09 「生きる理由」
今日はクリスマス。
道場の掃除を終えたところで、真はそれを思い出した。
外へ出て身を切るような風を受け、雲のない夜空を見上げる。澄んだ空気を疲労した身体に沁み渡らせながら、彼は白い息を空に放った。
「そういえば……今は晴れているが、予報では夜中に降ると言っていたか」
道場の扉を閉めた礼が、真に倣うように顔を上げて言った。
「降るって、もしかして雪ですか?」
パッと目を輝かせてハナコが訊ねる。彼女の子供っぽい反応に、礼は微笑ましそうに口元を緩めて頷いた。
「ホワイトクリスマスですねぇ」
「降ったとしても夜中だから、もうクリスマスは終わってるけどな」
「もう、真さん! 情緒がないことを言わないでくださいよ!」
せっかくの気分に水を差され、憤慨した様子のハナコを真は横目で見る。彼としては積もったりしたら面倒だ、くらいにしか思わなかったが、彼女はそうではないらしい。
「しかし、お前、そういう知識はあるんだな」
「これでも年頃の女の子ですからねぇ。ロマンチックに浸りたいときもあるのですよ」
「雪を見たことがあるのか?」
「そりゃあ……うーん、どうなんでしょうね。知ってるってことは、見たことがあるのでは?」
頼りなく言うハナコに溜息を返し、真はもう一度空を仰ぐ。と、そこで彼は視界の端に、本宅の縁側から漏れる明かりの中に人影を捉えた。
凛と、彼女と手を繋いだ翼だった。
「皆さーん! そろそろ夕飯の準備が出来るので、お家に入ってくださいね!」
片手を口に添えて呼び掛ける凛に、三人はそれぞれ手を挙げて答える。そして、一番にハナコが飛び出していき、凛と翼の間に混ざった。
「凛さん! 今夜は雪が降るそうですよ! ロマンチックだとは思いませんか!?」
「え、ああ……そうですね。でも、積もるとお買い物とかが大変なんですよねぇ。洗濯物も干し辛くなりますし」
「うわぁん! ここにも現実的な意見の持ち主がいますよ! つ、翼ちゃんは雪、楽しみですよね!?」
翼を間に挟み、きゃいきゃいと騒ぎながら三人は家の中へと戻って行った。そんな彼女たちの姿を、やれやれと言わんばかりの顔で見送る真の肩を、礼が叩く。
「俺たちも行くぞ。それで、どうだ真。久々に実家に帰った感想は」
「……ああ、悪くないよ」
「くく……悪くは、ないときたか」
歯切れの悪い弟の物言いに、礼は両腕を組んで噛み殺したような笑い声上げた。
「なんだよ?」
「なぁに、素直になれん弟を、つい微笑ましく思ってしまっただけのことだ。しかし、俺と姉さんにはそれでいいが、凛の前ではもう少し言葉を選べよ?」
「――? なんで凛が出てくるんだ?」
「翼はあれで人の心に敏感だ。お前と顔を合わせ、触れ合ったことである程度お前の気持ちも察してくれるだろう。だが、凛は不安だと思うぞ」
礼の言葉に眉を顰め、真はすでに見えなくった凛の背中を追うように、視線を縁側へと向けた。
凛と真の出会いは当たり前だが、珊瑚と同じくする。小学生の高学年、まだ幼い少年にとっては、そろそろ男女の違いにも意識が向き始めよう頃のことだった。
当時、凛は今ほど底抜けに明るいという感じではなかったが、新しい環境に馴染もうと必死だったに違いない。ほとんど年が同じの真は、何かと彼女に食らいつかれていたような記憶がある。
幼馴染にというには出会いは遅いかもしれないが、中学の三年間も共にしている。それなりに付き合いは長い方だろう。
「凛は、この家での自分の居場所を探している。役割とでもいうべきかな」
「役割?」
「姉妹が家に来るきっかけになったのは、姉さんが珊瑚を落としたからだからなぁ。凛はどこか、自分の事を珊瑚のおまけ程度にしか思っていないところがある」
「……」
少しばかり寂し気な色を乗せ、礼は呟くように言った。真の中に反駁の言葉はいくつかあったが、結局彼はそれを口にできなかった。
珊瑚は姉との繋がりがある。翼も血縁関係がないとはいえ、養子として正式に家に迎えられた身だ。凛には、そうした後ろ盾のようなものが薄いのだ。
もちろん、浅霧家の面々は凛を家族として接しているし、それは彼女も解っていることだ。
しかし、礼の言うことは客観的に見た事実を捉えた上でのことでもある。そして、そうした彼女の気持ちを駆り立てる原因となったのは、間違いない。
「お前が家を出るとなったときは、色々難儀したものだ。お前は気付いていなかったかもしれないが、凛は大分塞ぎ込んでいたんだぞ」
お前を責めるわけではないがな、と礼はフォローのつもりか付け加えるように言ったが、それで真の自責の念が晴れることはなかった。
「姉さんも姉さんで、葬儀の後は取りつく島もなく出て行くわで、一家離散の危機を感じたものだ。だがまあ、しかし――」
ポンと真の頭を乱暴に撫でつけるように手を置いて、礼は何の含みもなく、楽しそうに笑った。
「姉さんも、お前も帰って来た。凛も待っていた甲斐があるというものだ。無論、俺もだ」
「……なんだ? 待つことが、凛の役割だっていうのか?」
煩わしそうに兄の手を振り払い、真は笑う兄の顔を見上げる。彼の問いに、礼はゆっくりと首を横に振った。
「少し違うな。俺が凛に言ったのは、守ることだ」
「守る……?」
「俺たちは家族で、ここは家族の家だ。だから、出て行ったとしても、いつか必ず帰って来る。そのときに、家に誰も居なくなっていたら寂しいだろう? だから、出て行った家族が安心して帰って来れるよう、信じて家を守り続けること。俺が凛に言ったのは、そういうことだ」
「……だいぶ、損な役回りだよな。それって」
「そう思うなら、今回に限らずたまには顔を出しに来い。その方が、花も増えて俺も嬉しい」
鷹揚に笑い、「さて、長話をしても怒られるな」と話を打ち切り、礼は歩き出した。真も無言のまま、兄の背に続く。
冬の寒さから守るように、縁側から漏れる家の明かりが、温かく二人を出迎えていた。
◆
夕食と風呂を済ませ、寝間着へと着替えた真は、早々と自室へ引き上げることにした。
件の会合についての話は、明日に改めて話すということになり、身体を休めるためもあったのだが、実際のところは酒の入った姉と兄から逃れるための方が理由としては大きい。
夕食は珊瑚と凛の姉妹合作で華やかに彩られることになり、真は団らんという雰囲気を久しく感じたのだが、それはそれである。
私物は着替え以外ほとんど持って行かなかったため、自室の中は出て行った時から変化はないようだった。懐かしさを感じ、真の気持ちは安堵に緩む。
……いや、違うか。
変わりはないということは、それまでの間、維持されていたということだ。部屋の角に置かれた机、箪笥などの家具には埃が積もることもなく、掃除が行き届いている。
「凛さんに、感謝ですね」
くるりと部屋を眺めたハナコが、真に笑いかける。彼女の言う通り、留守の間は凛が家のことを色々と切り盛りしてくれているのだろう。
真は畳の上に押し入れから出した布団を敷き、その上に今日の疲れを丸ごと投げ捨てるように身を放り出し、深く目を閉じた。
何も考えずにそのまま眠ってしまいたい気分だったが、あいにくと考えることは山積みで、眠気は訪れなかった。
「ハナコ」
「はい、何ですか?」
枕元に膝を折ったハナコが、呼び掛けに穏やかに答える。彼女も何か考えることがあるのか、言葉は少なかった。
「静姉の言っていたこと、お前はどう思う?」
「……戦い方を覚えろって話です?」
「ああ。お前、先生に無茶はするなって言われたんだろ? 正直、俺も同じ意見だ」
ハナコが戦い方を覚えることで戦力が上がる。理屈の上では分かるが、真の感情としては否定したいところだった。
そこにはどうしても、暴走の影がちらつくためだ。
ハナコが霊体を保てなくなるほど消耗した果てに、彼女の奥深くに眠る人格が起き、暴走は起きた。今はその扉は閉じられているが、おそらく、彼女が戦うことでまた開くリスクは高まることは想像に難くない。
扉の鍵は、すでに壊れてしまっているのだ。
「そうですねぇ。何処までを無茶と言うのかによりますが……」
ハナコは頬に指を添えて、考え込むように視線を宙にさまよわせた。
「わたしはなるべく真さんのお役に立ちたいと思っていますので、静さんの提案に異論はないです。けど、果たしてわたしに何ができるのか……痛いのは嫌ですしねぇ……」
「お前、真面目に考えているのか?」
のんびりとした彼女の言葉に真は眉を顰めて上体を起こすと、ハナコに向き直った。
「心外ですね。真面目ですよ。だから、あれから『彼女』と話ができないか、試しているんじゃないですか」
ハナコは真の目を見返して言った。
「成果はありませんけどね。やっぱり、わたしから呼び掛けるのは無理なのかもしれません」
「……そうだったな。お前には、また余計な苦労をかけている」
落胆した様子を見せるハナコに、真は一言詫びる。すると、彼女は苦笑して顔の前で手を振った。
「そんなこはありませんよ。これは、わたしのことでもあるわけですしね」
ハナコが今、密かに行っていること。それは、彼女の魂に眠る人格との対話だった。
それが彼女の本当の人格なのか、まったく別の者なのかは不明だ。しかし、またいつ現れるとも知れない彼女の問題を解決しなければ、ハナコの魂を浄化することはできないと二人は判断していた。
なので、ハナコは日中は姿を消し、自身の魂の深くを探ることを初めて意識していた。しかし、これが上手くいかず、ハナコの精神的な疲労が溜まるばかりで、未だ成果は上がっていない。
先日、学校で真が柄支に対し、ハナコは眠っているようなものと言ったのは、そうした影響下に彼女がいるからだった。
「わたしのことは、まあ良いですよ。それよりも、問題は真さんの方です」
「俺の?」
疑問の目を向ける真に、「ほら、わかってない」とハナコは鼻から息を吐いて口を曲げた。
「如月先生に言われたじゃないですか。可能性を諦めるなって。真さんの身体は、まだどうにかできる望みはあるんですよ」
「そのことか……だが、結局は不可能だって結論になったろう?」
「だから! 諦めちゃダメだって話ですよっ!」
身を乗り出して息巻くハナコに、真は思わず上半身を仰け反らせる。何故こうも温度差があるのか、ハナコは真の態度に納得いかず怒りがあったのだが、不意に悲しくなって顔を俯かせてしまった。
「ねえ、真さん」
「……なんだよ?」
ハナコは俯かせた顔を上げて、真を見る。彼女の瞳は、真っ直ぐに彼の胸の内、その最奥までを見通すようだった。今までに見たこともない彼女の表情に真は当惑し、問い返すことしかできなかった。
「真さんは、本当に生きたいと思っていますか?」
そう切り出すハナコの唇は、微かに震えていた。
「わたしに言ってくれましたよね。俺と生きろって」
「ああ……」
「そして、こうも言いました。一緒に死んでやるって」
「……そうだな」
「生きろって言われて、嬉しかったです。でも、一緒に死んでやるって、どういう意味ですか?」
真は喉が詰まったように言葉を吐くことができなかった。ここまで言えば、彼にもハナコが言いたいことの予想くらいつく。
「わたしは、何度でも言います。真さん、あなたの命は、あなたのものでしかないんです。あなたを助けたのはわたしで、例えわたしの魂が真さんを生かしていたとしても、それは変わりません」
「ハナコ――」
真はハナコを止めようと口を開いたが、一度溢れ出た言葉は止まることはなかった。
「珊瑚さん、静さん、礼さん、凛さん、翼ちゃん、皆、真さんのことが好きなんですよ。柄支さんたちだって、新学期になれば真さんと会えるのを楽しみにしてくれているはずです」
ハナコの潤ませた黒い瞳が、真の瞳を撃つ。
「真さん、あなたは、あなたの周りの人……全部の想いに気付いてくれていますか? 皆の想いに応えて、生きようって思ってくれていますか?」
「それ以上は言うな」
真はハナコの肩へと手を伸ばそうとした。しかし、彼の手は彼女に触れることはできない。
そして、寂しげな笑みを白い顔に湛えながら、彼女の口が言葉を紡ぐ。
「あなたは、どこまで自分の未来を見据えて、わたしに生きろと言ってくれたんですか?」
二人の視線がぶつかり、部屋は水を打ったような静けさに包まれた。
真は、耳に自分の鼓動がまとわりつく不快感を覚えた。面と向かってここまで詰問されたのは、初めてのことだった。
「……ごめんなさい。こんなこと言うつもりじゃなかったんですけど……ちょっと、頭を冷やしてきますね!」
「あ、おい!」
答えのない問い掛けから、先に目を逸らしたのはハナコだった。
真が止める間もなく、伸ばされた彼の手から逃れるように、彼女はするりと部屋をすり抜けて行った。
追いかけるべきか僅かの間考えたが、真は伸ばした手で空を握り、力なく布団へと振り下ろすだけで立ち上がることはしなかった。
空気の抜けるような腑抜けた音がし、真の胸には余計に苛立ちが募り、鼓動もまた煩くなる。
「そんなことは、分かってる……」
この命は彼女に助けられ、彼女と繋がっているもの。
だから、彼女が生きようと望む限り、自分もまた生き続けようと思った。
だが、その前提は間違っている。
この命は借物ではなく、自分のもの。ならば、自分の為に生きなければ嘘だ。
ハナコを言い訳にして生き続けるというのなら、自分はあの日のまま、死の延長線上にいるのと同じこと。
……じゃあ、どうしろっていうんだ。
ぐっと奥歯を噛んだ真は、布団に突き立てた拳に力を込めた。
きっと、自分はこの考え方を変えられない。ただ生きたいということで、このままハナコを縛り続けることが正しいことだとは思えない。
たとえハナコが、真に生きていて欲しいと切に願っていたとしても。
今、真がハナコに何を言おうとも平行線のままだ。
すれ違うことも、絡まることもなく、互いの考えを理解し合いながらも、決して交わることはない。
それが分かっていたからこそ、お互いに明確な追及は避けていた節さえあったのに、突然のハナコの糾弾は真の目の前を暗くさせていた。
「――真くん、起きてる?」
と、真が思考の迷路に陥りかけようとしたとき、廊下から控え目な声が襖越しに彼の耳に届いた。彼は顔を向け、口を開く。
「凛か?」
「うん。その……入ってもいいかな?」
「ああ、構わないが……」
訊ねる凛の声は、ほのかに緊張した色を感じさせるものだった。せめて陰気臭い顔は見せまいと、真は姿勢と表情を正し、肯定を返した。
「じゃあ、失礼しま~す……」
そっと襖が開けられ、隙間からひょこっと凛の明るい栗色の頭が突き出される。その行動にいったい何の意味があるのか、顔だけ覗かせる凛に、真は眉間に皺を寄せた。
「いったい何をやってるんだ? 入るなら、早くしろよ」
「うん、じゃあ」
凛は残りの部分を引き開けて、部屋へと入ると後ろ手に襖を閉めた。流石にもう就寝前のため、彼女の恰好はメイド姿ではなく、ピンク色の寝間着姿になっていた。
「あ、もう布団敷いたんだね。寝るところだった?」
「大丈夫だよ。それで、どうしたんだ?」
「えっと、ほら、まだちゃんと、積もる話というのもしてないなぁ~と思ってさ。ちょっと、お話しない?」
「なんだ、そんなことか……」
はにかみながら言う凛に、真は溜息交じりに笑った。
「そんなに緊張した顔をしてるから、何を言われるかと思ったぞ。まあ、座れよ」
「え、わたし、そんなに変な顔してた!?」
慌てた様子で赤くさせた頬に両手を当てる凛の姿に、真の笑いは深くなる。
「落ち着けよ。ますます顔が変になるぞ」
「うぬ……、酷いぞ、真くん!」
最終的に口を尖らせ、凛は敷かれた布団の前で膝を揃えて座った。緊張も解れたのか、まだ頬に赤味は差しているものの、いつもの明るい表情に戻っている。
屈託なく笑う幼馴染と呼ぶべき少女を前に、真の胸には彼自身でも気づかないほどの、ささやかな痛みが起こっていた。




