06 「想いの在り処 3」
その日の夜は盛況だった。凛が携帯を入手したと言うことで、連絡先の交換会が行われたためである。
次々と届く着信の嵐に、おっかなびっくりしながらも凛は懸命に返事を打っていた。その目は真剣そのもので、見ている分には微笑ましい光景だった。
そして、夕食も終えて一段落した後、自室の布団で真が寝転がって深く息を吐いたときだった。
「ふっふっふ」
不意に不気味な笑い声が聞こえる。それが誰のものであるのかは、顔を向けずとも真には分かっていた。
「なんだ、ようやく姿を見せる気になったのか」
耳をくすぐる声を遠ざけるように真は寝返りを打ったが、すぐさま回り込む気配がする。
目の前十センチ程度のところに、膝と両手をついたハナコが彼の顔を覗き込んでいた。
そのあまりの近さに、思わず顔を仰け反らせて起き上がる。
「今日はお楽しみでしたね。真さん」
「とりあえずお前は、そのにやけた顔を何とかしろ」
真がじろりとハナコを睨むが、大して効果は得られなかった。
姿こそ見せなかったが、やはり彼女は今日のことを彼の中で色々と聞いていたのだろう。
「まあまあ、そう言わずに。今日の反省も踏まえて、ちょっとお話しましょうよ」
口元をむずむずとさせ、身を乗り出してせがむ様はまるで子供だった。一日中黙っていた反動なのか、何やらテンションがおかしいのではないかと真は半眼になる。
「ったく、何を反省するってんだよ」
いかにも面倒だと、真は胡坐をかいた膝に両手をつき、盛大に息を吐いた。茶化されようものなら一発入れてやろうというくらいの気持ちで、彼はハナコと向かい合う。
しかし、意外にも正座してこちらを見つめるハナコの顔は神妙なものへと変わっていた。
「いえね。わたしが聞きたいのは他でもなく、凛さんのことなのですが」
「凛がどうかしたのか?」
「うーん……非常に差し出がましいことだとは思うのですが」
ハナコは喉の奥でひとつ唸り、大きな黒い瞳で真を見つめる。奥まで見据えてくるようなその視線に、彼は思わず顔を引かせた。
「ずばりお聞きしたいのですが、真さんは凛さんの事をどう思っているのでしょうか?」
が、ハナコの言葉はそれを逃さず、真っ直ぐ射抜くように放たれた。
「凛さんのお気持ちに、まさか気付いていないとは言いませんよね?」
そして、畳みかけるように質問が重ねられる。
「……お前、俺の心でも探ってでもいたのか?」
真は目つきを険しくさせて訊ねた。「いえいえ」と、ハナコは大きく首を横に振る。
「そんな野暮なことはしませんよ。まあ、多少の心の動揺具合は伝わりましたがねぇ」
彼との魂が繋がっている関係上、ハナコは気を向ければ彼の感情の波を受け取ることができる。
あくまでも外から見るよりかは解り易い程度のことではあるが、それを抜きにしても凛に対する彼の態度は、彼女にとって納得のいかない部分が多いようだった。
「同じ乙女として凛さんを応援したいのはやまやまなんですが、真さんがそんなだと報われないじゃないですか」
「余計なお世話だ。お前には関係ない」
「関係ありますよ。わたしと真さんは一心同体、運命共同体ではありませんか」
「都合の良い時だけそんな言葉を持ち出してんじゃねえよ」
しかし、ハナコは一歩も引こうとせず頬を膨らませて真を睨みつけている。その表情は頑なで揺るぎない。
ただの野次馬根性で言っているわけではない。それは目を見れば分かった。
彼女なりに真剣に、真と凛のことを案じて言っているのだ。その純粋さ故に、逃げることは生半なことではない。
というよりも、憑かれている以上、彼には逃げようがない。
「……凛には余計なことは言うなよ」
何度目かの溜息を吐き、真はハナコから視線を逸らした。
窓のカーテンの隙間から覗く夜は深い。蛍光灯の白い灯りが、ちりちりと彼の後頭部を照らしていた。
「このままじゃ、お前は勝手に勘違いしっぱなしになるから一個だけ教えとく」
そして、一瞬だけハナコの顔へと目線を戻して真は言った。
「もう答えたんだよ」
「……はい?」
意味を理解しかねたハナコが怪訝に首を傾げる。真は苛立ったように右手で頭を掻きながら、ぶっきらぼうに更に言った。
「……中学のときだよ。あいつの気持ちには、もう俺は答えた。それだけだ」
これで終わりだと言い捨てると、真はハナコに背を向ける形で横になった。ハナコは唖然とした顔で彼の背中を数秒見つめていたが、やがて弾けるように動き出す。
「え? え? ちょ、どういうことですか? く、詳しく! 詳しく教えてください!」
子犬のようにキンキンと吠えるハナコの声に真は両耳を塞ぎ、きつく目を閉じた。これ以上は何があっても言うわけにはいかない。それを態度で示そうとしたときだった。
枕元でブルブルと震えだす携帯の姿が視界に映る。素早く手に取ると、着信を知らせるマークがメールのアイコンの上に記されていた。
『今日はありがとう! お風呂に入ったら、もう寝るね。お休みなさい』
凛からだった。簡単な文面ではあったが、誰から教わったのかさっそく絵文字で彩られている。気付けばハナコは騒ぐのをやめて、真の背中越しに携帯を覗き込んでいた。
真は片肘を立てて頭を支えながら、どう返信をするべきか思案を始める。その様子を、ハナコは渋い顔をしながらも大人しく見つめていた。
◆
珊瑚はその日の疲れを癒すべく、一人浴室で寛いでいるところだった。
こういうときに広々と足が伸ばせる空間はありがたい。木の柔らかい肌触りに癒されながら湯船に背をもたせかけ、凝った肩へと伸ばした細腕に湯が滑る。
小さく開かれた口からは、弛緩した白い吐息が零れ落ちた。
とはいえ、まだまだやることは山のように残っているから油断はできない。
いい加減に大掃除もするべきだし、おせち料理の下ごしらえの段取りも進めなければいけない。
掃除については凛が日頃からこまめに行ってくれていたから、手の届かないような場所をメインに行うべきか。
障子の張替えや道場周り、蔵の整理なども徹底すべきかもしれない。となれば、礼や静の全面的な協力を仰ぐ必要がある。
料理も打ち合わせをしなければいけないだろう。妹の料理の腕の上達ぶりは目覚ましいものがあるため、自分もうかうかとはしていられないところだった。
――と、今後の動きをひとしきり考えたところで、珊瑚はふと思考を止めた。脱衣所の方から何者かの気配を感じたためである。
「まさか……」
無意識に漏れた呟きが蒸気に紛れて反響する。既視感に珊瑚は僅かに腰を浮かして身構えようとしたが、次に聞こえた声は予想を裏切るものだった。
「姉さん、お邪魔するよ」
「凛?」
気配の正体は凛だった。珊瑚は浮かしかけた腰を下ろして安堵したが、すぐに別の違和感に襲われる。
しかし、彼女が何か言う前にドアは押し開かれた。
「えっへへへ」
湯気の向こうから照れ笑いを浮かべた妹が近づいて来る。以前の乱入者とは違い、慎ましくも前はタオルで隠していることに姉として少し安心した。
だが、今はそんな場合ではない。ただ一緒に入りたいというだけの理由で、凛はやって来たというわけではないだろう。
「いきなりどうしたの? 先に休んでなさいと言ったでしょ」
珊瑚は胸元を隠すように手を添えて訊ねる。火傷の跡は治すと決断して以降、薄くなってきてはいるがまだ完全には治ってはいなかった。
そこに凛は気付いた様子はなく、小首を傾げて微笑んだ。
「うーん、裸の付き合いってやつ? こっちの方が話しやすいかなぁと思って」
「そんなの、後でもいいでしょう……」
二人は共同で一部屋を使用している。わざわざ風呂場に来なくとも、話す機会ならばいくらでもあるのだった。
しかし、凛は姉の抗弁を朗らかに笑って無視した。彼女はタオルを湯船の縁において桶を取ると、かけ湯をしてから湯に足をつけた。
「失礼しまーす」
浅く波を立てて隣に移動してくる妹に笑顔を向けられ、珊瑚は内心息を吐く。まったく、いつから風呂場は井戸端会議の場になったというのだろうか。
そんな思いを彼女が抱いていると、凛は指を組んで腕をぐっと前に伸ばしながら、とうとう話を切り出した。
「姉さん。真くん、変わったよね」
凛の声は弾んでいた。彼女はそう口にしてから、思い直したように笑みを零して言い直す。
「あ、違うか。戻ったっていうべきかな?」
「……そうね。そうだと思うわ」
妹が言いたいところを理解して、珊瑚は頷いた。
「本当はね。再会するとき、すごくドキドキしてたんだよ。色々とテンションが変になって、空回っちゃった感じになっちゃったけどさ」
自らの失敗を笑いながら凛は話していた。その心の奥に隠しているものを、珊瑚はその時になって気が付いた。
あの時は半年ぶりのことで久々に顔を合わせることへの不安もあっただろう。しかし、それ以上に彼がまだ当時のままの感情を引き摺っていたらどうしようかという恐れもあったに違いない。
「大丈夫よ。もう、真さんは立ち直るためのきっかけを掴まれたのだから」
まだ心の傷は完全に癒えてはいないだろうが、真は生きようとしてくれている。
それが誰のためなのかは、言うまでもないことだ。彼がその気もちをどの程度まで自覚しているのかは推し量るしかないが、少なくとも悪い方向ではない。
姉の言葉に、凛も首を縦に振った。
「うん、そうだね。ハナコさんにも、姉さんにも感謝だよ。わたしは、待ってるだけしかできなかったから」
そう言って浮かべられる凛の笑みに薄い影が差したような気がして、珊瑚の胸に微かな痛みが走る。
「そんなことはないわ」
気付けば自然と言葉は強まり、珊瑚は妹の頭に右手を伸ばして自らの肩に引き寄せていた。
「あなたは本当に、よくやってくれている」
「そうかな? だって、わたしは戦えるわけじゃないし……家事なんて誰にでもできることだもん」
姉の肩に抱かれるようにもたれながら、凛は髪を撫でられるままに呟く。弱気の虫を見せる妹に、珊瑚は思わず苦笑した。
「凛も心配性ね。あなたには、あなたの武器があるでしょう」
「わたしの?」
振り向いた凛と珊瑚の視線が交わる。「そんなものがあるのか?」と問いかける妹の瞳に、姉は自信ありげに頷いた。
「笑顔よ。あなたの明るさには、みんな救われているわ。静さんに、私と真さん……皆が留守の間に浅霧家を支えてくれていたのは、間違いなくあなたよ」
家族がばらばらになりそうなとき、最後までこの家に残って懸命に守ろうとしてくれていたのは誰か。
こうして再びこの家に帰って来ることができたのは、その支えがあったからに他ならない。当たり前のように戻れる場所があるということは、それだけで十分に大変なことなのだ。
「だから、自信を持ちなさい。あなたはありのままで、十分に魅力的なんだから」
「うん……ありがとう」
珊瑚の言葉を受け、凛は口元を綻ばせた。全てを納得したと言うわけではないのだろうが、笑みに垣間見た影は消えていた。
「でもなぁ……」
「まだ、何かある……の?」
そう問い掛けようとした珊瑚は湯に浸かっているはずなのに、急に腹の底から冷たいものが背筋を這い上がってくる感じがした。
呟きを零す凛の笑みからは確かに影は消えていた。
消えていたのだが、代わりに別の感情が滲み出ていたのである。
「姉さん、正直に答えて欲しいんだけど……いいかな?」
びくりと珊瑚の肩が震えた。今まで見せたことのないような凛の笑顔に、冷や汗が首筋を伝う。
その瞳の奥からちらちらと燃えるのは、仄かな怒りの灯であった。それも、姉に向けてといよりも、同性に向けるそれに近い。
あぁ――と、珊瑚は心の中で嘆きの吐息を零す。
最初から妹は、この話をするためにやって来たに違いない。
「凛……?」
「答えて欲しいんだけど、いいよね?」
「何、かしら?」
そしてもう、間合いは完全に詰められて逃れようもない体勢になっている。
祈るような気持で訊ねる姉の目から一ミリたりとも視線を逸らさず、凛は押さえ付けるかのようにもたれかかる圧を強めた。
「姉さん、凪浜市で真くんとどこまでいったの?」




