05 「想いの在り処 2」
最終的に真が選んだのは、ピンク色のガラケーだった。
今の主流を行くならスマートフォンなのだろうが、そこは凛の希望もあってそうなった。
メールと電話が出来ればそれで充分、というのが彼女の譲れない一線らしい。
手続きもあるので受け取りは帰りにすることにし、昼食をとった後は戦場へと赴くことになった。
すなわち、本来の用向きの買い物である。
ここに置いては、真に出来ることはほとんどなかった。彼がやったことといえば、珊瑚の陣頭指揮に従い買い物カゴを両手に彼女に食らいついていただけである。
凛は姉の指示に従い、すばしっこい栗鼠のようにあちこちから獲得した戦利品を次々にカゴへと放り込んでいた。時折「あれも足りないんじゃない?」としっかりサポートする形での提案も忘れていない。
実に息の合った連携に、真が口を挿む隙などありはしなかった。食材以外にも雑貨類などの買い足しもあり、息をつく間もなく買い物は慣行された。
まさに気が付けば終わっていた、という感じである。
「お疲れ様でした。これで終わりですね」
その珊瑚の言葉に、フロアの端にある大きな柱にもたれかかかりながら真は胸を撫で下ろした。両腕に感じる戦果の重みが、そこそこな達成感を彼にもたらしている。
「うん。買い漏らしはないかな。真くん、よく頑張ったね。お疲れ様」
レシートを睨みように確認していた凛が、その作業を終えて頬を緩ませる。ぐっ親指を立てる彼女にサインを返せない代わりに、真は笑みを向けた。
「それじゃあ、後は携帯を受け取って帰るだけだな」
「うん。あ、そうだ!」
少しはにかんだ様子を見せた凛は、何か思いついたように手を打った。
「頑張った真くんにはご褒美をあげなくちゃね。姉さんも、ちょっと待ってて!」
「ちょっと、凛?」
「大丈夫、すぐに戻るから!」
横顔を輝かせて言うや、凛は踵を返す。颯爽と駆けだす彼女の背を、真と珊瑚は止める間もなかった。
「……仕方ない、待ちましょうか?」
「すいません。慌ただしい子で」
もう見えなくなった幼馴染の姿を目で追いながら、真は軽く息を吐く。
そして、珊瑚との間に訪れた沈黙に何やら心恥ずかしい思いを抱き、一つ咳払いをした。
「そう言えば……この間の会談の件は、特に騒ぎにはなっていないみたいですね」
こんなときに出す話題としては適切ではないのかもしれないが、家で改めて珊瑚と二人で話す機会もそうなかったため、真は切り出した。
あのとき戦った多くの人形、空に広がった結界。
ニュースにすらなっていないのは、おそらくあの赤毛の局長の手腕なのだろうが、噂の気配すらもないのは不思議ではあった。
「……そのことですが」
不意に珊瑚の目が真剣になる。彼女は声を潜めると、真のもたれる隣へと移動して距離を詰めた。
「珊瑚さん?」
「これは調査で分かったことらしいのですが、あの会館の周辺にいた方々のほとんどが、あの時何らかの理由で昏倒していたらしいのです」
「……それって、まさか」
「あれほどの規模の霊気の行使となれば、流石に一般の方の目にもとまり易くはなるでしょう。目撃させないために教団が手を回していたのかもしれません」
「もしかして、兄貴から聞いたんですか?」
「……はい。ラオ様から経過報告ということでお聞きになられたようです。すいません、お伝えするのが遅れてしまって」
「いや、珊瑚さんが謝ることじゃないですよ。家では話し難いことですしね」
真は珊瑚の横顔にふと視線を移す。長い睫毛が物憂げに伏せられ、ブラウンの瞳は前を向いているのだが何処か別の場所を見つめているようにも見えた。
「珊瑚さん、そう言えばついでで、もう一つ訊いてもいいですか?」
彼の問い掛けに、珊瑚の顔がゆっくりと動く。真は目を合わせて、そのままの勢いで言った。
「珊瑚さん。本気で退魔省に所属するつもりはないんですか?」
珊瑚の目が僅かに見開かれる。が、その変化は瞬きほどのことだった。彼女の顔には水面に揺れるが如く穏やかな微笑みが再び浮かび、優しい声音で回答が紡がれる。
「もちろんです。言ったはずですよ。私の忠誠と献身は、浅霧家にあると」
「それはそうなんですが……」
珊瑚の微笑みは強固な障壁でもあるかのように、真の言葉を寄せ付けない強度を持っていた。
そう言われて嬉しくないわけではないのだが、なおもその壁に挑もうと彼は言い募る。
「結局、滅魔省とのこともうやむやになってるじゃないですか。今は休戦みたいな状態なんでしょうけど……」
そこまで言って真は言葉を濁した。珊瑚のことを信用していないわけではないし、もしものときは全力で彼女を守る気持ちはある。
しかし、彼女の後ろ盾は本当に自分たち家族だけなのだ。組織の力による圧力というものは、前回の会談で嫌という程に思い知らされている。
それを前に、一家族の力は小さい。礼や静もいるが、それも単純な力で測れるものではないのだろう。
もしもそれらの力が牙を剥き、家族に襲いかかろうと言うのなら――その時、彼女はどう行動するだろうか。
「真さんのお気持ちは、嬉しく思います」
気が付けば、珊瑚の顔が目と鼻の先にあった。
「え、ちょ……」
彼女はにこりと微笑むと、真の肩を掴んでそっと柱の影に引き寄せた。
両手の買い物袋を取り落さないように気を取られ、足元を危うくした彼は、そのまま珊瑚の胸に受け止められる。
途端、真の耳から雑踏のざわめきは消え失せた。
ほのかに鼻腔をくすぐる柑橘系の香水の匂い、項に軽く振れる細い指先、頬に感じる柔らかな鼓動――考えるべきことが雪崩のように押し寄せてくる。
「私の不安定な立場に、お心を痛めて頂き恐縮です。ですが、ご安心ください。誓いましたよ。私が全霊を賭してお仕えするのは、あなただけです」
真の脳裏に鮮明な映像が蘇る。それがまた、彼の心を波立たせた。
「それでも真さんを不安にさせるようでしたら、その度に何ででも言いましょう。私は、何処へも行きません」
「わ、わかりました。わかりましたから、そろそろ離してもらえると……」
両手が塞がっているため無理に抵抗することもできず、真はほとほと困り果てた声で言った。
彼女の真摯な気持ちは十二分に伝わったが、それが故に申し訳ない思いが勝ってしまう。
「失礼致しました」
最後にくすりと微笑に耳を撫でられ、真は解放された。彼女の晴れやかな笑みには、もはや白旗を上げるしかない威力があった。
今更彼女を疑うことなど愚かなことだ。この身を恥じる他にないだろう。
「それに……そうですね。仮に私が退魔省に属することを望んだとしても、問題はあります」
「え?」
そこで珊瑚は何か思ったのか、悪戯めいた微笑を浮かべながら言い出した。話は終わったと思っていた真も、唐突な彼女の言葉に疑問の目を向ける。
「別の組織の者を、おいそれと退魔省も受け入れるかどうかは分からないということです。もとが思想の違いで別たれた組織ですから」
「はあ……それは、確かに。しがらみ、みたいなものですか」
考えてみればもっともな話だ。ラオは簡単に入ればいいなどと言っていたが、組織というのは実際に入った後の問題の方が大きいに違いない。
「ええ。その分身内には寛容であるのでしょうが、そうなると、禊として私は名前を変えなくてはいけなくなるかと」
「え、名前?」
言っている意味が理解できず、真は珊瑚の顔を見る。彼女は口元に手を添え、可笑しそうに控え目な笑い声を漏らした。
「そうです。正確には苗字、でしょうか。本当の意味で、浅霧家の身内となる……そういうことです」
「は、はあ!?」
そこまで言われて真もようやく理解に及び、素っ頓狂な声を上げてしまっていた。
「真さんにそこまでのお気持ちがあるのでしたら、私も否応はありません。私も覚悟を決めざるを得ないところでしょうね」
「いや、そんな……何を言ってるんですか……冗談がきついですよ」
珊瑚のにじり寄る視線に、真はしどろもどろになってようやくそう返すのが精一杯だった。
正直に言えば、そのような覚悟を問われても、学生の身の上で男としての地位も何もない自分にはそれ以前に問題だ。
しかし、珊瑚はちょこんと首を傾げて追い討ちをかけるように言った。
「そうでしょうか? 何も私は、真さんととは申し上げておりませんよ」
「ん……え?」
「私が問いたいのは、真さんが私を姉として受け入れてくれるか、という覚悟だったのですが」
珊瑚の言葉の意味を再び理解するのに、真はぽかんと口を開けたまま数秒の時間を要した。
そして、自分の顔に全身の血液が逆流したのではないかと思う程の熱を感じる。
彼は自分のアホさ加減に柱に頭を打ち付け、床を転げ回りたい衝動にかられた。出来ることならこの場から逃げ出したかったが、奥歯を噛んでそれを堪える。
それはそうだ。退魔省に正式に所属しているのは兄の方である。年齢や立場的に考えてもそちらの方が正道というものだろう。
いや、しかし、珊瑚の台詞は明らかにそういう風に思考を誘導していたとしか思えない。
せめてもの抗議に真は珊瑚を睨むのだったが、彼女の微笑の前には太刀打ちできるはずもなかった。
「まあ、冗談はさておくとしまして」
一連のやり取りをその一言で片づけてしまうのもいかがなものかと真は思ったが、これ以上からかわれるのは勘弁願いたかったため言葉を呑む。
「私に関しては、いましばらくは滅魔省も下手な動きは見せないでしょう。問題の棚上げにもなるでしょうが、いずれ落としどころを見つけられればと思います」
「……ちゃんと、協力はさせてくださいよ」
「はい。もちろんです」
珊瑚は気負いのない笑みを見せる。そして、ふと優しげに目を細めて彼を見つめた。
「ですから、真さんもどうか……ご自身の将来を見つめてくださいね」
「……それは」
「凛も、それを望んでいます」
「――――」
真が何か返す前に、珊瑚は柱の影からもと居た場所に移動した。彼女の肩越しに、こちらへ戻って来る凛の姿が小さく見える。
もう彼が珊瑚にその真意を問い質す暇は残されていなかった。しかし、あえて確認する必要もないだろう。
真から直接、凛にハナコとの関係を言ったことはない。
彼は自分の魂の状態まで凛が聞き及んでいないだろうと、勝手にそう思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
いつから、誰から、と考えるのは無意味なことだ。
……将来、か。
以前にハナコにも似たようなことを言われたことを思い出す。いったい、どこまで未来を見据えて自分は生きようとしているのか。
「お待たせ!」
満面の笑みを咲かせた少女は、手提げの小さな白い箱を持っていた。
「何を買って来たんだ?」
「クレープだよ。姉さん、まだ時間あるよね? ちょっと休憩しようよ」
「それはいいけど……凛、お金は?」
「いいのいいの。真くんには荷物持ちを頑張ったで賞で、姉さんには携帯のお礼。わたしの奢りだから、気にしないで」
太陽のような笑顔で答えた凛が、姉の手を取り真に呼びかける。道を照らすようなその表情に、真は両腕に気合を入れて後に続いた。
そして――
「真くんは両手が塞がってるからね。仕方ないから食べさせてあげよう」
何故か真は凛にクレープを差し出されていた。
いわゆる、「あーん」というやつである。
しかし、凛の所作は自然体からは程遠く、表情も硬い。クレープを握る指先はぷるぷると震えていた。
「お前、自分でやっといて照れるなよ」
どんな状況だと内心突っ込みながら真は呆れた目を向けるが、きっと睨み返されてしまった。
「う、うるさいなあ。食べさせてあげないぞ」
「いや……そもそも自分で食べれるんだが……」
真の両手は別に塞がってなどいなかった。休憩なのだから当然である。
フードコート内の一角に陣取って荷物を降ろしたまでは良かったのだが、突如として凛が真の分のクレープを奪い取り、このような行為を強行しようとしているのだった。
珊瑚は最初こそ目を丸くしていたものの、今は止めるでもなく成り行きを見守りっている。それがまた、真にとっては辛い状況だった。
目の前の幼馴染からは、なんというか意地にも近いものを感じる。これは、こちらが折れなければ事態は収拾せず、折れなくとも更に悲惨な状況になることは予想に難くない。
「はぁ、わかったわかった」
観念した真は顔を動かし、なるべく心を無にして差し出されたクレープを一口齧った。ふわりと生クリームとチョコが絡み合った甘ったるさに口の中が満たされ、鼻に抜ける。
「……おいしい?」
「ああ。もう満足したか?」
そろそろ自分の手で食べたいと思い真は手を伸ばしたのだが、凛はまだ何かしようというのか彼が齧ったクレープを見つめており、渡そうとはしなかった。
「……はい、姉さん」
「おい」
そして、あろうことか彼女はクレープを姉へと手渡したのだった。無理矢理握らされた珊瑚は少し困った顔で微笑むのだが、そのような誤魔化しは通用しなかった。
「次は姉さんの番だよ。平等にしないとね」
いったいこの行為が凛の中でどのような釣り合いを取っているのか、真にとっては甚だ不明だった。「困りましたね」と目で訴えてくる珊瑚に、彼はどう返したものか途方に暮れる。
「役得でしょ。感謝しなさい」
「……仕方ないですね。真さん、どうぞ」
そう言いつつ何故かまんざらでもなさそうに珊瑚はクレープを差し出した。とりあえず早く終わらせようと真は急ぎ齧りつく。すると、その勢いで盛り上がったクリームが口端についてしまった。
「あ……」
と、彼が自分で拭う間もなく珊瑚の人差し指が伸びてクリームを掬い取る。まさかと思ったらその通りで、彼女はそのまま躊躇うことなく指先を口に含んだ。
「……少々行儀が悪かったですね。申し訳ありません」
そして、指を舐め終えた珊瑚が、ほんのりと頬を染めて微笑む。
しかし、他の二人の顔色はその上を行っていた。
「――姉さん! それは平等じゃないッ!」
テーブルに両手を強かに打ちつけた凛が前のめりで立ち上がり、大声を上げる。
真は心の中で盛大な溜息を吐く。身体は休まっても、心は休まりそうにないなと、半ば休憩を諦めた。




