27 「救難信号」
屍の世界。
シオンが創り上げた、彼女の魂の具現。
鮮血で呪われた、血で血を洗う煉獄。
屍で築き上げた小高い丘の頂上にて、世界の主は玉座に着く。
「――さて」
屍の丘の麓にて、泥の化物へと声が落ちた。遠く離れているにも関わらず、その声は深く聞く者の魂へ滲み、突き刺さる。
「どうした? 妾を倒したければ、近付いてみよ」
彼女の問いは静かであり、悪辣であった。
ここから逃れる道は二つに一つ。
唯一絶対の君主である彼女の赦しを乞うか、あるいは打倒するかである。
しかし、もはや勝算など残されていないことを、男は理解していた。
この世界は、一分の隙もなく霊気によって構成されたものだ。閉ざされた時点で、とうに逃げ場は失われている。
「あ……あぁ……が……」
いや、それすら遅い。
男の意識は、もはや崩壊寸前だった。
ペリペリと、軽く乾いた音が意識の中で響いている。
それは、彼と言う自我を構成する何か大切なもの、一つ一つが剥離し、欠け落ちる音だった。
だが、それも意識の外である。
まだ辛うじて意識が原型を保っていられるのは、泥を構成する彼に繋がれた魂たちが、身代わりになっているからに他ならない。
世界は五感を尽くして、魂たちを責めたてた。
視界に映る原色の光景に目は潰され、
耳に届く屍たちの喝采に耳を潰され、
恐怖に喚き、息を吸えば焼け付く熱気に舌が潰され、
むせ返る腐敗と、血の匂いに鼻が潰され、
満たされる鮮血と、足元に広がる屍たちが、世界へと引き摺り込もうと手を伸ばす。
「だが……ここで、負けても……俺は、死なない……!」
その思いだけを命綱にして、男の意識は泥を動かした。
「俺の……魂は、本体は……別にあるのだ……この魂には、意識を繋いでいる……だけに、過ぎない……」
泥が屍の丘を這いずる度に、屍は喜びの声を上げて泥を毟り、魂を奪い取っていく。
「この魂は……人形たちと同じ……使い捨て、だ……たとえ、食われたとしても……俺は、死なない……!」
泥が啜られ、魂は次々に貪られ、世界を染める血の一部と化していた。
摩耗する意識の中、男の意志を宿した魂は、僅かに残された泥に浮かびながら、玉座を目指す。
「利用して、やる……形、せ、いの極……ち……見たことは……、む、だ、には……しな、い……」
そして、丘の半ばで、ついに男の意識は擦り切れた。乾ききった泥から、最後の魂が屍の山に転がり落ちる。
その魂に、我先にと屍たちは歓喜の声を上げ、我が身が砕けることも構わず群がった。
「――やめよ」
が、玉座より響く主の一言により、屍たちの動きが瞬時に止まる。自分たちは何か彼女の不興を買ったのかと、丘全体が震えだしていた。
「そやつは直接、妾が食らってやる。献上せよ」
その命に屍が昏い声を上げ、男の魂が宙へ浮かび上がる。口々に叫ばれる声は、等しく羨望であり、嫉妬の感情を含んでいた。
輝きを失いつつある魂が、玉座に座るシオンの目の前へとたどり着く。
「丘を越えられなかったか。しかし、この世界を前に、無謀であれ妾に挑もうとした気概、褒めてやらんでもない」
頬杖を入れ替えて、空いた右腕を彼女は魂へと伸ばした。血色に染められた手套の指先が、その輪郭を撫で上げる。
すると、彼女の霊気が伝播したかのように、一瞬にして魂は鮮血に燃え上がった。
「あ……あぁ……ああああああああああああああ――ッ!!!」
あとは消えるだけだったはずの男の意識が、絶叫を迸らせる。そうして、シオンは男の魂を掌に乗せ、凄惨な笑みを浮かべて見下ろした。
「まだまだ元気ではないか。大いに喚け、嘆き、叫ぶがよい。そして、妾に愛されることを悦べ」
意識を盛大にのた打ち回らせ、魂が大きく揺れる。掌をくすぐるその感触を楽しむ笑みが、彼女の口から漏らされた。
「お……が……ぁ……や、る、な……ら、やれ……だ、が、次は……こう、は……」
「かっ……、次、のう」
笑みにやや呆れた感じの苦笑が混ざる。掌を目の高さにまで持ち上げ、見開かれた両眼が蠢く魂を威圧した。
「勘違いするなよ。お主に次など、ない」
静かに言い含めるように、彼女は男の魂へと言葉を刷り込む。
「その魂に、お主は自分の意識を繋げている。それは逆を辿れば、お主の本体へと行き着くことが容易ということじゃ。溶けた意識では、まともな考えに至らなかったか?」
「な……に……!?」
鮮血に焼かれる魂の中で、男の意識が不意に覚醒する。男が理解したということを、シオンもまた感じ取っていた。
「気付くのが遅いわ、間抜けめ。この世界は妾の魂そのもの。それはすなわち、屍世界にいることは、妾と繋がっておるようなものなのじゃぞ」
男は筆舌に尽くしがたい責め苦の中で、必死で自分の本体へと意識を向けようとした。
しかし、接続されたはずの本体の気配を感じることは、できなかった。
何もない。男の意識を宿した魂は今、完全に孤立している。
それがどういうことかを理解し、男の意識が発狂する前に、それを掻き消す哄笑が浴びせられた。
「かっ! つまり、お主の意識だけが、この魂に取り残されているということじゃよ。接続が切れたお主の意識に、帰る場所などない。本体の霊気は、とっくに妾が食い尽くした」
シオンの浅く曲げた指先が、魂に触れる。煉獄を生み出す霊気に覆われたその指先に男が感じたものは、死体の如き冷たさだった。
男の魂を口元へと運び、微笑みながらシオンは囁く。
「お主の肉体は、とうに死んでおる。ならば、この魂に宿っているお主の意識とは一体何なのじゃろうな? 意識さえあれば、それはお主自信と言えるのか? それとも、ただの意識の残渣なのか……興味は尽きぬな」
「や……め……ろ……」
「安心するがよい。お主は死なぬ。妾の中で、共に生き続けるのじゃからな」
その言葉を最期に、男の意識は暗闇に閉ざされた。
「焼き加減も上々の出来じゃな」
男の魂を味わいながら、シオンが満足げに吐息を零す。新たな屍が世界に咲き乱れ、世界は喜びに打ち震えていた。
◆
終焉を迎えた男の魂のその様を視界にこそ収めなかったが、真たちは肌で感じていた。
この世界に捕らわれるということは、いわば彼女の魂そのものに放り込まれたと言ってもいい。
屍に足を着けた時点で、あらゆる痛痒が共有される。
それは、世界と一体となったものたちの快楽もまた同じだ。
ここから出してくれと嘆く一方で、新たな命を貪る雄叫びを上げる。
まともな精神であるなら、相反する感情。
もはやどれが自分の本当の感情なのかもあやふやで、時間の経過とともに意識は端から砕かれ、溶けて、蒸発する。
「狂ってる……」
真は顔面を蒼白にしながら、一連の出来事をただ見ていた。
左手には、珊瑚の右手が繋がれている。お互いに痛いほどに握り合った手は熱く汗ばみ、震えていた。
彼女の助けと、清言の助言の甲斐あってか、彼は何とか意識を保つことはできている。
しかし、それが限度でもあった。
自我を保つだけで精一杯で、そこから先に動くことはできない。ただ立ち尽くすだけでは、いずれ食われるだけだ。そんなささやかな抵抗に、いかほどの意味があるだろう。
喉の奥から込み上げる感情を、いますぐにでもぶちまけてしまいたかった。
叫喚し、流れる汗に肌を焦がし、零れる涙に肉を溶かし、苦痛を感じるこの肉体を破壊してしまいたい。
暴力的なまでの原始的な衝動に、理性は決壊寸前にまで追い込まれている。
「……真さん、失礼します」
「え……」
そんな中にあって、不意に横から声がした。そして、彼は振り向こうとした途端に珊瑚に引き寄せられ、全力で抱きすくめられていた。
彼女の行為は、決して真を慮った末の行動、というわけではなかった。そうした意図がないわけではなかったが、自我が崩壊寸前であるのは彼女もまた同じだったのだ。
手を繋いだ程度では足りない。誰かをより近く、全身で感じていなければ、とても耐え切れそうになかったのである。
限界が訪れたのは、彼女の方が早かったということだ。
か細く、荒い、今にも消えてしまいそうな彼女の息遣いが、真の耳元で響く。
「珊瑚さん……!」
彼女の魂が悲鳴を上げ、ひび割れそうなほどに軋みを上げている。真はそれを察知し、彼もまた全力で彼女を抱き返した。
真は胸の奥から、声こそ聞こえないが光を感じる。ハナコもまた、自分が壊れぬように意志を保ちながら彼を支えようとしてくれていた。
まるで彼らの意志を試し、弄ぶように、世界は嗤いながら熱を上げていく。
そうして、互いの身体が壊れるのではないかというくらいに抱き締め合い、幾らかの時間が過ぎたときだった。
ぐしゃりと、屍を踏みつける音が響き渡る。
その音を合図とするように、真たちを苛んでいた世界の意志らしきものが、ぶつりと途絶えた。
「な、ん……だ」
真が霞んだ視界を向けると、その先には巨躯の背中が見える。今まで主の命令なくして動かなかった従者が、主の君臨する丘へと歩を進めていたのだ。
主を正面に据えた彼は、丘の麓にて傅く。
「ふむ、そろそろ頃合いかのう」
そして、従者を見下ろす主の声が落とされた瞬間に、世界は終息した。
屍は萎むように消え去り、満たされていた霊気の霧は晴れていく。残り滓一つ落とさず世界は正常な在り方を取り戻し、血色の玉座より降りたシオンの元へと歩み寄った従者は、再び彼女を抱き上げた。
「かっ……、お主ら、よくぞ耐えたな。褒めてやろう」
あれだけの暴威を振りまいてなお、シオンは消耗を感じさせぬ鋭い笑みを浮かべている。
大会議場には戦いが繰り広げられた跡だけが残り、敗者の姿は何処にもなかった。
全て、塵も欠片も残さず、食い尽くされたのである。
真は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。珊瑚も両手を床につけ、肩で息をしている。とてもではないが、二人とも立っていられる状態ではなかった。
「悪く思うなよ、マコト。もとはと言えば、お主らが不甲斐ないのがいかんのじゃぞ? まあ、しかし、耐え切ったという点では合格じゃな」
変わらない上からの振る舞いに、真はもはや返す言葉さえも見つけられず、こちらを見下ろすシオンを仰ぐだけだった。
「総長殿……それで、奴らの情報は――」
「皆様、終わりましたか」
そして、清言がシオンに何か訊ねようと口を開いたとき、会議場の入口から呼び掛ける声がする。
「……狐か。今頃のこのこ現れおって。お主の出番はもうないぞ」
声に目を向けたシオンが揶揄するように口角を吊り上げ、現れたラオを迎えた。
「そう言わないでください。私は私で、結界を解くのに尽力していたのですから」
眉を寄せて肩を竦めたラオは、ざっと会議場を見渡したてから真たちへと歩み寄り、慇懃に頭を下げた。
「皆様、お疲れ様でした。ひとまず、この場は乗り切ることができたようです」
「局長殿。今、結界と言ったが、解けたのか?」
「ええ、というよりも、シオン様の形成と同時に撤退したと言うべきですかね」
シオンの方を一瞥し、ラオは清言の質問に答える。ラオの何とも言えない表情を、シオンは鼻で一笑した。
「かっ……、妾に恐れをなしたか。所詮は捨て駒であったか」
「そのようですね。後始末は骨が折れそうですが、そこはお任せください」
彼のその申し出には、誰も異を唱えはしなかった。会議場の人形たちはシオンの手によって消え去ったが、敷地内にはまだ多くの人形の残骸がある。
「……生き残った人たちは、どうなるんだ?」
立ち上がれぬまま、真はラオに訊ねた。彼の目を見返して、ラオは頷く。
「大丈夫です。基本的には衰弱しているだけですし、操られていたときの記憶は曖昧になっているでしょうから。うまくやりますよ」
心配はありません、と微笑むラオではあったが、真はとても安心などできなかった。そんな真の気持ちを宥めるように、ようやく息の乱れを整えた珊瑚が立ち上がり、彼の肩へと手を添える。
「真さん……私たちには、力の及ぶ領分があります。今回、私たちは最善を尽くしました。あとは、お任せしましょう」
「……はい。わかってます」
珊瑚と一度目を合わせ、真は大きく息を吐いて膝を立たせる。そして、周りを見渡して床に転がった黒塗りの木刀を発見すると、拾い上げて手挟んだ。
「それで、俺たちは結局、この後どうすればいいんだ? あの男からは何も聞き出せなかった。倒しはしたが、いいようにやられただけなんじゃないのかよ」
教団を誘い出したはいいが、結果は蜥蜴の尻尾切りのようなものである。男は口を割らず、命を落としただけ。これでは、こちらが得たものは何もない。
そう思って憤りをぶつける真だったが、「いや」と、彼に反論する声が上がった。
「そうとも限らんぞ、少年」
清言だった。彼は先ほど聞き損じたことを訊ねるため、再度シオンへと目を向け、口を開く。
「遺憾ではあるが、総長殿はあの術者の意志を宿した魂を食らった。つまり、あの男の記憶の一部を呑み込んだということ。そうですね?」
「かっ、流石に気付いてはおったか。しかし、慌てるでない。人一人の記憶は膨大……それを精査するには、いかに妾とて時間がかかる」
「具体的には?」
「そうさな……有益な情報があるか判断するにしても、一週間もあれば結論は出るであろう」
「では、その件はシオン様に一任すると言うことにしましょう。その間に、こちらも事後処理はしておきます。他の方々は、休養をとっていてください。また後日、改めてこちらから連絡を差し上げます」
「……信用していいんだな?」
真の睨むような視線に、ラオは頷く。
「協力しろと、貴方が我々に言ったのですよ、浅霧真さん。そして、貴方は力を見せ、見事生き残りました。ならば、今度は我々が応じる番でしょう」
「安心せよ、マコト。ここで情報を総取りするほど、妾の器は小さくは――む?」
言いかけていた口をシオンが不意に閉ざした。何事かと、彼女に怪訝な視線が集まる。
そして、ややあって彼女はいつものように口角を上げ、笑みを作った。
「なるほど……これは、面白いことになってきたかもしれぬな」
「早速、何かお気づきになられたのですか?」
「うむ、滅魔の小僧。お主の身内が、どうやらよからぬ輩に狙われているようじゃぞ。覚えはあるか?」
「……、そうか」
シオンに言われ、清言は僅かに考える素振りをみせたが、すぐにそれがどういうことなのか理解したようだった。
「なんじゃ、もう少し焦らんのか?」
「私がこの国に来るという時点で、一応保険はかけていたのでね。しかし、それは封魔省も同じなのでは?」
「ほう?」
清言に言い返され、シオンが大仰に眉を上げる。そんな彼女のわざとらしい態度に息を吐きつつ、彼は続けた。
「私はてっきり、会談の交渉材料として、教団とは別に私の身内をかどわかそうと企む輩がいるのではとも、思っていたのですが」
「心外じゃな。会談のことが漏れていることを考えれば、十分に考えられる手ではある。教団の手が伸びぬうちに、誰かが『保護』してやらねばならんと、気を利かせようとしただけなのじゃぞ」
「否定はなされないのですね」
「したところで意味はないからのう」
シオンは睨まれながらも、涼しい顔で笑うだけだった。
「……おい、あんたたち。さっきから何を話してるんだ……」
そこへ、不穏な空気を感じた真が口を挟んだ。二人の会話が何を意味しているのか、彼にはまだ解らなかった。
しかし、どう考えても禄でもない話に違いないという確信だけがあり、焦燥に胸をかき鳴らされていたのである。
「清言様の身内とは、姪御の、芳月柄支様のことですね?」
そして、ラオが真の不安を言い当てるように、その名を口にした。
「彼女は真さんにとっても大事な御友人。そして、清言様にとっても弱点になり得る。大方そのような理由で、裏で手回しをされていたのでしょう」
「な……!? ふざけるなよ! 先輩は関係ないだろ! なんで……」
「かっ、マコトよ。その言い草は、少々楽観視が過ぎるというものじゃぞ」
真が声を荒げる。しかし、彼の言葉をシオンは一笑のもとに切り捨てた。
「考えてもみよ。相手は、このように無差別に人形どもを使役するような組織じゃぞ。お主を言いなりにするためならば、それこそ何をするか分かったものではなかろう。何も知らせず、ただ遠ざければ良いなどと、それだけで見逃されるとでも思ったか?」
見通しが甘いのじゃよと、彼女は噛んで含めるように言葉を紡ぐ。
「故に、親切にも妾が保護してやろうと思ったのじゃが、どうやら既に監視はつけられておったようじゃ」
「……封魔省と接触した時点で、柄支の存在を隠し通すことは不可能だと思っていた。そこへ、今回の会談だ。何かないと思う方がおかしいというものだ」
「じゃあ、今、先輩はどうしているっていうんだ……」
「さあのう。事が終われば連絡はくるじゃろうが、案ずるな。少なくとも、教団の手に渡るような結果にならんよ」
笑うシオンを、真はただ睨み上げることしかできなかった。今から凪浜市にとって返すことなどできるはずもなく、せめて身内である清言の手によって保護されることを祈ることしかできない。
「いえ、まだ分かりませんよ。浅霧真さん」
が、項垂れる真を励ますように、ラオの声がかかる。
「少なくとも貴方のお兄様は、この事態を予見しておられたようですからね」
「兄貴が……?」
「ええ。さて、誰が先手を取ることになるのでしょうね? こればかりは、計算では行きそうにありません」
振り返る真に、彼は何処か楽しげな笑みを浮かべながら頷いた。




