おそらく彼が聞いている声とは、ハナコさんに繋がれた魂の声でしょう」
ハナコの名に、真も霞んだ目でラオを見据える。ラオは頷き、黒ずんだ椅子へと足を向けた。
「肉体から魂を取り出す手法については、推論は立てられていたのです。悍ましい方法ですが、ここまでくると疑う余地はなさそうですね」
椅子の隣に立った彼は振り向き、ぐるりと首を巡らした。
飛び散った飛沫、欠片、破片。天井、壁、床、あらゆる箇所にその行為の残骸が残っている。
――殺……殺……殺……た――
それを意識した途端に、真の中の声もまた強まった。
「どういう、ことだ……」
――死……死……死……だ――
「我々が見た光景こそ、ハナコさんが受けたことです。その一部に過ぎないのでしょうがね」
真の目の前が暗くなる。だが、腹に力を込めて彼は耐えた。拳は白くなるほどきつく握られ、掌に食い込んだ爪からは血が滲んだ。
「いや、待てよ。おかしいだろ、それは……」
努めて冷静であろうとしながら、真は言葉を紡いだ。
「あんただって見ただろう。あれは、一人や二人の死じゃないんだぞ」
そもそも記憶を見せて来たのはハナコとは別の霊である。それがどうして、ハナコがその身に受けたことになるというのか。
いや、仮にハナコ自身がそうした責めを受けたのだとしても、一部という言い方は何なのだ。
ふつふつと心が煮え滾る。彼女がそんな目に遭っていたということを考えるだけでも、気持ちはどうにかなりそうだった。
「そうですね。一つ一つの死は、あくまでその方が体験されたことです」
ラオはしかつめらしい表情で言い、「ですが」と言葉を繋げた。
「そこで、接続が意味を持つのです」
「おい……お前、まさか……」
静が何かを悟り、目を見開いた。
「静姉?」
「お気づきになられたようですね。静様、その想像は、おそらく正しい。続けても?」
静は真の背から強張る手を離し、戦慄く唇から深く息を吐いた。それで精神を落ち着けたのか、彼女は鋭い眼光でラオを射抜く。
「やはりお前は、信用ならん相手のようだな。それが分かって、真とハナコをここに連れてこようとしたのか」
「いずれは知るべきことでしょう。教団を相手にしようと言うのなら尚更です」
「……いい加減わかるように言ってくれ……覚悟は、できてる」
真は痛む頭を押さえてラオを睨むように見る。
ラオは少しだけ哀れむように真を見返したが、首肯すると、淡々とした口調で話し始めた。
「魂には意志が宿る。そして、その意志は肉体を動かす。つまり、意志によって魂と肉体は繋がっているという考えがあります」
「……何の話だ?」
「魂を肉体から引き剥がすための方法論です。それはすなわち、意志を殺すことです」
肉体を殺すのではなく、意志を――精神を殺す。
そうすることで、魂と肉体の繋がりは断たれ、魂を引き剥がすことができるという。
「いわゆる、廃人という状態ですか。しかし、潜在意識などというものもあるように、人の意志を完全に殺すなど、そう簡単にできることではありません。逆にその過程で、耐え切れずに命を落とすでしょう」
想像はしたくありませんがね、と付けたし、ラオは続けた。
「ですが、ハナコさんは教団の言い方に倣えば、成功した。真さん。どうすれば、人の意志を殺し切ることが可能だと思われますか?」
「何を……」
――殺された。
喉が渇きを訴えていた。込み上げる何かが絡まり、上手く言葉を発することができない。
「答えはここにあるものが全てです。その言葉が示す通り、殺したのです」
――何度も、何度も殺された。
「ここで殺された方々は、被検体の方の魂と接続されていたのでしょう。そして、繋がった魂を通じて、何度も死を経験させられたのです」
――殺して、殺して、殺し尽した。
「最期に感じる思いも、苦痛も、一つとして同じ死はなかったことでしょう」
「……本当に、そんなことが……」
おぼつかない足取りで真は前に出た。
霞む視界に、空虚な椅子が映る。胸の奥で燻る声が、盛んに訴えている。
襲い来る死に耐え切れずに心を殺した。
新たに生まれた心も、そのまた次の心も、生まれる度に殺し続けた。
何度繰り返したか分からない。
殺した心が死骸になって積み重なり、その上にまた新たな心を生む。
そうして、生み出す心も尽き果てたとき――
「――ぁあ……」
真は椅子の前に立ち尽くし、おもむろに両手を伸ばした。
彼女がここでその責め苦を経験したわけではないのだろう。あくまでここは惨劇が繰り広げられた拠点の一つだ。
だが、どす黒く汚れた椅子に触れれば分かる。霊が見せた記憶は、まさにここで行われたことなのだ。
絶望、地獄、言葉は出るがどれも足りない。己の経験しえないことを、どうして言葉で言い表せることができようか。
視界が霞む。その中に、少女の笑顔が浮かび――
真の中で、何かが切れた。
迸ったのは獣の雄叫びだった。力任せに椅子を地面から引き抜いた真は、そのまま両手を振り上げ地面へと叩き付けた。
椅子は呆気なくばらばらになり、彼の足元に散らばる。それでも飽き足らず、彼は残骸を踏みつけ、まだ形の残っている部分は更に拾い上げて叩き付けた。
自分でも何を言っているのか分からない。感情が吼えるままに声を出し続け、粉々にしていく。
やがて原型をとどめることなく全て木屑と化すと、彼は地面を殴りつけようと腕を振り上げた。
「その辺でやめておけ」
が、静が背後から羽交い締めにし、真を止めた。だが、滅茶苦茶に身体を振り回し、彼女の拘束を無理矢理振り解く。その勢いで倒れた彼は、惨劇の残滓が広がる地面に爪を立て、両目をきつく閉じて拳を打ち付けた。
「ふざけるなッ!!!」
地面が抉れ、土が飛び散る。叫びは狭い室内に幾重にも響いた。
「こんなことが……ッ!! 許されるわけがないだろうッ!!!」
怒りの声は、何もハナコだけのことではなかった。
翼も同じだ。生き残ったのは、彼女も被検体として教団の被害にあったということだ。
おそらく救い出されたのは、彼女の命が尽きる前のことだったのだろう。
「静姉……あんたは知ってたのか?」
荒い呼吸をしながら彼は振り返り、辛うじて感情を抑えつけた目で静を睨む。
彼女は翼の治療の際に父の手伝いをしていた。腐った所業とはよく言ったものだ。
「繋がれた魂の記憶を垣間見ることはあったよ。だが、ここまでの行為がなされているとは知らなかった。これは本当だ」
広間で静が真を気にすることができたのも、彼女の精神力もあるのだろうが、経験が生きたのだろう。ラオに関しては言わずもがなだ。
「お前の気持ちはわかる。だが、今は抑えろ」
静は毅然とした足取りで真へ歩み寄り、膝を折ると彼の腕を持ち上げ、立つように促した。
「私のことなら、後でいくらでも殴って構わん」
冷静な声ではあるが、触れる静の指先は震えていた。彼女もまた、溢れ出るマグマの如き感情を滾らせているのだ。
真の感情は急速に冷えていった。今この場で、本当に感情を爆発させたいのは誰なのか。数年前からこの事を知り、何もかもをぶちまけたいのは、他ならぬ彼女に違いない。
「……できるかよ……そんなこと。悪い……俺だけが吐き出して」
「生意気を言うな、バカ者め」
人差し指で真の額を軽くこつくと、静は珍しく優しげな表情で苦笑した。




