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退魔師の二度目の生は幽霊少女と  作者: 尾多 悠
第三部 魂の帰郷
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12 「過去語り 後編」

 今年の二月。丁度、信が翼を家に連れ帰ってから三年となる日だった。

 その日は前日の夜に雪が降り、地面に積もる雪が、晴れた空から注がれる陽光を跳ね返し銀色に輝いていた。

 遠方に見える山も白い化粧を施されており、厳しい寒さながらも、どこか爽やかさを感じる朝だった。


 快復した翼は元気を取り戻してはいたが、まだ経過を診る必要があるため通院を欠かすことはできなかった。

 その日も、信と結に付き添われ、彼女は診療所で如月の診察を受けていた。子供らしく注射を嫌がったりする様も、今となっては微笑ましい光景であった。


「今日は誕生日だろ。しっかり祝ってもらいな」


 涙目になる翼の頭に手を置いて、如月は笑った。

 素性が不明のため、翼の誕生日はわからない。なら、浅霧家に来た日を誕生日としようということになっていたのである。

 そして、慎ましやかだが、それなりに賑やかに夜を過ごし、皆が寝静まろうとした頃。


 異変は、唐突に訪れた。


 まず聞こえたのは結の悲鳴であった。

 滅多なことでは取り乱すことのない彼女の悲愴な叫び声は、家族を飛び起きさせるには十分なもので、夫婦の寝室に全員がほぼ同時に駆けつけていた。


 そこでは、信が結を背後に庇い、何かに相対しているようだった。

 信の前にいたもの。

 それは、胸の中心から渦巻く黒い霊気に覆われる、異形と化した翼だった。

 艶のある青みは消え失せ、影の如く黒くなった髪は逆立ち、全身からは赤黒く染まった血管が浮き上がっている。瞳は渇いた血のようにドス黒く、収縮した瞳孔が底知れぬ威圧を放っていた。

 結は翼の名を呼んでいた。それを聞き、駆けつけた皆は、ようやくその怪物が、翼であるということに気付いたほどであった。


 信は結を連れて家の外へ逃げろと叫んだ。礼は母の肩を抱き、珊瑚も真と凛に対して同様にすると、逃げるように促した。

 ただ、静だけは信の援護をするため、その場に残った。

 翼が何かに取り憑かれているのは明らかだった。治療は終えたはずの彼女の魂に、まだ魔物が巣食っていたのだ。


「礼、珊瑚、皆を頼むぞ」


 信に言われ、礼は単純に嫌な予感がした。今にして思えば、そう言う父の表情に、彼はある種の覚悟を感じていたのだろう。


「行け。親父殿がそう簡単にくたばるか。というか、私がさせん」


 静の言葉に後押しされ、礼たちは急いで家の外まで駆けた。門を出たところで、何かが激しくこすれ、ぶつかり合うような音が背後で響き、戦いが始まったことを告げていた。

 礼は蒼白となった母の肩を強く抱き、珊瑚は震える妹と、事態を呑み込み切れていない真の視界を遮るように抱き寄せ、時間が過ぎるに任せてその場を動かなかった。

 戦いの音は家の中から中庭に移行したのか、塀の中では霊気が飛沫を上げて明滅し、地面を抉るような破壊音が混じり始めていた。

 信と静は手練れだ。その二人を相手に、年端もいかぬ少女が互角の戦いを繰り広げている。

 悪夢でもなんでもいい。夢であって欲しいと、願う他なかった。

 それが数分、あるいは数時間の出来事だったのかは、定かではない。


 戦いの音は止まった。


 しかし、いくら待てど信も、静も一向に姿を見せる様子はなかった。

 そして、不意にそよぐ冷風が孕む濃密な臭いに、礼と珊瑚は気が付いた。

 胸にまとわりつくような、血の匂いだった。


 再び湧き上がる嫌な予感を押し殺しながら、礼は皆に残るよう言い、単身で門を潜り中庭へと出た。


 庭はいたるところに抉れた穴が空き、雪と土が混じり合った形で歪な斑模様を描いていた。庭木も倒れ、もはや木屑と化すような惨状だった。

 その中心には、雪に埋もれるように仰向けに倒れた翼がいた。

 彼女を覆っていた黒い霊気はなくなっていたが、酷く苦しそうに口を開け、胸を掻き毟るようにしてもがいている。

 咄嗟に礼は翼に駆け寄ろうとしたが、視界が捉えた別の光景に足を止めた。

 翼から離れた位置に、倒れる父と姉の姿を見つけたためだった。


 晴れていたはずの空は陰りをおび、雲間から漏れる月明かりが、見せつけるようにその光景を照らしている。

 二人の下にある雪に染み込んだ赤い模様が、はっきりと見えていた。

 信は静を守るように覆い被さっており、背中しか見えかった。

 風が孕んだ臭いは、信の血のものだった。彼の背中には拳ほどの風穴が空き、そこからは今もとめどなく血が溢れ出ている。


「父さんッ!!」


 色を失って叫び、礼は父の元へと駆けた。動かしてよいものか一瞬の迷いはあったが、決断して父の肩に手をかけて身体を仰向けにする。

 信の下敷きとなった静の身体は、彼の血で凄惨な有様となっていたが、外傷はなく気絶しているだけのようだった。

 しかし、もはや信の命は絶望的だった。

 血の気の失せた顔からは、今も徐々に生気が失われていく様が見てとれた。そして、どうにかしなければと気が焦る余り、礼は背後から忍び寄る気配に気付くことができなかった。


「――……て」


 耳に入る聞き覚えのない声に、冷えた手で魂をなぞられるような悪寒が、礼の全身を駆け巡った。

 振り返った瞬間、礼は凄まじい横殴りの衝撃を受けて吹き飛ばされていた。

 雪のおかげで地面への激突によるダメージは少なかったが、全身を駆け巡る痺れに、一時的に身体を動かせなくなる。


「――……て」


 うわ言のように呟くのは、翼だった。彼女の胸からは薄まってはいたが、再び黒い霊気が溢れようとしており、既に右半身は覆われ始めていた。

 礼は、彼女の右腕で殴られたのだ。

 初めて聞く翼の声は可憐な少女のものではなく、酷く掠れ、地獄でのたうつ亡者が恨み言でも吐くかの如く、ひび割れたものだった。

 翼は背を丸め、喘ぐように息を切らしながら信と静の前まで歩き、立ち止まった。


「翼ッ!」


 翼が次の行動に移る前に、門の方から叫ぶ声が聞こえた。

 真だった。おそらく制止を振り切って来たのだろう、彼の後ろからは珊瑚と、彼女に守られるように結と凛も続いており、皆一様に中庭の惨状に息を呑んでいた。


「何をする気だ……何なんだよ、お前は!?」


 混乱の只中にあり、先に立った真の感情は怒りだった。この惨状を引き起こしたのは、目の前の少女であることは疑いようもないことだ。

 赤く染まる父と姉の姿と、倒れる兄の姿を見た真は、完全に頭に血がのぼっていた。


「――……て」

「何だよ! 何が言いたいんだ!?」

「真さん! いけません!」


 振り返りうわ言を繰り返すだけの翼に、振り絞ったような珊瑚の声を無視して真は詰め寄ろうとした。

 しかし直後、臓腑を突き破るのではないかと錯覚するほどの衝撃に突き上げられ、真は放り投げられるように翼の後ろへと背中から墜落する。

 翼を覆う霊気は右半身から範囲を広げ始め、右腕から歪に伸びた霊気が真を拒絶していた。

 まるで無尽蔵に生み出されるかのように、黒い霊気はその色を濃くする。覆われる直前、垣間見えた翼の顔は苦悶に歪んだものだった。


「……珊瑚、あなたは凛を守りなさい」

「え……結さん!」

「大丈夫。あの子は、私が止めてみせます」


 このときの結の胸中を推し量ることはできない。だが、彼女は倒れる夫や子供たちよりも、翼のことを優先した。

 いや、彼女にとっては、血など関係なく娘である翼を、救おうとしていた。


「翼、苦しいのね」


 荒れた中庭に、透き通る結の声が響いた。


「――……て」


 彼女の声に応えたものかは判らないが、翼はなおも掠れた声で繰り返す。

 そして、結が一歩距離を詰めようと足を踏み込んだ瞬間、翼を覆う霊気が触手のようにうねり、結へ向けて矛先を伸ばした。


 ざくりと、結が歩を進める音がする。

 黒い霊気はその牙を、確かに彼女の胸へと沈めていた。しかし、死へと至らしめることはできていなかった。

 結の胸からは血も流れず、損傷はない。まるで水面に石を投げた結果のように、撃ちこまれる霊気はさざ波程度の波紋を起こしながら、彼女の肉体の底へと落ちていった。


 子を産んだことで退いてはいたが、結もまた、退魔師としての修練を積んでいた身である。

 彼女が行っていることを説明するならば、それは霊気の『略奪』であった。

 襲いかかる霊気の群れを迎え撃つのではなく、その全てを己の内へと取り込んでいく。

 翼の尋常ならざる力は霊気によるもの。本来の彼女の肉体は幼子のままに過ぎず、武器を取り上げてしまえば戦う術は残されない。


 結へと力の向け先を変えた翼は溢れ出る霊気を次々と撃ち込んだが、結の歩みは止められなかった。

 本来であれば、幼子の霊気はとうに尽きてもおかしくはない。しかし、二人の距離が縮まるにつれ、翼の振り乱す霊気は激しさを増していた。


「――……て!」


 霊気は風切り音を上げ、結の胸を穿ち、四肢を搦め取ろうとするが、彼女が足を止めるにはたらなかった。


「無茶だ……母さん……!」


 礼は痺れの消えない身体を引き摺るように顔を上げ、母の決死の行為を成す術もなく見守ることしかできなかった。

 翼の攻撃は結に効いていない。一見すればそうかもしれないが、実態は違う。

 攻撃は、確実に届いているのだ。翼の霊気は汚染されている。略奪とは、相手の霊気を自分の内に取り込むことだ。

 翼の放ち続ける霊気には終わりが見えない。それはつまり、結は翼の魂から生まれる毒を、際限なく吸い続けているということだった。


 それが証拠に結の身体からは、徐々に翼と同じく黒い霊気が染みとなり、浮き上がろうとしていた。

 投じ続けられた穢れは結の魂に収まり切らず、肉体を汚染し、自由を奪おうと内側からも牙を剥き始めている。


「……大丈夫よ、翼」


 しかし、どれだけ黒く染まり、魂が悲鳴をあげようとも、結の足は止まらなかった。

 既に体温は死体のように冷たく、動かす端から身体は欠けそうになっていた。脳を揺り動かす悲鳴は絶えず、結の人格を追い出そうと幾重もの手が魂に爪を立てる。


 結は、微笑んでいた。

 どれだけ精神が、肉体が汚染されようとも、これは翼の感じている痛みと思えば苦ではなかった。子供が目の前で苦しんでいるのに、親が弱音を吐けようはずもない。

 彼女の目には、もがき苦しみながら、手足を振り乱し助けを求める我が子の姿しか映ってはいなかった。

 たとえ向けられるものが愛情ではなく、憎悪の塊であろうとも、翼の魂から生じた感情であるならば、委細全てを受け止める。


 その魂が汚泥に塗れていようとも、全てを賭して愛してみせる。


 そして、翼の前までたどり着いた結は膝をつき、我が子を胸に抱きすくめた。

 直接触れたことで、結の『略奪』は更に効果を増した。

 翼に纏わりつく霊気は、それこそ広がる羽のように放散して結の中へと吸い込まれていった。翼を侵す霊気の色は薄まりつつあったが、それと入れ替わるように、結の身体が黒に染まっていく。


 霊気は二人を繭のように包み隠し、やがて、ぴたりとその勢いを止めた。


 剥がれ落ちるように霊気は崩れ落ちていく。二人がどうなってしまったのか、礼、珊瑚は祈るように見守った。


 二人の身体を覆っていた霊気は、嘘のように晴れていた。

 愛しげ細められ結の瞳は我が子を見つめ、微笑んだ口元は揺るぎない。

 だが、彼女の身体は固まり、その表情が融けることはなかった。

 翼の発する魂の汚泥を呑み込んだ結果、結は魂を完全に乗っ取られる前に、自らに決を下していた。


 彼女は自らの魂を、穢れもろとも浄化した。

 瞳に輝きは灯らず、翼を抱き締める胸にも温もりは宿っていない。

 礼も、珊瑚も、及びもつかない結の壮絶な最期に、感情が追い付かずに唖然とする他なかった。珊瑚に抱きかかえられた凛は、今までの凄まじい気にあてられ、とうに気を失っていた。


 翼は、母の抱擁の手を解いた。

 結の身体は体重を感じさせないほど、あっさりと軽い音を立てて地面へと倒れた。その瞬間、礼は同時に、父の命の灯も消えたことも直感した。


「……けて」


 そして、呻くように掠れたその声に、礼と珊瑚は弾かれたように意識を戻した。

 翼を覆う霊気は確かになくなっていたかのように見えた。だが、振り向いた彼女の瞳は暗く、黒い霊気に灯されていた。

 眼窩で揺らめき、零れようとするそれはまるで、黒い涙のようであった。


「珊瑚……!」


 いまだに動かぬ己の身体を呪いながら、礼は珊瑚の名を呼んだ。だが、その先を続けることができなかった。

 珊瑚は妹を強く抱きながら、翼の姿を直視する。礼が言えなかったその先を、彼女はしっかりと理解していた。

 この場において翼に対処できるのは自分しか残っていない。おそらく、放置すれば黒い霊気は再び増殖し、翼を覆ってしまうことだろう。

 結に大半の霊気を吸われたことで、翼は弱っている。仕留めるならば、今を置いて他にはない。


 だが、しかしと、珊瑚は自問した。

 目の前の少女を化物とみなし、弱ったこの瞬間を逃さず滅することが、自分にできるのか。

 結が命を賭して守ろうとした少女を、家族をこの手にかけることが、果たして許されるのか。


 迷いは思考を鈍らせ、判断を遅らせた。それでも、珊瑚が胸の撃鉄を起こし、感情の波を引かせるのに数秒も要さなかっただろう。

 だが、その数秒の間の迷いを、彼女は今でも後悔することになる。


「――ッ!!」


 突如、翼の目の見開かれ、彼女の口から黒い汚泥のような霊気が吐き出された。

 背中を仰け反らせ、振り返る彼女の胸を、青白い光が貫いている。


「父さん……母さん……」


 真が右手に、折れた木刀を持っていた。それは、父が愛用し、戦いの最中に砕かれたものだった。

 折れて棘上になった面も気にせず握り締め、裂けた彼の手の平からは、赤い血が滴り落ちている。

 翼の胸を裂く光は、木刀の切っ先から伸びる、真の霊気だった。


「お前は誰なんだッ!?」


 翼と瞳をぶつけ合った真は、感情のままに吼えていた。しかし、彼がいくら激情をぶつけたところで、目の前の少女に潜むものには、問いに答える意志はなかった。


「タスけて……」

「――!!」


 真は絶句した。

 翼を覆う霊気が晴れたことで、彼女の声は間近にいて、初めて聞き取れるようになっていた。

 父と母をその手にかけ、亡骸を足元に転がしながら放った願いは、救いを求めるものだった。


「ワタシを……タスけて……!!」


 真の感情は急速に冷え、そして刹那の間に沸騰していた。

 理性のたがが外れる音が、こめかみに響く。


「ふ……ざけるなあああああああああッ!!!」


 両頬に雫を迸らせながら叫ぶ少年の悲嘆の声が雪上に響き、少女を白く染め上げていた。





「あのときのあいつの声は、今も忘れようがない」


 そこまで語り終えたところで、礼は重く吐息を零した。


「じゃあ……真さんは……翼さんを……」


 ハナコは姿勢を崩すことなく、問いになり損なった呟きを漏らした。今少しでも気を緩めれば、とても心が保たないという確信があった。

 目を逸らすまいと決意した。だから、話の結末は最後まで聞かなければならない。


「ああ、真は、翼の魂を貫いた」


 彼女の言葉を引き取るように、礼は続けて口を開いた。


「結果として、翼の魂に巣食っていた魔物は排除された。だが、同時に魂に傷を負った翼は、意識不明……再び寝たきりとなってしまった。それから半年、如月先生のおかげで、ようやく持ち直して現在に至る」


 あの日のことは、皆が悔いている。


 静は、父を死なせたのは弱い自分の責任だと憤った。

 礼は、何もできず、見ている事しかできなかった己の無力を責めていた。

 珊瑚は、己の迷いのせいで真に罪を科してしまったことを嘆いた。

 凛は、何も知らず、傍観者に過ぎない己の立ち位置が、無力さを感じる以前のものだと思い知らされた。


「俺たちは親に守られ、生き長らえた。そして、守るべき弟と妹に、咎を押し付けた」


 真は、翼を傷つけたことを後悔した。しかし、両親を失った怒りをぶつける矛先も見つけられず、精神的に不安定になっていた。

 家にいても、記憶は全てつらいものへと塗り替わってしまっていた。生きる気力を失いつつあり、腑抜けた姿を晒す弟に静は何度喝を入れてやろうとしたかわからない。

 その度に、珊瑚が止めに入り、静と珊瑚の仲は一時険悪な状態にもなったりもした。誰もが心の拠り所を求めながらも、一家の気持ちは次第に離れて行った。


 凪浜市への出向の依頼が来たのは、そんな折だ。もしかすると、これは良い機会なのかもしれないと、礼はさり気なくその話を真へと聞かせた。

 ここに居ても、きっと弟は立ち直れない。傷を舐め合うこともなく、ただただ自分の責だと自傷を繰り返すばかりの環境にいても、果てにあるのは心の死だ。

 ならばいっそ、離れてしまった方が良い。医者の観点からして、如月も環境を変えることは大切だろうと礼の考えに賛同した。


「後は、ハナコちゃん。君の知っての通りだ。真は珊瑚とともに家を離れ、凪浜市に生活の拠点を移した。そして、君と出逢った」

「……そうだったんですね。だから……」


 ハナコは出逢いの当初、無気力な真の顔を思い出していた。浅霧家から出て日は経っていたはずなので、おそらく、まだましな方だったのだろう。


「礼さん、翼さんは、当時のことを覚えているんですか?」

「……全てのことを覚えているわけではないようだ。少なくとも、あの日のことを、翼は記憶から消している。あえて言う必要もないと思っているよ」


 それも、魂が傷ついたことによるショックなのだろうという見立てだった。ならば、その方が良いと礼は思っていた。

 全てを知ることが幸せではないように、今の翼にその事実は必要ないことだ。

 ようやく彼女は目覚め、崩れた幸せを、再び家族と共に積み重ね始めたばかりなのだから。


「さて、ずいぶんと話し込んでしまったね」


 壁の掛け時計を見た礼が、そう言って話を締め括る。もう針は頂上での再会を果たし、次の周へと回り始めていた。


「あの……礼さん、わたし……」


 彼の話を聞き、様々な色と声を放つ感情がハナコの胸中で湧き上がっていた。それは喉を通って吐き出されることなく、消化不良を起こしたように浮かんでは沈んでいく。

 もどかしさに俯いてしまう彼女に、礼は顔に穏やかな微笑みを戻し、ゆっくりと頷いた。


「無理に何かを言う必要はないよ。君のその気持ちが、何よりも温かい。ありがとう」


 彼は浮かべた微笑みを引き、胡坐の姿勢から両膝を揃えて正座した。

 そして、おとがいを引き締めてハナコを見つめ、握った両の拳を畳に付け、深々と頭を下げる。


「不甲斐ない兄で申し訳ない。だが、どうか伏して頼み申し上げる。ハナコちゃん、真を、弟をどうか支えてやって欲しい」

「え、そんな!? やめてください、礼さん!」


 突然の礼の所作に、ハナコは慌てて声を上げる。しかし、彼は頭を上げないまま、苦渋の滲む声で言い募った。

 おそらくはその声は、彼の中でいまだ燻り続けている感情の片鱗なのだろう。


「真は何も悪くはない。だが、何よりあいつが自分を許してはいない。それは、今も変わらないはずだ」

「でも……皆さんは、真さんのことを許しているんでしょう?」

「許しを与えることはできても、それを受け入れるかは自分でしか決められない。そして、例え誰が許してくれようとも、この家にいる誰もが、自分のことを許せてはいないんだ」


 皆、誰も悪くないと思っている。だが、皮肉なことに自分を許せないその気持ちは、皆が誰より理解していることでもあった。

 自分で刻んだ罪は消えない。癒えぬ傷であるのなら、必要なことはどう向き合うべきか。


「君が、真に生きることの意味を与えてくれたように俺は思う。あいつが君を浄化した先にある、自分の命の置き所をを見定めていることはわかっている。だが、今はそれでもいい」


 生きていさえすれば、何が起こるかわからない。その何かを切っ掛けに、真が少しでも変わってくれるのであれば、それでいい。


「また、こうして俺たちが一堂に会せたのも、君のお陰だ。本当に、ありがとう」


 そこで礼はようやく頭を上げ、真摯な眼差しをハナコへ向けた。


「いえ、わたしの方こそ……ありがとうございます。必ず、真さんのお役に立ってみせます。約束します」


 彼の誠意に応える言葉を十分に持ち合わせていないハナコは、彼に倣うように頭を下げる。すると、


「――ハナコ、何処にいる?」


 彼女の耳に馴染みのある声が遠くから聞こえた。はっと顔を上げると、礼がおかしそうに細めた目を、障子戸越しに廊下の方へ向けていた。


「迎えが来たみたいだな。行きなさい」

「はい。ありがとうございました。礼さん、おやすみなさい」


 膝を上げたハナコは、最後にもう一度頭を下げ、障子戸をすり抜けて廊下へと出て行った。

 彼女の小さな背を見送り、礼は「さて」と、組んだ両手を身体の前に突き出して伸びをし、肩を鳴らす。


「俺も気張らねばならんな。明日……いや、もう今日になったか」


 朝になれば積もるだろうかと、礼は外で振り続けているであろう景色を思いながら、寝床の準備に取り掛かることにした。





「真さん!」


 廊下に出たハナコは、左手の奥から歩いて来る真の姿を見つけた。彼もハナコの姿に気付いたようで、彼女の方へと真っ直ぐに向かって来る。

 ハナコは、真から目を逸らさなかった。

 真は近づくまでにじっと見つめられ続け、不審そうに眉を顰めていた。そして、彼女の前で立ち止まり、兄の部屋を一瞥する。


「夜更けにあまり大声を出すな。兄貴のところにいたのか?」

「はい。少し、お喋りをしていました」

「そうか……いらないことを吹き込まれたんじゃないだろうな?」

「そんなことないですよ。静さんもそうですが、礼さんもお優しい方です。真さんは、良いお兄さんをお持ちになられましたね」


 にこにこと笑みを浮かべるハナコを真は疑わしそうに見つめたが、やがて諦めたように息を吐いた。


「俺はもう寝るぞ。まだ家をうろつく気か?」

「あ、いえいえ、もう十分です。わたしもお供しますよ」


 踵を返し黙って向けられた真の背中に、ハナコはついて行く。雨戸を揺らす白い風の音が、ゆるやかに夜の帳へと響いていた。

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