20 「誰がために 前編」
暗い底なしの泥濘の中へと、真の意識は沈み続けていた。
今朝、夢で見た暗闇と同じ――否、より濃密になっている。進むにつれて重みを増す闇の重圧に、彼の意識は半分ほど溺れかけていた。
意識の隙間へと闇が次々と群れを成して侵入し、中身をぐちゃぐちゃに掻き回される。自分ではない何かに、存在そのものを上書きされるような、不快な感覚に襲われた。
……俺は、また死ぬのか。
全身を刃に貫かれたところで真の記憶は途切れていた。つまりは、戦いに敗れたということなのだろう。
結局、何も成長できぬまま、何も返せぬまま終わってしまうのか。
ここは憤激するところだ。意識がまだあるのなら、この身が朽ち果てようとも立ち上がり、戦う場面のはずだ。
しかし、いくら心に訴えようとも、意識が闇に食い散らかされていくのが分かった。既に終わったものが、立ち上がれるはずもない。
珊瑚は生き延びることができるだろうか。そして、いまだ目を覚まさないハナコは、自分が死ねばどうなってしまうのか。
せめて一言謝りたかった。守ってやれなくて、すまないと――。
「何を終わった気になっているんですか!! 諦めないでください!」
「――!?」
突然の声に、真の意識の中で蠢く闇がぴたりと動きを止めていた。真は散らばった意識を寄せ集め、辛うじて周囲を認識することに成功する。
「ハナコ……か?」
「そうですよ! ダメです! 今寝たら本当に死にますよ!」
真の顔を覗き込むように、彼の目の前に黒髪の少女が現れていた。同じく大粒の黒い瞳が、今にも泣きだしそうな形に歪められている。
「お前、意識が戻ったのか?」
「はい……なんと申し上げればよいか微妙なところですが、一応は」
歯切れの悪いハナコの返答に真は疑問を感じたが、無事な彼女の姿を見て安堵の方が勝っていた。たった一日のことなのに、随分と久し振りに顔を見た思いだった。
「それよりも、真さんは早くここから出て行ってください! ここは危険です!」
「おい、ちょっと落ち着け。何か知っているならまずは説明を――」
しかし、真の気持ちを他所にハナコは早口に捲し立て始めた。彼女は何かに焦っており、どうやらこの状況を良く思っていないらしい。
こうして会話ができる以上、やはりただの夢というわけではないのだろう。ひとまず真は彼女を落ち着かせようとした。
『邪魔をしないで』
だが、それ以上何か言おうとしたところで真の意識に食い込んだ何かが、声を発していた。
ぎしり、と再び真の意識は締め付けられ、闇が這い回る感覚が蘇る。
『ねえ、あなた。このまま死にたくはないでしょう?』
「……何だと?」
そのおぞましい感覚に耐えながら、聞こえる声に真は答える。明らかに、声は意志をもって彼に問いを投げていた。
『このままだと、あなたは死ぬわ。けれど、わたしたちならあなたを助けることができる』
声は少女のそれだったが、どこか蠱惑的だった。それも、一人ではない。声音は同じなのだが、それを発している人格はそれぞれ別のものだと言うことが、真にははっきりと分かる。
今まさに、彼の意識を呑もうと群れを成した闇と同じ――無数の存在を感じていた。
「その声を聞かないでください! 真さんを惑わさないで!」
『惑わす? 違うわ。わたしは、彼を助けるの。彼が死ねば、あなたはまた独りきりに戻るのよ。それでいいの?』
「わたしは……!」
ハナコはその声の正体を知っているのか、強く訴えかけるが逆に問い返されて言葉に詰まった。彼女の苦渋に満ちた表情を見て、真は声の言うことが真実なのだと直感した。
「……ハナコ、俺の身体が今どんな状況なのか、お前は知っているのか?」
死の瀬戸際に立たされているだろう自分の肉体を思いながら、真は訊ねた。ハナコは辛そうな顔を俯け、無言のまま小さく頷く。
「なら、わかるな。このまま引き下がれるかよ」
そう言うと、真は己の内側へと意識を向けた。
「おい、お前が俺の身体を使って、それで逆転の目があるっていうんなら、好きにしろ」
「真さん! ダメです! そんなことをしたら、真さんの心がもたなくなる!」
「言い合っている暇はないんだ。もしかして、今までお前が押さえていてくれたのか?」
『そう……その子の一時的に弱ってくれたから、わたしは少しだけ表に出ることができた。そして、あなたが最後の枷だったのよ』
真の意識を貪りながら闇は言う。真とハナコ、二人の意識が弱まったおかげで、こうして彼女たちは自分の意識を目覚めさせる切っ掛けを得た、ということなのだろう。
「真さん……どうか、それを拒んでください。意志を強く持って!」
「そうはいくかよ。もう、わかっている。この闇は、全部『お前』なんだろ?」
ハナコが息を呑む音を、真は確かに聞いた。
「なら、受け入れて見せるさ。約束しただろ」
この泥の中は、ハナコの意識――魂の奥底なのだ。この闇は、彼女の忘れた記憶の一部と言うべき存在なのだろう。忘れたとしても、決して失ってはいなかった。
ハナコに昔何が起きたのか、正確なところは真にもまだ分からない。だが、これが彼女だと言うのなら、それを拒絶することなど出来るわけがない。
「ごめんなさい……! わたし……真さんを裏切った!!」
見ればハナコは両手で顔を覆い、激しくかぶりを振っていた。彼女の叫びには、今すぐにでも消えてしまいたいという悔恨の痛みが込められていた。
「珊瑚さんを庇って意識を失って……気付いたんです。わたしの中には、多くの『わたしだった』ものがいるってことに……」
『あなたも、一度見たでしょう? わたしの奥にある、呪いを。恨みを。怨嗟を』
「ああ……やっぱり、あれはお前だったんだな」
「信じられませんでした……自分の中にこんな感情があったなんて怖かった……でも、もっと恐ろしかったのは、わたし自身です! わたしは、多くの『わたし』を殺していた……! 殺して、殺して、殺し尽していたんです!」
「ハナコ! 自分を責めるな! それは……きっと、仕方のなかったことなんだと思う……お前は、何も悪くない」
懺悔にも似たハナコの悲鳴を聞いていられず、真は叫ぶ。しかし、本当のことを知らない真の言葉は上滑りなものでしかなかった。
『ええ、そうね。その点について、その子は何も悪くない。わたしたちは皆、被害者なのだから。でも、問題はそこじゃないのよ』
「……どういうことだ?」
『わたしたちが赦せないのは、その子が生きようとしたことよ』
黙るハナコを弄ぶように、声は嘲笑に揺れていた。
『死にたかったのよ。けど、魂は死ねなかったから、死んだように生きていた。それだけだった。苦しい自分、痛い自分、辛い自分、全部を殺して生きていたの』
「やめて……あなたたちが恨んでいるのは、わたしなんでしょう。だったら――」
『だったら、今すぐ死んでくれるの?』
「それは……そんなこと……!」
『できないでしょう。死にたかったくせに、一番表のあなたが生きようなんて希望をもったせいで、絶望しかもたないわたしたちが迷惑するのよ……!』
激しい憤りを孕んだ声に、真の意識がかき乱される。彼はどうにか堪えながら、その声に耳を傾けようとした。
「お前……いや、お前たちか……いったい何があったんだ? 生きることに、何の不満があるって言うんだよ」
『何があったか? それは、もうわからない。わたしたちには、ただ、辛いとか、苦しいとか、そんな感情しか残ってないの。幸せな記憶だってあったのかもしれない。でも、そんなものは全部絶望に塗り潰された。そして、その重みに耐え切れなくなった時点で、わたしはわたしを殺すの』
「その上にいるのが、きっと、今のわたし……なんです。おかしいですよね。わたし……真さんの命を救って、生きろだなんて、どれだけ自分の事を棚上げにしてるんだって感じですよ」
ハナコは目を伏せて、どこか寂し気に自嘲する。
「真さんには、知られたくなかった……わたしは、あなたを信じることができなかった」
『あなたは、さっき受け入れるって言ったよね。こんなに醜くても、汚い感情しか持ってなくても、受け入れてくれる?』
「……当たり前だ。二言はねえよ」
『そう……だったら』
その瞬間、突如としてハナコの胸に亀裂が走った。
「え――?」
ハナコは何が起きたのか理解できず、見開いた目で自身の身体を見下ろした。
亀裂は更にみしりと耳障りな音を立て始める。その隙間から暗い光が漏れ出した瞬間、彼女の胸を抉じ開けるように、黒い枯れ枝のような腕が飛び出していた。
「あ……ああああああああああああああッ!!!」
「ハナコ!!」
ハナコは胸を掻き毟るように爪を立てて絶叫した。腕は次から次へと湧き出すように、這いずるように彼女の中から現れ、それらは全て真の意識へと掴みかかった。
雪崩のように押し寄せるその圧倒的な量の前に、真の声は瞬く間に呑まれて意味をなさなくなる。
視界は黒く染まり、先ほどまでとは比ではないほどの意識の波が強烈な熱となり、彼の意識を焼き切らんばかりに苛んでいた。
『そう思うなら、受け入れてみろ』
『あなたがいる限り、わたしたちは死ねないの』
『あなたが悪いのよ』
『そう、あなたが悪い』
『あなたが、生きようなんて願うから』
『いつまでたっても――』
『そう、いつまでたっても、わたしたちは苦しいまま』
『あなたが、わたしに生きたいなんて思わせた』
『わたしを独りに戻して』
『だから、どうか死んで』
『死んでしまえ』
『死ね』
『今すぐに希望を捨てて死んでくれ』
『そして、どうか』
『わたしを殺して』
「――やめてええええええええッ!!!」
……ハナコ……俺は、お前を……。
悲痛に満ちた少女の叫びを耳にしながら、真は崩れゆく意識の中で強く想う。
例えこの身がどうなっても、どんな結果になろうとも、彼女のことだけは忘れぬよう、最後の瞬間まで強く想い続けていた。




