02 「過去と現在」
浅霧翼。
数年前、今は亡き真たちの父である浅霧信が連れ帰って来た孤児の少女。
その素性は父の口からも一切語られることはなく、彼女は浅霧家の養子となった。
父が無色の教団の捜査を行っていたという事実を知った今となっては、翼もまたハナコと同様、教団の被害者であると思うのは自然な流れだった。
故に、如月からその事実を突きつけられても、真はさして動揺はしなかった。「ああ、やはりそうか」と、むしろ腑に落ちるところの方が大きくさえあるくらいだった。
しかし、心に暗い影が落ちなかったわけではない。
「そう、なんですね。翼さんも、わたしと同じ……」
ハナコの呟きが室内にぽつりと落ちる。哀切に響く声は、彼女が翼のために心を痛めていることを雄弁に物語っていた。
「先生……でも、何で今、翼のことを?」
翼が教団の被害者だということは、いずれは知るべきことだったのだろう。しかし、何故このタイミングで話す必要があるのかが、真には疑問だった。
「そりゃあな。その会談とやらで、ハナコが教団の被害者だってことが分かったからだ」
「えっと……それは、どういう……」
如月の返答に真は首を傾げる。「まあ待て」と如月は片手で顎を撫でつけ、少しばかり言葉を選ぶように視線を宙に向けた。
「真、お前は教団の奴と話したんだったな?」
「ええ。と言っても、会話になっていたかどうかも怪しいですけど」
「そのとき、そいつは目的みたいなことは喋ったか?」
言われるがまま、真は会談で言葉を交わした男のことを思い返す。
黒く、感情の抜け落ちた双眸。喉が潰れたような掠れた声で語られたことは決して多くはなかったが、確かに聞いた。
「人がどこまで生きられるか。その限界を試す……確か、そんなことだったと思います」
その理由に納得などいくわけもないし、理解など以ての外だ。口にするだけでも胸が悪くなる思いだったが、真は自身の感情を飲み下し、如月の目を見て告げる。
老医師は彼の言葉を受けて、深く頷いた。
「そういうこったな。そして、信が翼を連れ帰ったとき、翼の魂には多くの魂が繋がれた状態だった。それがどういう意味か、分かるか?」
「はっきり言ったらどうだ、爺」
ぴしりと、苛立たし気な感情を露に横槍が入る。静だった。
「まだるっこしいことは嫌いなんだろうが」
持って回った言い方をする如月に、彼女は業を煮やしていた。しかし、如月はじろりと彼女を見返し、「黙ってろ」と鋭く言葉を投げ返す。
「患者には自覚してもらわないとな。ハナコ、お前にも訊いてるんだぜ?」
「え、ええと……」
不意に矛先を向けられてハナコは目を開いて慌てだす。だが、彼女は意外にも早く気持ちを持ち直し、訥々(とつとつ)と言葉を紡ぎ始めた。
「つまり……翼さんの魂を使って、どれだけの負荷に耐えられるか……試していた……?」
「ま、そんなところだろうな。憶測でしかねえが、当時から退魔省を始めとする三組織の見解も似たようなもんだったと聞いている。問題は、そこにどんな意味があんのかってことなんだろうが……」
如月は顎から手を離し、軽く肩を竦める。
「まあ、そこから先は俺の領分じゃねえ。だが、翼がそうであるように、ハナコ、お前も同じ目に遭っている可能性が高い……というか、十中八九そうだろうよ」
「それは……どういうことですか?」
まだ彼が何を言わんとしているのかが掴めず、ハナコの顔が不安に陰る。そこで如月は、礼へと何かを促すように目を向けた。
礼は重たげな感情を顔に出し、唇を引き結ぶ。彼のその様子に、ハナコは以前、この場で浅霧家の過去について教えてもらったことを思い出す。
そして、観念したように礼は重苦しく口を開いた。
「翼には、父さんに救われる前の記憶がないんだ。ある意味では、ハナコちゃん……君と一緒でね」
一体どこで暮らしていたのか。家族はいるのか。いや、そもそも自分の個を表す名さえも、翼は覚えていなかった。
それは治療が進み、ようやく彼女が意識を取り戻したときに判明したことである。
語られなかったのではなく、そもそも語るべき生い立ちがなかったというべきか。
「記憶喪失……ってことですよね?」
「そういうこった」
ハナコの疑問に、如月が答える。
「俺は専門じゃねえが、記憶喪失は心を守る防衛本能みたいなもんだ。一時的な衝撃であったり、精神的なストレスであったりな。そうやって、思い出そうにも記憶を引き出すことができないってパターンだ」
だが、と彼は続けた。
「翼の場合はちと毛色が違う。思い出せないんじゃなくて、あいつの記憶は根本から消されちまっているのさ」
あえて感情を消そうとしているのか、事実を連ねる如月の語り口は、まるで患者の症状でも語るかのように淡々としたものだった。
「魂には意志が宿る。多くの魂に繋がれた翼は、繋がった魂の意志に自我を食い尽くされようとしていた。あいつの記憶の消失は、そこに原因がある」
肥大した霊に生きた人間の人格が乗っ取られることがあるように、その夥しい数を持って翼に取り憑いた魂は彼女の人格を成す記憶を、意志を侵し――貪った。
「翼自身の魂は残り、意志らしき光はあった。だが、それが本来の翼のものなのかというのは、もはや分からねえ」
「……くだらないことを。翼は翼だ」
苦虫を噛み潰したような顔で、静が怒りを滲ませた言葉を吐き捨てた。
「あれが偽物であるものか。あの子が笑っていられるのなら、今が一番良いに決まっている」
「そこは否定しちゃいねえよ。翼がこの家に来てから築いた人格は、間違いなくお前らが家族である証に違いねえ」
如月は茶化すことなく静に返す。それが効いたのか、静も言葉を詰まらせ、二の句を継げずに顔を背けると、そのまま口を閉ざした。
「でだ……これは避けて通れねえ話になるが……」
そして、彼は一旦言葉を切り、全員の顔を睨むように見る。
「信と結が亡くなった日のことも、翼は覚えちゃいねえ」
「――先生……それは、俺のせいですか?」
真は顔面に力を込め、俯かぬように耐えて訊ねた。翼の魂に傷を刻んだのは、他ならぬ自分であるためだ。
「少なからず影響はしているかもしれねえが、それが全てってわけじゃねえよ。それにだ……」
如月は曖昧に返答し、少し居辛そうに片手をあげて頭を掻きだす。しかし、すぐに表情を正した彼は足を組み直し、深く吐息を零した。
「あの日のことは、俺のせいでもある。とんだヤブ医者を掴ませちまって悪かったな」
「先生、それは違います」
自らを責めるようなことを言う如月に、礼が即座に口を開いた。
「先生は翼の治療に最善を尽くしてくれた。父さんもそう言っていましたよ」
「だが、俺が判断を誤った結果、翼は暴走した。そう言ってくれるのはありがてえが、結果は受け止めなきゃいけねえよ」
自嘲気味に一瞬歪めた口元を引き締め、如月は続きを話し始めた。
「あの日を境に、今度こそ翼の中に巣食っていた魂は全て消えたはずだ。それで、ここからが真とハナコ、お前たちに自身の話になる」
真は厳しい表情で食い入るように如月の言葉を聞くハナコを見る。ここまで聞けば、二人にも如月が何を言いたいのかが、ようやっと見えてきた。
「要するにだ。ハナコ、お前の中にも暴走の引鉄は潜んでいるってことだ。記憶を探るのもいいだろうよ。だが、それをきっかけにお前もまた、得体の知れねえ何かに食われる可能性があるかもしれねえ。それだけは心に留めておけ」
ハナコの中に潜んでいる何者かの意志。そして、その暴走。一度経験していることではあったが、その全容は未だに掴めていない。
会談の際にも一時的に力を借り入れるような形で、彼女の魂の深くから溢れる力を感じた。
それは教団との戦いにおいて武器にもなるが、逆に呑み込まれる危険性もあるものだ。
そして、おそらくその力は翼の暴走と同質のもの。
あの日の翼の力は尋常ではなかった。身体の奥底から際限なく溢れ出る、闇を凝縮したような霊気は真にとっても忘れようもない光景である。
「先生の心配は分かりました。でも、俺はやっぱり行きますよ。行かなくちゃいけないんです」
このまま教団の調査を進めて行けば、おそらくまた力を使う時が遠からず来るであろうことを、真は予感した。
いや、そうではない。向き合わなければいけないのだ。
それは一度暴走抑え、ハナコを取り戻した時から決めていることでもある。
「止めはしねえよ。俺にできるのは忠告だけだ」
さて、と話を切り上げるように呟いた如月は立ち上がり、軽く伸びをした。
「ちと話し過ぎたか。どれ、俺は翼のことを診に行ってくるかね」
「……でしたら、俺も後から行きますよ」
背を向けて部屋から出て行こうとする如月の背に、座したまま礼が言葉を掛ける。障子戸に手をかけた如月は軽く振り返ると、どこか遠い目をしながら渇いた唇を動かした。
「信と結が亡くなってから、もうじき一年か。こう言っちゃあなんだが、決着をつけるには丁度良い頃合いかもしれねえなぁ」
言い残して老医師は退室し、やがて気配も消える。そうして、室内に少しの静寂が流れた。
「……そういうわけだ、真、ハナコちゃん」
そして、沈黙を破ったのは礼だった。
「先生を呼んだのは、二人に自分の状態を正しく再認識してもらいたかったというのもある。もちろん、翼のこともな」
「ああ……分かったよ。いや……分かっていたことだが……改めて思ったよ。俺は教団のことを、絶対に許せそうにない」
しかつめらしい顔の兄に対し、真も胸の中で騒ぎ出す感情をどうにか抑えながら言った。
教団のことは、彼とハナコだけの問題ではない。翼のことも絡む以上、これは浅霧家の全員を含めた問題なのだ。
「今更何を言っているのだか」
その弟の決意を遅いと詰る静の視線が飛んでくる。それは、まったくその通りであるから真にも言い返すことはできなかった。
「癪に触るが、爺の言う通りだ。教団を叩き潰し、いい加減に親父殿と母さんの骨を納めてやらねばなるまいよ」
静は目に見える形で漲らせていた殺気を内に鎮め、ようやく普段通りに口が回るようになってきているようだった。しかし、金の三白眼に滾る気迫はそのままで、彼女は礼を睨み据える。
「それで、調査の日程はいつだ?」
「先方の準備に一日。なので、二日後ですね」
姉の機嫌が戻りつつあるのに安心したのか、礼は言うと緊張を解くように息を吐き出した。
「では、詳しい段取りはまた明日ということで、一旦解散としましょうか」
「……わかった。よし、真。午後も手合わせをするぞ!」
暗い空気を払拭するように静は膝を打って立ち上がり、真を見下ろして言った。
「俄然、溜まってきた。吐き出さねば収まりがつかん」
「俺をストレス発散の道具にするんじゃねえよ……けど、いいぜ。ハナコは大丈夫か?」
「はい! わたしも、今のうちにやれることはやっておきたいです!」
真は姉の言い草に呆れながらも、気持ちは同じだった。ハナコもまた、眉を上げて力一杯に宣言する。
二人は視線を交わし合い、気合十分と挑戦的な笑みを静へと向けた。




