20 「死線 2」
「そろそろ、私たちも動く頃合いでしょうか」
真、清言の各チームが去った気配を感じ取ったラオが、テラスにて従者の腕の中から庭園を見下ろすシオンに声をかける。
庭園の光景は相変わらずの地獄絵図だった。いや、黒く染まりきっているそれは、もはや絵図とも言えない代物に成り果てている。
建物の外壁には、蔦が這うように黒い霊気が縦横無尽に駆け巡っていた。テラスにも、まるで節足動物が這い回るかの如く、その影を伸ばしている。
まともな精神を持っているのであれば、見ているだけで疲弊する。それこそ、立っていることも許されないくらいに、削り取られるものがあった。
しかし、面白い見世物でも見るかのように、シオンは喉を鳴らして笑っていた。
「見ろ、狐。この有様、これからが本番のようじゃぞ」
「は?」
言うと、シオンは顎を上げて空を仰いだ。本来であれば昼下がりの晴天が広がるはずのそこは、薄赤い靄がかかり始めていた。
空が低い。
会館の敷地を覆う形で、空中の一点から赤黒い霊気の光が幾条も伸び、場を閉じようとしている。その様は、まるで鳥籠だった。
「結界……ですか」
「念入りなことじゃな。もしかすると……妾たちが尻尾を巻いて逃げるとでも思ったのかのう?」
辺りはまるで夕焼けの陽が、赤黒く染まったかのような異質な色に変じていた。その変化に呼応するように、庭園の影の一端が湧く。
人形たちが波紋を描き、建物の壁へとぶつかっていた。そして、波は徐々に高くなり、既に一階を覆うまでになろうとしている。
「おい、奴ら、ここまで登って来る気でおるようじゃぞ」
霊気に汚染された人形たちは、積み重なりながら壁を這い上がろうとしていた。だが、当然重なるごとに重みは増し、下にいる人形が耐え切れずに崩れ落ちる。
しかし、それでも構わずに、ただそれだけを目的とし、人形たちは我先にと群がり続ける。
ぐちゃぐちゃと肉が崩れ、ごりごりと骨が砕ける音が重なり、亡者の鳴き声の代わりとなって、シオンたちの耳に届く。
流石のラオも、醜悪に過ぎる光景に口の両端を下げざるを得なかった。そして、シオンもまた表情を興醒めしたものへと変えていた。
「あぁ、かなわぬな。見るに堪えぬわ。エクスよ――」
勝手に自滅していく人形たちを憐れみ、見下しながら、シオンはこの光景を目の当たりにしても眉一つ動かぬ従者に対し、初めて命令らしい言葉を口にした。
「跳べ」
「シオン様!?」
ラオが叫んだ時には、もう遅かった。シオンを抱えた従者は、主の命令そのままに、テラスから庭園に向けてその巨躯を跳躍させていた。
「死者であろうと無駄に魂を散らす行為は感心せぬなぁッ! どうせなら、お主らのその魂、妾に捧げよッ!」
落下の風圧に紫水晶の髪を豪奢に靡かせながら、シオンが高らかに宣告する。そして、五階と言う高さなど感じさせないほど軽やかに、エクスは庭園へと膝を曲げて着地した。
それは、主に衝撃を与えぬための配慮であり、彼はすぐに膝を立たせて屹立する。
「妾は力は使わぬ。エクス、お主が妾に、こやつらの魂を捧げるのじゃ」
周囲は黒い霊気に満たされた泉と化している。自ら死地に飛び込みながらのその命令は、ともすれば死刑宣告ともとられかねないものであった。
しかし、従者は主の言葉に、首を縦にも横にも振ることはない。
彼にとって彼女の言葉は絶対であり、従うべき法である。皮肉にも、彼の性質はある意味この場を囲む人形たちと似ているのかもしれない。
鍔広の帽子をはみ出す前髪の隙間から、洞のような瞳が僅かに覗く。その色は、深い闇を潜ませる紅蓮だった。
◆
真と珊瑚は、階段を経て五階から四階へとおりていた。
エレベーターは一応試してみたが、使えなかった。建物内の電気が消えているというわけではなく、入口が黒い霊気で閉ざされていたためである。
もとより虱潰しを図ろうとしたのだから使う気もなかったが、逃す気はないと、見えざる意志を表示されているようで、真は顔をしかめていた。
そして、二人が四階に辿り着いたとき、廊下には戦闘が行われた痕跡だけが残されていた。
胸を袈裟切りにされ床に伏したもの、壁に盛大に吹き飛ばされた結果、縫い付けられるようになったものなど、状態は様々ではあったが、幾体にもの人形たちが屍を晒していた。
影が晴らした人形は、遠慮なく死臭を振りまいていた。息をするたびに真の喉が苛立ち、胸も悪くなる。
「この階の部屋は二つ……ですね」
珊瑚が周囲を警戒しつつ道を見る。階段をおりた先は十字路になっており、道は正面と左右に分かれていた。
右には三十メートルほど壁が続く大部屋のようで、入口となる扉が二つある。
左はそれよりも小さいが、二十メートルくらいはあるだろう。こちらは、正面に入口が一つだった。
そして、右の大部屋からの中からは、何かがぶつかり合う激しい音が響いている。その音は、階下から聞こえているようだった。
「……左に行きましょう。珊瑚さん」
真は左の道を選んだ。滅魔省のあの二人ならば、援護など必要ないだろう。何より、二人の戦いを見て気持ちが乱されることが何よりもまずいと彼は思った。
両開きの扉の前まで行き、真は黒塗りの木刀を右手に構えつつ、左手で扉を慎重に押し開く。
部屋の中身は会議場だった。四階と三階が吹き抜けで傍聴席となっており、二階にはドーナツ型の円卓を中心に、放射状に多くの議席が並べられている。
おそらく、清言たちが行ったであろう右の大部屋も、似たような構造になっているに違いない。階下から音が響いていたのはそのためだ。
真と珊瑚がいる階上の席には、敵の影は見当たらなかった。しかし、階下の床は元々鮮やかな朱色であったものが、黒く汚染されている。
二人は身を屈め、階下を一望できるよう低く作られた壁から顔を覗かせて下の様子を窺う。
ざっと見ただけで十体以上は人形がいた。まだ真たちには気付いておらず、霊気を揺らめかせながら会議場を徘徊している。
「真さん、行きますか?」
珊瑚が小声で訊ねる。術者らしき者はいないため、一旦ここを出て別の場所を目指すという手もあるという意味だったが、真は木刀を握る手に力を込め、首を横に振った。
彼の瞳は今、霊気で青白く輝き、人形たちの魂を見据えている。
「行きましょう。ここを突破します」
「……わかりました。なら、考えがあります。この数なら……真さんの協力があれば、なんとかなるはずです」
「――?」
疑問を浮かべる真の耳に顔を寄せ、珊瑚は耳打ちをする。その案を聞いた真は驚いた顔を彼女に向けた。
「危険じゃ、ないんですか?」
「お任せください。背中はお預けします」
ふと表情を和らげて、信頼に微笑む珊瑚の強い瞳に、真は頷く他なかった。
「わかりました……じゃあ、俺は先に下に行けばいいですね?」
「はい、早速始めましょう。行ってください」
珊瑚の言葉を合図に、真は低い体勢のまま傍聴席に備わっている階段を目指す。そして、階下へとおりる彼の背中を見送った珊瑚は、壁に背を預けて右手を胸に添え、ふっと張り詰めていた息を吐いた。
この場は間違いなく死地であり、自分たちは今まさに、死線を越えるかどうかの瀬戸際に立たされている。
だというのに、珊瑚は少なからず昂揚を感じていた。彼女は決して戦いを好む性分ではないが、それはひとえに真との魂の繋がりを感じているせいだった。
誰かと魂を繋げ、任務に臨む。久しくなかったその行為に、胸の奥にしまい込んだ記憶とも言うべき古傷が脈を打つ。
滅魔省での過去を、彼女は忌むべきもだとも、過ちであったとも思ってはいない。今は寄る辺を変えてしまったが、過ごした日々は掛け替えのないものであったし、繋がりは確かにあったのだ。
「……想いは、糧に」
真に言った台詞をそのままに、珊瑚は呟く。この疼きは感傷だ。接続を開いている今、動揺は魂を経由して真にも伝わってしまうだろう。
次に息を吸った瞬間に、彼女は心を切り替えた。今、真が会議場までおりきったことを、繋がった魂から感じ取る。
珊瑚は立ち上がると、真に向けて心の中で意志を飛ばす。そして、壁に足をかけると、そのまま蹴り上げる勢いで四階から円卓の中心へと飛び降りた。
落下は一瞬だった。珊瑚は栗色の髪を靡かせながら、黒い泉と化した会議場へと足を着ける。彼女は全身に淡い燐光を帯びており、その光に触れた黒い霊気は、彼女を避けるように波立ち、退いていた。
突如として黒の中に落ちた白い輝きに、人形たちが一斉に振り向く。その視線を一身に浴びせかけられながら、珊瑚は右の拳を掲げた。
魂に霊気が満ちる。それは彼女だけのものではなく、接続により流れる真のものも含まれていた。
掲げた右手に、霊気の光が球状になって幾筋もの輝きを溢れさせようとしていた。まるで誘蛾灯のように、その光にあてられた人形たちが、珊瑚に向かって襲いかかろうとする。
そして、十分に人形たちを引き付けたところで、珊瑚は右拳を床に振り下ろした。
右手に収束していた霊気が破裂し、白い閃光が床に広がる霊気を薙ぎ払いながら、蜘蛛の巣の図を描き広がっていく。そして、光に足元を搦め取られた人形たちの動きが鈍り始めた。
珊瑚の霊気が描く絵図からは、彼女が纏うものと同種の燐光が生じている。その光は人形たちの足元から、彼らを覆う黒い霊気を侵食しているのだった。
彼女の得手の一つである、侵食を広範囲に拡大した業である。対象が多いため、先にレイナが見せたような完全に動きを奪うものとまでとはいかないが、足止めとしては十二分に効果を発揮していた。
人形たちは複雑な命令をこなせないため、動きを誘導することは簡単だった。部屋の中央に派手に登場し、視線を一手に集める。
そこに、一瞬の隙を作ることができれば、作戦はほぼ成功だった。
珊瑚が作った隙を逃さず、待機していた真が飛び出す。そのとき既に珊瑚は人形たちにかけた足止めを解除し、接続を真に対する霊気を供給するものに切り替えていた。
その恩恵により、真の速度は普段よりも格段に上がっている。加えて、珊瑚が中心となって人形たちの動きを観察することで、ほぼ挟撃する形で情報を得ながら、真は場の制圧に乗り出していた。
会議場を疾走しながら振るわれる黒塗りの木刀の一閃が、一つ、また一つと人形にまとわりついた霊気を払っていく。
人形一体の力はそれほど強くもなく、群れで来られると厄介だが、落ち着いて対処すれば十分に対応は可能だった。
それよりも、真にとっては人形の正体を知ってしまったが故の精神的な抵抗の方が強い。だが、珊瑚の言う通り、彼は押し殺した気持ちを木刀を振るう力に乗せることだけを考えた。
考えることは、後でいい。今はこの局面を乗り切る事だけを考えて、ひらすらに前に進むべきだ。
真が一気に円卓を囲む人形たちのおよそ半数以上を倒したところで、人形たちも動きを取り戻し始める。後は、珊瑚も戦列に加わり、残りの人形たちを二人で倒していくこととなった。
「真さん、焦らずに行きましょう。確実に、です」
「はい!」
そうして、珊瑚が相手の動きを封じ込めながら、真が前衛で霊気を払っていくという形で、二人は会議場の人形たちの全てを倒し切ることに成功した。
人形の元は、やはりと言うべきか、そのほとんどが枯れ果てた死体であり、生きている者は数名だった。同じ場所に寝かせておくのは躊躇われたため、二人は息のある者は会議場の脇にある控室へと運び込むことにした。
「珊瑚さん……もしこの事態に決着がついたとして、収拾がつくんですかね?」
控室を後にし、会議場に広がる惨状から目を背けた真が訊ねる。珊瑚もまた、この場を直視し辛いものがあるのか、暗い表情を見せていた。
「間違いなく隠蔽は行われるでしょうね。封魔省の副長と事を構えた時とは、規模は異なるでしょうが……やることは変わらないはずです」
「……そうですか。すいません、今、考えることじゃないですね」
真は気合を入れ直し、二階の廊下へと出るため会議場の扉を押し開く。階が下がるにつれ、黒い霊気の密度は濃くなり、足元に感じる不快感も強くなっていた。
「どうやら、無事に切り抜けたようだな。少年」
と、真たちが出て来た扉からやや離れた位置で、ガラス張りとなった壁から外の様子を見ていた清言が、振り返って声をかけてきた。彼の隣にはレイナもいる。
「人形は会議場に集中していたようだな。この階にはもう気配はない」
そう言いながらも、清言の目つきは油断のない気配を帯びており、左手は腰に下げた軍刀の柄に添えられていた。
「……じゃあ、ここで何をしているんだ?」
まさか自分たちを律儀に待っていたというわけではあるまいと、真は訊ねた。敵がいないのであれば先に進むべきだろう。
すると、清言は「見てみろ」と顎をしゃくり、ガラスの向こう側に広がる景色へと目を向ける。
「――ッ!」
その光景の異様さに、真と珊瑚は目を見開いた。
空の一点には赤黒い球状の塊が浮かんでおり、そこを中心としてドーム状に幾筋もの霊気が地面へと伸ばされていた。陽の光の大半が遮られ、その霊気に染められた外の空気は、薄赤い靄がかかったようにぼやけている。
それは、まるで巨大な一つ目が、血の涙でも流しているかのように見えた。
「結界……ですか」
唾を呑んで呟く珊瑚に、清言が首肯する。
「今のところ、直接害を及ぼすものではないようだな。さしずめ、私たちを捕えるための鳥籠なのだろう」
ということは、触れることで効果を発動するタイプのものなのだろうと真は考えたが、とても試す気にはなれなかった。どう考えても、碌なことにはならなさそうである。
「あれも、術者を倒せば消えるってことなのか?」
「おそらくはな。いずれにしても、やるべきことに変更はないのだが……」
言うと、清言の視線は次に眼下へと向けられた。つられ、真と珊瑚もまだ何があるのかと彼の視線を追う。
その先にあるのは、庭園だった。五階から見るよりも間近に迫る黒く蠢く人形たちは、より一層悍ましさを増している。
が、清言が言いたいのはそこではなかった。その黒い汚泥のような只中で、大きな力の波が動いていた。
「動きの読めない分、局長殿も扱いに困るだろうな。あそこへは迂闊に近寄らない方がよさそうだ」
皮肉交じりに清言が言ったときである。不意に庭園の中の影の一部が、水面に浮かぶ気泡のように膨れ上がった。
ゆっくりと膨らんだそれは、次の瞬間に爆音を轟かせて破裂する。衝撃に爆散した数十体の人形たちが、建物の壁にぶつかり、数体は真たちが見下ろす二階にまで飛んできていた。
ガラスが割られることはなかったが、壁にぶつかった人形たちは庭園に落下し、再び黒い泉の中へと飲み込まれていく。真と珊瑚は、驚愕に更に目を開きながら、その発生源を見た。
黒の庭園に穿たれた大穴の中心には、黒ずくめの従者と、彼の右腕に浅く腰掛けるような形で抱かれるシオンがいた。
従者は左腕を振り上げた形で静止している。ということは、彼はただの腕の一振りで、これだけの破壊をもたらしたということになる。
彼の姿は、ただ木偶のように立っているだけに見える。だが、それ故に不気味さが際立っていた。数で圧倒しているはずの人形たちでさえも慄き、封魔省の二人を遠巻きにし始めている。
そして、その無茶苦茶さ加減に唖然とする真と、ふと顔を上げるシオンの視線が交わった。
お互いにそれに気付き、シオンの口の両端が凄惨に吊り上げられる。彼女の目は、さっさと行けと語りかけているようだった。
「……くそ」
とんだ人外魔境に迷い込んでしまったものだと、ここに来てから真は何度目とも判らぬ思いに胸焼けしそうになりながら、呟きを漏らしていた。




