21 「死線 3」
会館の敷地を支配しようとする黒い霊気の中へ潜入したハナコは、最初に広大な海を思い浮かべた。
海で泳いだ記憶と呼べるほど、はっきりとした思い出があるわけではない。これは、感覚としての記憶である。
視界は黒に遮られている。知覚できる、あらゆるものは黒い靄がかかり、はっきりとしなかった。
ヘドロと化したように粘性を帯びた霊気は重く、身体を動かそうすると抵抗を感じる。
濁りきった海の中で、ハナコだけが唯一清浄な光を放っている。その輝きを汚そうと、黒い気配ががじわじわと彼女の周囲に染みを作ろうとしていた。
「邪魔を、しないでください……!」
ともかく、動かなければ話にならない。ハナコは意志を声にして、強く霊気を放つイメージをした。
すると、彼女の青白い霊体は一層輝きを増し、海の中に灯りをともした。その強い光に霊気の汚染は弱くなり、身体に感じる抵抗も和らいだ。
「って、あれ?」
ハナコは自分でやっておきながら、光り輝く自分の身体に驚いていた。まるで、誰かに包まれ、守られているみたいに、胸の奥が熱い。
そこで、彼女はこれが珊瑚の言っていたサポートなのだと気付いた。真を通じて間接的に繋がっている珊瑚の魂から、彼女は力を得ているのだ。
「……ようし!」
ハナコは己を鼓舞し、術者の居所を探るべく首を巡らす。自身が灯となったことで、周囲の状況は一変して見えるようになっていた。
今いる場所が、真たちと別れた建物の五階に相当するなら、彼女はそこに浮かんでいる状態だった。足元を突き抜けた遥か下には、無数の黒い光が混ざり合い、黒い空間の中で、更なる深い黒を重ねている。
それらが庭園でひしめき合う人形の発する霊気の塊で、この空間における底辺にあたるのだろう。
庭園に至るまでの間にも、同様に多くの黒い光の塊が浮かんでいた。一定の箇所をぐるぐると移動したり、その場で群れを成して揺れているだけのものもある。
そして、全ての黒い光の間に、ハナコは霊気の流れを見ていた。
黒い光を細胞とするなら、その流れは血液だった。血は全ての細胞の間を循環し、この空間自体が一つの巨大な生物であるかのようにも見える。
ハナコの放つ光に慣れたのか、黒い気配が再び彼女へと忍び寄ろうとしていた。この中が海ではなく化物の体内であると言うのなら、彼女は間違いなく唯一の異物である。
異物は追い出されるのが必然だ。
ハナコは意を決し、霊気の流れを泳ぐように腕をかきわけ、動き出した。この流れの先に必ず術者がいるはずだと信じる他、今はない。
黒い気配から逃れ、いつくかの光の塊とすれ違ううちに、彼女は光には二つの種類があることに気付いた。
一つは、等分されたかのように同じ光を発しているもの。少なくともハナコには、その光の質や量といったものは全て同一に感じていた。
もう一つが、黒い光に覆い被さられ、呑み込まれようとしているものだ。
おそらく、前者が死体に霊気を植え付けて操っているもので、後者が生きた人間に取り憑こうとしているものなのだろう。
ハナコは何もできない自分を歯痒く思いながらも、自身が放つ光を強くするイメージを持ちながら進み続けた。黒い気配に捕まってしまえば、自分もああなってしまうに違いない。
そんな中、突如として不意に消えてなくなっていく光もあった。ハナコからは見えないが、それは真と珊瑚、それから他の者たちが戦った結果だった。
光が消えると、そこに繋がっていた霊気の流れは別の光を求めて伸びてゆき、再接続される。そうして、途切れのない流れを進むうち、ハナコはふと違和感を覚えた。
この空間に浮かぶ光の塊は、まだ多くある。これらが全て人形で、操っているのだとすれば、とても術者一人で霊気を賄えるとは思えない。
真たちも同じ結論に至っていたはずだ。だから、最初からハナコは、複数の術者を探る気でいた。
しかし、今辿っている霊気からは同一の感覚しか得られないのだ。
人形を表す黒い光も質は全て同じ。まだ見つけられていないだけのことかもしれないが、複数人というのは思い違いだったのだろうか。
と、その気付きを真たちに相談をしようかと、ハナコが考えかけたときだった。
「――きゃぁッ!!?」
空間を縦横に振り回す凄まじい衝撃が、ハナコを襲った。いきなりの事態に彼女はバランスを失い、身体を半回転させ空中でひっくり返っていた。
「こ、今度はなんですか!?」
頭を振りつつ体勢を元に戻し、ハナコは衝撃の発生源を探す。すると、爆心地はすぐに見つかった。
眼下に見える庭園であろう場所に密集していた光が、その一部を削り取られていたのだ。そして驚くべきことに、ハナコの目の錯覚でなければ、空間が内側に凹んでいるように見えた。
これも戦いの結果なのだろうが、だとすればどんな攻撃を加えればこんな有様になるのか、ハナコは不思議でならなかった。少なくとも、真や珊瑚の仕業ではないことを信じたい。
多くの光が爆散した結果、密集していた光に繋がれていた無数の霊気の帯が、火花を散らすように蠢きながら次の接続先を求めていた。
が、再構築する間もなく、立て続けに更なる衝撃が空間を揺るがす。破壊音はもはや音として認識できず、衝撃として耳を乱暴に通り抜けて頭蓋を揺らすばかりだ。
ハナコは耳を両手で必死に塞ぎながら、いつ終わるともしれない嵐が過ぎ去るのを待った。振動が起こるたびに庭園の光の塊は蹴散らされ、既に半壊している。
術者をまだ見つけることはできていないが、ハナコは一時撤退を考えた。
珊瑚からのサポートとしての守りはあるが、この場に留まり続けるとそれも壊れてしまう恐れがある。そうなると、本当にどうなってしまうか分からない。
しかし、ハナコが本格的にそこまで考えたところで、振動は止まった。恐る恐る耳から手を離すと、不意に後頭部に突き刺さるような視線を感じる。
次は何だと振り仰いだハナコは、ぎょっと目を見開いた。遥か頭上、暗黒の空間の空に、赤黒く染まる巨大な血だまりのようなものが浮かんでいる。
その中央の色は一層深いもので、充血した巨大な眼球が浮かんでいるみたいだった。
いつの間にこんなものが、と思う間もなく、その血だまりからは霊気の波が溢れ出て、雨となった。
強酸性の、血の雨だ。
今しがたもたらされた破壊の限りをなかったことにでもするかのように、雨は激しさを増して降り注ぎ、接続先を失った霊気を溶かしていた。
そして、溶かされた霊気は血煙となり、宙に浮かぶ血だまりの中へと立ち昇っていく。
この雨もまた、霊気で作り出されたものだ。ハナコは空間を支配していた黒い霊気とは異なる力に身構えた。
突如として目に見える形で現れたということは、破壊を見過ごせなくなった何者かが、介入してきているということだ。
見えるということは、何らかの形で接続を行っているはず。ならば、辿ることは可能だ。
ハナコは頭上に浮かぶ血だまりを挑むように見る。
もとより覚悟を決めて来ている。不安があるとすれば、この雨を辿ることで真と珊瑚にかかる負担がどれだけ重くなるかということだけだ。
「真さん、珊瑚さん。わたしに、力を貸して下さい……!」
しかし、それも二人ならば受けてくれるはずだ。彼女は祈るように言葉を紡ぎ、降り注ぐ雨の中に飛び込もうとした。
――ちょっと、待ちなさい。
「え?」
が、ハナコの行為を止める声が、どこからともなく響いていた。
否、どこから、ではない。その声は、彼女の胸の――魂の底から、寝起きを思わせる気だるげな調子で続けられた。
――世話が焼けるわね……死にたいとは言ったけれど、自殺に付き合わされるのはごめんだわ。
「ま、まさか……あなたは」
ハナコはぞくりと背筋を震わせる。そんな彼女の反応を面白がる、小さな笑い声が反響した。
――あなたは、大人しくしていなさい。仕方ないから、手を貸してあげるわ。
◆
庭園で暴威を振るう封魔省の二人を尻目に、真たちは一階へとおりていた。活躍と言っても良いのか胸に引っかかるものはあるが、この分だと庭園は任せても問題はないと判断した結果である。
ここまで来ると、脛を覆う程に黒い霊気は深くなっており、足元を見ることさえも困難になっていた。出た場所が開けたロビーであったため、見通しが良いのが幸いという他ない。
「ところで少年、君に憑いていた少女はどうした?」
清言が真に訊ねる。彼はレイナと周囲を警戒しつつ、次に何処に向かうべきか算段を立てているようだった。
「ハナコのことか?」
「そうだ。姿を見せていないようだが?」
「今は別行動中だ。もしかしたら、術者の居場所がわかるかもしれない」
「……ほう?」
真の言うことに興味を示したのか、清言が片眉をぴくりと上げて顔を向ける。真は少し悩んだが、今ハナコが行なおうとしていることを話すことにした。
一度は別れる形を取ったが、今は敵対しているわけではない。情報は共有しておいた方がいい。
そう思って真は話したのだが、聞き終えた清言の反応は芳しいものではなかった。
「なるほど……。自殺行為だな、それは」
「何?」
「既に気付いているとは思うが、この場を覆っている霊気は、他者を汚染する。いくら接続によるサポートがあるとはいえ、単独行動は避けた方が良いに決まっている。まして、戦闘に長けてはいないのであれば尚更だな」
それは、いちいち言われるまでもないことだ。真とて、ハナコに危険な目に遭って欲しいなどこれっぽっちも思ってはいない。
「ハナコもリスクは承知している。生きている人もいるんだぞ。急がないと、取り返しのつかないことになるだろうが」
「それは、あの少女の命よりも優先するべきことなのか?」
苦し紛れのように返す真の反論に対し、清言は半ば呆れた態度を取りながらも、目には真剣な色を宿し、問いを返した。
「君たちの事情を私は知らないし、必要以上に口を出すつもりはないがね。ただ、一つ提言させてもらうなら、早々に引き返させた方がいい。彼女は私たちにとっても貴重な存在だ。下手な行動をとった結果、死なれてはもともこもない」
それこそ、取り返しのつかない事態だろうと、清言は皮肉を交えることを忘れずに言った。
「あんたは……!」
「問題はありません。ハナコさんが無事であることは、繋がりからもわかります」
清言の言い方に食って掛かろうとする真だったが、彼の前に珊瑚が割って入る。彼女は清言の目を静かに見据えて、感情を乗せずに言った。
「ならばいいのだがな。教団はあわよくば私や総長殿をこの場で亡き者にでもしようとしているのかもしれんが、君たちのことも狙っているはずだ。それを忘れるな」
最後に清言はそれだけ忠告し、真たちに背を向けた。
「術者を探り当てられる保証もない以上、待つわけにもいかないな。私たちは、ここで別れ――」
『――真さん!』
そう彼が言い切る前に、真の名を呼ぶ少女の声が響いた。
「ハナコか!?」
頭上、足元、あるいは自身の内からか、響くその声に、真は驚きつつも答えた。
『はい。よかった……わたしの声、聞こえていますよね?』
「ああ、今どこにいる?」
安堵の息を漏らすハナコの声に、真もどうやら彼女が無事であることを察して訊ねる。珊瑚に、清言もレイナも向き直り、二人の会話を見守っていた。
『はい。術者か確証はないのですが、それらしい霊気を見つけました。案内します』
「案内?」
『ええ、ちょっと待ってくださいね……』
いったい何をするつもりなのかと真は疑問に思ったが、その答えはしばらくの沈黙の後、示された。
不意に、彼の足元に青白い霊気が湧く。それは黒い霊気を振り払い、床を這いながらある地点を目指して道しるべとなる線を描き始めた。
「お前、何時の間にこんなことを覚えたんだ……?」
『それは……今は置いておいてください。とにかく、急いでください! すぐにまた、覆われて見えなくなってしまいます!』
ハナコの言う通り、一度振り払われた黒い霊気は、元の場所に収まろうと蠢き始めている。真は珊瑚と目を合わせて頷き合い、ハナコが示してくれた霊気の道を辿るために駆け出した。
「……あんたたちも来るのかよ?」
「この先が本丸だというのなら、行かないわけにはいくまい。判断は、見てからでも遅くはない」
ついてくる清言たちを振り返って訊ねる真だったが、彼は悪びれもせずに返す。「勝手にしやがれ」と、真は釈然としない気持ちを吐き捨てながら、前を向いて足を速めた。




