19 「死線 1」
扉を開け放ち、廊下に出た瞬間、真の目は眩んだ。
廊下の床、壁、天井と、そこかしこに暗い影が滲み出ている。それは、水に垂らしこんだ墨のように、一滴一滴、ぐずぐずと揺らめきながら範囲を広げていた。
「誰も、いないのか?」
真が左右に首を巡らす。部屋の前にいたはずの警備の男は、姿を消していた。
あれだけ派手な音が室内で起こっていたにも関わらず、外から何の反応もないのはおかしいと思ってはいたが、嫌な予感が彼の脳裏を過る。
「真さん。まずは武器を確保しましょう。どこにやったのですか?」
廊下に敵の影がまだないことを確認した珊瑚が、そう真に提案し、室内のラオを振り返った。
「ここから右手の突き当りにある部屋に預けています。気を付けてください。この状況では、どこに敵が潜んでいるかもわかりません」
「なら、そこまでは同行しよう。私も、自分の得物は確保する必要があるからな」
清言がそう言って、レイナを連れて廊下へと出る。
「あなた方は、どうする?」
「妾たちのことは気にするな。心配せずとも、役目は果たそう」
最後に残ったラオ、シオンたちに清言は一応と言った感じで目を向けて訊ねた。従者に抱かれたままのシオンが鷹揚に言い、ラオに目配せをする。彼女の視線を受け止めたラオは、肩を竦めて笑みを作った。
「問題ありません。行ってください」
そうして真たちは、果肉が腐ったような甘い匂いが仄かに香る廊下を駆け、並ぶ部屋の扉を無視し、廊下の突き当りにある一室の前まで辿り着いた。
真は扉に手をかけつつ、中の様子を窺うように耳をそばだてる。すると、室内で何か大きなものが蠢くような気配を感じた。
「真さん、ここは私が」
素手の真に対し、武器を必要としない珊瑚が彼の前に割って入る。真は少し躊躇いを覚えたが、彼女の守りの堅さを信頼し、道を譲った。
開け放った扉の先は、ゲストの控室として使用されるものだった。会議室よりは狭く、白を基調とした落ち着いた雰囲気を演出しているようである。
だが、それも二体の黒い影によって汚染されていた。充満した黒い霊気が湧きたつように広がり、真たちの足元を這いずるように浸そうとしていた。
黒い霊気の影響を防ぐため、真と珊瑚は自らの霊気で肉体を覆うことで防護幕を張る。ハナコは真の中に姿を消し、サポートに徹することにした。
「私は右を、真さんは左をお願いします」
珊瑚は真を見ずに言うと、影が動き出す前に行動に移っていた。真も、遅れずに飛び出す。
室内に飛び込んできた真たちに、影も素早い反応を見せた。影の右腕から黒い霊気が触手のように伸び、真の顔面目がけて放たれる。
僅かに頬を掠める形で真はそれを躱した。しかし、掌を返すように触手は反転し、今度は彼の後頭部を狙い撃つように巻き戻る。
真はその攻撃も読み切り、体勢を低くして影の足元を掬うように突進した。そのまま霊気の這いずる床に押し倒し、影の胸の中心に重ねた両手を押し当て、内部に向けて一気に霊気を放出した。
徒手空拳で行えることは限られている。魂に巣食う霊気を振り払うために、発生源を一気にこそぎ落とす手段に出たのだった。
作戦は上手くいったようで、影を覆う霊気が晴れていく。そして、真は露になった影の正体を見て目を見開いた。
女性だった。それも、会議室で倒した枯れ木のような死体ではない。
気を失ってはいるが、まだ肌に血が通っていることが、見た目だけではっきりと分かる。
生きた人間。紺色の制服は、おそらくこの会館のスタッフだろう。
見れば、珊瑚の方も同様に影の霊気を払ったところだった。彼女が床に寝かせているのは、男性のスタッフだった。
「生きた人間にも感染している、か」
清言の冷静な声が室内に響く。彼は室内の片隅に転がっていた木刀を拾い上げると、真に向けて投げて寄越した。真は驚きが冷めやらぬまま、なんとかそれを受け止める。
そして、清言は同じ場所に置かれていたらしい、彼自身の得物も手にしていた。
それは、黒塗りの鞘と金色の鍔を持つ軍刀だった。
彼は得物に損傷がないか確認するため、軍刀を両手で目の前に掲げ、問題がないと判断するとベルトに吊り下げる形で帯刀した。
「おい、待て……。どういうことだ。死体じゃなかったのか?」
何事もなかったかのように、清言は扉の前で待つレイナの元へと戻ろうとする。そんな彼に、真が疑問を投げかけていた。
「これが本来の自走人形だ。魂のない者に意志は宿せないと、総長殿も言っていただろう」
意志を持つ人間に、より力の強い者が意志を上書きし、支配する。教団がどのような手段を用いているのかは不明だが、本来、これは魂の抜けた死体に対しては不可能な行為のはずなのだ。
「二次被害というべきか……。この二人は運よく発見が早かったから命に別状はないだろう」
「この分だと、他にも被害者はいそうですね。救いたいというのなら、急いだ方がいいでしょう。手遅れになった者は、始末する他ありませんから」
「――!」
清言とレイナの言いように、真は頭に血が昇りそうになった。気遣っているような台詞だが、一般人の被害など二の次だということが言外に伝わってくる。
「少年……その目は、助けたい、というものだな」
「当たり前だ!」
真は反射的に叫んでいた。見も知らぬ他人とはいえ、そんなに簡単に、仕方がないと切り捨てられるわけがない。
「あんたたち、死体と生きている人の区別はつくのか?」
「魂を見れば分かるだろう。生きていれば、少なからず侵された霊気に対して抵抗の意志が見えるはずだ。死んでいるならば、意志など持ちようもないだろうからな」
仮説に過ぎないが、と清言は付け加えて真から視線を外し、珊瑚の方へと目を向けた。
「千島珊瑚、君も少年と同じ考えか? 被害者は助けるべきだと?」
「ええ……ですが、全てを救うことはできない……それは、覚悟するべきところでしょう」
一定の冷たさを保った珊瑚の声音に、真は目を見張る。彼女の意見は真に概ねは同意するものだったが、線引きは行っているものだった。
「真さん、感傷に意味はありません。思うことはあるでしょう。ですが、それらの想いは、ここでは全て自分への糧となさってください。考えることは、後でもできます」
「……使い物にはなるようですね。安心しました」
珊瑚の答えを一応評価したのか、レイナは彼女を一瞥して言い、廊下へと向き直る。廊下から感じる気配は、更に色濃くなっているようだった。
「そちらの意見は尊重しよう。私たちも悪戯に殺戮を好むわけではない。だが、ここで別れるべきだな」
言って、清言は部屋を出てレイナの前に立つ。真たちが素通りしてきた部屋からは、彼らの退路を塞ぐように幾体もの影が現れていた。
「罠のつもりか。小癪だな」
清言は居並ぶ影を見据え、左腰に下げた軍刀の鍔に手を掛ける。
「レイナ、どうだ?」
「いずれも生きてはいませんね。抜け殻だと判断します」
「そうか、ならばいい。道を開く、付いて来い」
清言が発する鬼気が、陽炎のように彼の背中を揺らす。そして、真と珊瑚の視界で彼の姿がぶれたかと思った瞬間に、全ては終わっていた。
疾風怒濤。
そう言わざるを得ない。
翻る黒い外套が影を縫い、鈍色の閃きが流星の如く打ち払われる。遅れて響く鞘走りの音が、倒れ伏す人形たちの頭上で鎮魂の鐘であるかのように鳴り響いていた。
「先に行くぞ、少年」
抜き放った軍刀を鞘へと戻し、清言は振り返らずに言うと駆けて行った。レイナも無言で、彼を追従る。
「……」
真は唖然となりそうな気持ちを、首を横に振ることでなんとか追い払う。
清言も、実力は周りの者と負けず劣らずと言ったところか。まったく本気を感じさせないところに、空恐ろしく感じさせるものがあった。
「珊瑚さん、この人たちは……」
気を取り直して、真は室内で倒れたスタッフ二人をどうすべきか珊瑚に訊ねようと、彼女に顔を向ける。
「この階に感じていた霊の気配は消えました。ひとまずここにいてもらいましょう」
珊瑚は二人をきちんとした体勢で寝かせると、廊下へと出て扉を閉めた。
「私たちも、行動を開始しましょう。まずは、どこへ向かうべきかですが……」
「やっぱり、庭園ですかね」
真は地獄の窯の蓋でも開けたかのような、怖気の走る光景を思い返す。感染源を断つと言うのなら、まずはあれを何とかすべきだろう。
「そうですね……、ですが、無策で行くには危険すぎます。一体ずつ倒しても前には進めないでしょう」
そうは言っても、まさかどこぞのB級映画ではないのだから、建物ごとミサイルか何かで壊滅させる手段など取れる訳もない。生きたまま取り憑かれている者がいることが分かった以上、迂闊に強硬策に出るのも躊躇われた。
「やっぱり、術者を見つけて倒すしかないですね」
清言やラオ、シオンたちがどうする気かは分からないが、足掛かりくらいは欲しいところだった。虱潰しにするしかないとしても、方針は立てておきたい。
「あの、いいでしょうか?」
と、そこで真の中からハナコが姿を見せた。何か案でもあるのかと、真と珊瑚が彼女を振り向く。
「どうした?」
「確認なのですが、その術者の方が、この黒い霊気を操っているということでいいんですよね?」
ハナコは今も廊下に広がる黒い霊気を見やる。霊気は変わらず揺らめいてはいるが、清言によって打ち捨てられた死体らに取り憑く様子はない。既に死体の魂は消滅しており、抜け殻となっているためだ。
「そう考えるのが自然ですね」
「じゃあ、この霊気を辿れば、もしかすると術者の方の居場所がわかるんじゃないですか?」
「どういうことだ?」
「ほら、前に珊瑚さんを捜すためにもやったみたいに、あれと同じことですよ」
「……それは、無理じゃないか?」
真は慎重に考えながら、疑問を呈する。失踪した珊瑚を探すため、ペンダントに残された彼女の霊気を探り当てることができたのは、残されたにおいを辿るようなものだった。
探すべき霊気は、建物全体を覆おうとしているのだ。いわばにおいが充満した中で術者を探し出すと言うのは、糠から米粒を探すよりも困難だろう。
「――いえ、可能かもしれません」
が、真の考えを否定するように、珊瑚がそう口にした。
「操っている以上、何らかの形で術者と人形の魂は繋がれているはずです。そこをつけば、もしかすると辿り着けるかも知れません」
ハナコが真に取り憑いているように、真と珊瑚が接続しているように、術者と人形との繋がりを辿る。珊瑚の案は外部から霊気を探るものではなく、霊気そのもの――内部を探るというものだった。
「待ってください。珊瑚さん……それは、ハナコに行かせるってことですか?」
「そうなります。霊体であるハナコさんならば、意志を持って、霊気の中を巡ることができるでしょう。もちろん、無理強いはできませんが……」
この黒い霊気の中にハナコは単身突入し、術者の居場所を探る。その間に、真と珊瑚は建物の攻略を行う。策としてはそう言うことだ。
ただ、口で言う程簡単なものではない。黒い霊気は他者を侵食する。そこに飛び込もうと言うのだから、リスクは当然負わなければならない。
「行きます。わたしにしか出来ないことなら、ここでやらなきゃ、ダメですよね!」
「……いいんだな?」
「はい。ここが、力の見せどころですよ。お任せください」
「こちらでもサポートはします。真さんは、一時的にハナコさんから得られる霊気が少なくなるかもしれません。戦闘の際は、留意してください」
「わかりました……。ハナコ、頼んだぞ。無理だと思ったら、すぐに戻れ」
ハナコは力強く頷くと、早速行動に移った。彼女の姿は薄れ始め、床に広がる黒い霊気の染みの中へ潜るように、青白い霊気の残滓を散らして消えていった。
すると、真と珊瑚は胸の奥に、重石でも乗せられたかのような圧力を感じる。二人は魂の繋がりから間接的に、ハナコが身を投じた霊気の中の圧を受けているのだ。
「行きましょう、珊瑚さん。一秒でも早い方がいい」
感じた重さを支えるように己の胸に手をあて、真は珊瑚を見る。
「ええ、行きましょう」
珊瑚の頷きを見て、真は踵を返す。二人はこの死線を乗り越えるべく、駆け出した。




