04 「嘆きの呼び声」
コツコツと、靴音が闇に吸い込まれる。
周囲を土壁に覆われた背の低く、幅も狭い石階段を、隊列を組んだ真たちは下りていた。
先導するラオがライトをかざして闇を照らし、真、ハナコ、静の順である。天井からはランタンのようなものが等間隔に吊り下げられているものの、当然の如くに要はなしていなかった。
入口の扉は開けたままにしておいたが階段は長く、振り返ってもとうに見えなくなっている。前後を闇に挟まれながら、押し黙った一行はひたすらに終点を目指した。
そして、ようやく階段が途切れ、道が平坦になる。通路の狭さは変わらず、床が湿気た土に変わった。
「こんなところに……何があるっていうんだ」
耐え兼ねたように零れた真の呟きが、濡れた空気に反響する。しかし、彼の声に答えようとする者はおらず、淡々と歩みは続けられた。
と、不意にラオの背中が停止した。不審に思い真が眉を顰めると、彼はライトを前に突き出し、振り返って先を見るように全員を促した。
「扉……ですね」
ハナコが視界に映ったものをそのままに口にする。格子のついた両開きの赤茶けた鉄扉だった。
明かりに照らされながらも、格子の先に見える闇の濃度は更に強まっているようだった。慎重に扉の前まで近づき、まずラオは周りの検分を始めた。
「どうやら、他に道はないみたいですね」
ここに至るまで脇道はなく、道は一直線に伸びているだけだった。ここから先に進むには、扉を開けるしかない。
だが、扉は中央で左右を鎖で繋がれており、錠前が掛けられていた。明かりを鈍く反射し、無骨に侵入者を拒んでいる。
「面倒だな。ちょっとどいていろ」
そう言って静は前に出ると、無造作に鎖を左手で持ち上げた。金属が擦れる耳障りな音が響く。
何をするつもりなのかと真たちが見守る中、彼女は右手を額のあたりにかざす。そして、一気に指先を振り下ろした。
短い硬質な音が鳴り、あっけなく鎖は断ち切れ地面へと崩れ落ちる。彼女の指先には霊気で強化した髪が一本挟まれており、薄い藍色を放つ鋭利な刃と化していた。
「これでいいな。先を急ぐぞ」
「……ありがとうございます。いやはや、頼もしいですね」
ラオは微笑みながら静と立ち位置を入れ替え、鉄扉を押す。果たして、扉は錆び付いた軋みを上げながら重々しく開いた。
真は色濃くなった闇が蠢く気配を感じる。こちらへ引きずり込まんとする醜悪な唸りが聞こえるような気がし、更には体中を弄られるかのような不快感もあった。
「真さん……」
「大丈夫だ」
ハナコは不安気に顔を曇らせ、真の背にぴたりと寄り添う。彼は励ますように彼女の目を見つめ、自身にも言い聞かせるために深く頷いた。
もはやこの場に何もないとは、誰しも思ってはいなかった。そうして、強化した視覚を凝らして坑道のような道をひた進むと、やがて空気の流れが変わった。
閉塞感のある道から、一気に開けた場所へと出たのである。天井の高い、ドーム状に掘り起こされた広間だった。
しかし、闇に淀んだ空気は変わることはなく、その気配を増している。
多くの何かに見つめられているかのような……ともすれば、ここが闇の巣窟なのではないのかと――
肌に滑り込む薄ら寒さを振り切りながら、真はラオに続いて広間に踏み込んだ。ハナコ、そして最後に静も中へと入り、中央付近まで進む。
そのときだった。
「――皆さん。警戒を!」
唐突にラオが鋭く叫んだ。それとほぼ同時に、真とハナコも周囲の変化に気付く。
闇の中に、ぽつりぽつりと、熾火のような明かりが灯り始めていたのだ。それは真たちと同じ目線、あるいは天井、床へと次々に発生し、瞬く間に彼らを取り囲んでいた。
「亡霊か。これも、教団の犠牲者か……」
静が目を眇めて呟く。熾火の正体は、暗い怨念、悲嘆を宿した亡者の瞳だ。その数は十や二十ではきいていない。
「こ、こんなに……!?」
「慌てるな、ハナコ。……すぐに襲ってくるつもりはないみたいだ」
ハナコの引きつった声を尻目に、真は荷物から黒塗りの木刀を素早く取り出し構える。
その霊たちは、ぼんやりと人の輪郭を保ち、暗闇に妖光を放っている。虚ろな瞳は真たちに向けられてはいるが、正しく認識されているかは怪しい。人の気配に反応して姿を現しただけといった感じだった。
「……真さん、静様。ここは、私に任せてください」
そして、霊たちの反応を見たラオは、何か考えがあるのか静に持っていたライトを手渡した。静は眉を顰め、不審さを隠さず彼を睨む。
「何をするつもりだ?」
「浄化のついでに試しておきたいことがあります。情報収集の一環ですよ」
口を横に引き延ばしたラオは、躊躇うことなく霊の群れへと足を向けた。近づく彼を避けるように霊たちは微かな風きり音に似た呻きを上げて散るのだが、その動きは鈍い。
「どうか大人しくしてもらいたいですね。貴方たちを、解放してあげようというのですよ」
近くの一体に的を絞り、ラオが霊の目の前に立つ。彼は慈悲深い笑みを作り、霊の洞の如き眼窩を覗き込むよう腰を折ると、右手を伸ばした。
彼の手は霊の胴体らしき部分へと沈み、霊を構成していた霊気が腕へと徐々に吸い付いてゆく。
程なくして、彼は胴の奥に捕らわれていた魂を見つけ出す。そして、指先を魂に絡ませると、一切の躊躇なく腕を霊から引き抜いた。
魂を引き抜かれた霊の身体は形状を留めることができなくなり、霧散する。右手に捕まれた魂が微かな光源となり、鈍い輝きをもってラオの頬を照らしていた。
ラオは腕に纏わりついた霊気を振り払い、魂を見つめる。すると、彼の指先に髪と同じ赤銅色の霊気が灯り始めた。
五つの赤い灯が、魂の内部を照らすように染み込んでいく。ラオの顔からは笑みが消え、彼は何かを堪えるように奥歯を噛み締めていた。
「同調か……奴め、霊の記憶を覗き見るつもりだな」
ラオが何をしようとしているのか合点がいき、静が言う。赤い妖光に染まる彼の瞳は、今この場を映してはいない。表層の意識は消失し、握られた魂の中へと埋没しているのだ。
「そんなこと……できるのか?」
「封魔省の捕食のように、魂の細部までを舐めまわすような真似は無理だろうがな……」
その行為自体に良い印象を持っていないのか、静は憮然と真の疑問に答える。確かに、死者の記憶を悪戯に覗き見するような真似は感心できることではない。
しかし、背に腹は代えられない。教団についての手掛りが一つでもあれば、ここの霊たちの無念に報いられることもあるだろう。真は内心複雑な思いでラオの行為を見守った。
やがて、彼の指先の灯は消え失せたかと思うと、握られた魂もまた薄れ、さらさらと崩れ始める。
魂の浄化が成された証だ。
「――駄目ですね。死の間際の記憶が強過ぎて、他のことは読めませんでした」
瞳に意識を戻したラオは深く吐息すると、おもむろに右手の親指を噛んだ。表情は険しく、不快そうに唇は歪められている。
「それで、何を見た?」
「聞かない方が良いと思いますよ。気分を害するだけです」
訊ねる静に、ラオは指を口から離すと笑みを顔に貼り付けて肩を竦めた。
「いいから言え。情報の独占はしないと、言ったばかりだと思うが?」
嘘は吐くなよと、掴みかからんばかりに凄む静にラオは眉を寄せて微笑する。真とハナコも、不審さを滲ませた目で彼を見つめた。
「……弱りましたね。ですが、私に聞くよりも、彼らに直接見せてもらった方が早いでしょう」
「何だと――?」
ラオはつと視線を逸らし、苦笑した。そして、意味ありげな台詞に彼の視線の先を追った静が、目を見開く。
今まで遠巻きにこちらを見ていた霊が、距離を縮めだしていたのだ。彼らは闇を湛える眼窩を煌々とさせ、声にならぬ情念を撒き散らしながら迫っている。
「申し訳ありません。今の浄化で刺激してしまったようですね」
その様子を見て事もなげに言い放ったラオはゆるやかに身構え、迎え撃つ姿勢を取った。
「彼らは救いを求めています。下手を打てば呑まれますよ」
「……っ、真、ハナコ、構えろ。背中は任せる」
「くそ! 結局こうなるのかよ……!」
舌打ちをしつつ、静は即座に切り替えて言った。真も悲鳴じみた声を上げながらも、姉と背中合わせになるよう位置取り、木刀を構え直す。ハナコは既に霊の群れに呑まれぬよう、真の中へと収まっていた。
「静姉、どう切り抜ける!?」
霊の群れの数は尋常ではなく、間を通り抜けるような抜ける隙間は皆無である。
「突っ切りたいところだが、難しいな。しかし、魂は傷つけるなよ。私たちは滅魔ではない。やり方を間違えるな」
「そりゃ、わかってるけどよ……」
「やる前から泣き言をぬかすな。霊との戦いで重要なのは、心を支配されないことだ。こいつらが、私たちを物理的に傷つけることはできない」
「そういうことですね。ですが、決して侮らないでください。この方たちの記憶は……」
静の言葉にラオが同意し、更に注意を重ねようとしたが、彼が言い切る前に第一波が目前まで押し寄せてきていた。
肉体を持たない霊が、生物の肉体を直接傷つけることはない。しかし、混ざり合って力をもった霊はその記憶の風景を他者の心に映し出す。
互いの認識が成立すれば、より深く、投影は行われる。魂に刻まれた記憶の一部が、霊気に乗って侵食するのだ。
心を完全に侵されれば、それは死も同義である。故に、霊と対峙するものは揺るがぬ精神をもって臨まなければならない。己の魂を自身の霊気で守り、決して奪わせない心構えが必要なのだ。
それは真も十二分に理解していることであり、今まで霊を浄化してきた中においても、そのような失態をしたことはない。
この夥しい数の礼を相手にするにしても、基本的にやることは変わりないのだ。心を強く、自分を見失わないようにすれば問題はない。
彼は覚悟を決め、木刀を握る両手に力を込める。掌には汗が滲み、己が緊張していることを自覚した。
そして、霊の群れを切り払うべく、一歩を踏み出し――
刹那、視界が真っ赤に転落した。
「ぁ――――――――――が……」
赤い。
赤い。見えない。
目玉がガラスのように砕けている。
赤い。
赤い。熱い。
喉がひしゃげて声も出ない。
赤い。
赤い。足りない。
傷から命が零れ落ちる。
赤い赤い赤い。
痛い痛い痛い。
取らないで。切り落とさないで。剥がさないで。潰さないで。
お願いだから、ここから出して。
「や……め、ろ」
真っ赤に染まる砕けた視界。悪寒と熱に震える思考に真は自分が立っているのかどうかも分からなかった。
頭の中では原始的な感情が暴れている。
それが危険な信号だった。しかし、理性は既に倒壊しており、堰き止める手段がない。
脳裏には、その映像が克明に映し出され、目の前の光景として幻視する。
「やめろ……!」
手を伸ばしても届かない。それは既に起きた事だ。救いはなく、止めることは叶わない。
幾重にも全身が刃に切り刻まれる。
炎に包まれ息ができない。
穿たれた穴から溢れる血を見ることしかできず止められない。
殴打され続けた肉体は原形をとどめず、無事な骨は一つとして残っていない。
首に縄をかけられ、なんども気絶を繰り返し、最後には自ら――
「やめろおおおおおおおおおッ!!!」
それがどのような方法で行われ、どのような結果をもたらしたのか。
その一端に触れただけでも、心が悲鳴をあげていた。
雄叫びを迸らせた真の霊気が弾け、ほとんど滅茶苦茶に木刀を振り回す。それで目の前の映像は掻き消えるが、次の映像が際限なく映し出されていく。
これは駄目だ。人が見ていいものではない。触れてはいけない。まともな精神では耐えられない。
何度も何度も振り払い、救いを求める霊の群れの中を逃げるように走り回り、彼は壁際に背をつけた。
足元で何かが砕ける音がする。視線を落とせば、土に白い色が混じっていた。
中途半端に埋められた、ここで命を落とした者の成れの果てだ。
命の終焉が、この広間には埋め尽くされている。
真は両膝をつき、嘔吐した。
灼熱を思わせる胃液が逆流し、喉を焼いた。その間にも目の前には終わりを告げる映像が流され続けている。
肉体は戦慄き、まともに動く気がしなかった。それでも口元を拭わぬまま膝を上げようとする彼の横面に、鋭い衝撃が走った。
真の身体は吹っ飛び、意識が真っ白になる。一瞬ではあったが赤い映像は途切れ、その隙に彼は自分の意識を必死に手繰り寄せた。
今度こそ意識を手放さぬよう、真は地面に爪を立てて赤くちらつく視界を上げる。思った通り、彼の頬を殴り飛ばしたのは静だった。
彼女は真の目がまともになったのを見届けると、何も言わず霊の群れへと突貫する。真は引き結ばれた姉の唇に、微かに赤い線が滴っているのを見た。
静もまた、同じ光景を目にしている。それは、この状況が彼女をもってしても余裕がなくなるほどのものということの証左だった。
吐瀉物と血で塗れた口から唾を吐き捨て、立ち上がる。背中を任せると言われた以上、追い付かねばならない。
耳朶を打つ鼓動を頼りに、真は奥歯を噛み砕きながら駆け出した。




