02 「千島珊瑚」
近所のスーパーで買い物を終えた真は食材の入ったレジ袋を自転車の前籠に乗せ、帰路を走っていた。
通りを抜けた先には対岸距離数百メートルに及ぶ川があり、それに沿って道を北上する。遠目に車などが渡るための大橋が見え、その更に先には山が望むことができた。
対岸にはビルを中心とした商業地区が小さく見え、夕暮れに赤く染まる眼下の河川敷には人が散見される。
犬の散歩をしている者、ジョギング中にすれ違う者、草野球をしている少年たち。日暮れが間近なため、いずれも直に帰路に着くだろう。
「今夜行くのは橋の先なんですよね?」
真の背中にしがみ付くような姿勢で追従するハナコが話し掛ける。真は振り返らず、視線を横にずらしてビル群を一瞥した。
「ああ。夜を待って橋を渡る」
「忙しくなりそうですかねぇ」
「さあな。もちろん油断はできないが……」
真は曖昧に返事をして、差し掛かった分かれ道の右手を選ぶ。ここから先は住宅地となり、しばらく住宅街の方へと入ると現在彼が暮らしているマンションが見えてきた。
市長の紹介で入居を勧められた、閑静な場所に構える六階建てのマンションである。
他の住人と会うこともなくエレベーターに乗って最上階へ着くまでの間、真は今日の出来事を回想しながらゆっくりと吐息と共に肩を落とした。
そうして、仮住まいとしている最上階の角部屋へと向かい、玄関の扉を開ける。すると、夕飯の匂いが彼を出迎えてくれた。
半年の間にようやく慣れた日常の空気を感じ、そこでようやく人心地ついた気分となる。
「ただいま、珊瑚さん」
フローリングの廊下を進みリビングへと出た真は、奥のキッチンに向けて帰宅の挨拶をした。
そして、彼の気配を察したその女性も振り返り、華やかな笑顔を見せて一礼を返す。
「おかえりなさいませ。真さん、ハナコさん」
彼女――千島珊瑚は、浅霧家が雇っている使用人である。
この春から実家を離れるにあたり、真の身の回りの世話をするために彼と共に暮らしている。
常に浮かべられている彼女の優しい微笑みは、真の生活にとって密かな癒しだ。
今は料理中のため、いつもは下ろしている長い栗色の髪は項で纏められている。薄手のニットのセーターと丈の長いスカートの上に小鳥が刺繍されたエプロンをしており、家庭的な趣を演出していた。
正確な年齢は聞いたことはないが、二十代前半くらいではないかと真は想像している。
「珊瑚さん、ただいまです。今日のご飯は何ですか?」
「お前は、食えないくせに聞いても仕方ないだろ」
キッチンへと文字通り低空飛行で飛んで行くハナコを追いながら、真は食事用のテーブルへ荷物を置いた。
「ありがとうございました。後は、私がやりますね」
二人のやり取りを笑みのまま見守りつつ、珊瑚は真が買い出ししてきた荷物を引き継ぐ。
手際よく夕食に使うものと保存するものに仕分けられ、数分の内に食材たちは片付けられた。
その様子をなんとなく眺めていた真は、ふと我に返って彼女から視線を外す。
実家では幾度となく顔を合わせて話もしているというのに、未だに慣れないことの方が多いから不思議だった。
一人暮らしをするつもりで準備をしていたところ、珊瑚が付いてくることを聞かされたときは耳を疑った。というのも、彼女が同居することは実家の強制であったからである。
抗議はしたが、これは予想通り無駄であった。年若い男女が二人で暮らすことに対する抵抗もあったが、それ以上に認められていないという思いが強かった。
実家を離れるのは認められても、独り立ちは認められない。
暗にそう言われているのである。
「真さん、ぼうっとしてどうしましたか?」
「ん? いや……なんでもない」
物思いに耽りかけたところをハナコに話しかけられ、真はかぶりを振った。
「ほんとですかねぇ。珊瑚さんに見惚れていたようにも見えましたけど?」
「アホか。変なことを言うんじゃない」
「ふふ、真さんに見られる分には、私は構いませんよ?」
「なんと寛大な対応。やはり、持てる者は余裕がありますね、真さん」
「さり気なく同意を求めるんじゃない」
珊瑚の顔から下に視線を向けるハナコを真が睨む。彼は一度咳払いをして会話を区切ると、改めて珊瑚に向き直った。
「珊瑚さん、今夜は依頼で出かけます。聞いてますか?」
「心得ております。開発区の方ですね」
「そうです。準備は勝手にやりますから」
「かしこまりました。では夕食ができたらお呼びしますので、お休みになられてください」
「いや、手伝いますよ」
「いえいえ、真さんにはお買い物をして頂きましたし、それに後少しですから」
「そうですか? じゃあ、必要なら言ってくださいよ」
「はい、ありがとうございます」
控え目ではあるが、はっきりと断られてしまい真は仕方なく申し出を取り下げる。珊瑚の笑みには、真にとって逆らい難い効果があるのだった。
自室へ引き上げた真は、制服から私服へと着替えて今夜のための準備をすることにした。
とはいえ、必要なものは限られているので大して手間はかからない。床へ腰を下ろした彼は学生鞄の奥を探り、あるものを取り出した。
長方形の手の平に余るサイズの木箱である。細工もなくシンプルなもので、進から受け取った依頼書と一緒に外出用のショルダーバッグへと入れる。
「はぁ~、やっぱり人と話すのは気持ちが良いですねぇ」
と、一通り準備を終えたところで気の抜けた声が近づいてきた。音もなくドアをすり抜けて部屋に侵入してきたハナコだ。
「お前は珊瑚さんの邪魔をするなよ。それから、すり抜けてくるな」
気を引き締めかけていた矢先に見るから締まらない顔を目にしてしまったため、やや不機嫌そうに真は言った。
ハナコにとって珊瑚は貴重な話し相手の一人である。普通に会話をしていた通り、珊瑚の目には彼女の姿が見えているのだ。
そのため家では学校以上に絡まれることはないので助かるのだが、家では普段以上に饒舌になる彼女に辟易する部分もあった。
「おっと、失礼しました。でもまあいいじゃないですか。着替え中の乙女というわけでもないのですし」
「そういう問題じゃないんだよ。学校のことといい、ただでさえお前には面倒をかけられているんだ。頼むから少しは慎め」
「命令口調で頼まれましてもねぇ。もしかしてアレですか? 珊瑚さんとの愛の巣にわたしのような邪魔者が現れたことが、やはり気に食わないと言うわけですか?」
「……はぁ、もういい。言葉じゃ反省できないみたいだな」
軽口を止めようとしないハナコに対し、真は静かに言葉を吐く。
そして、彼は先ほどリュックにしまった木箱を取り出して目の前に置いた。
「家で調子に乗ると痛い目を見るぞ」
真が木箱の蓋に手を触れる。瞬間、肌がひりつくような空気の変化が起こった。
「え……まさか……?」
目を見開いたハナコが、「嘘ですよね?」と表情で訴えかけてくる。
しかし、真の目は笑っていなかった。
霊体であるハナコは物理的な干渉を受け付けない。そのため、ドアをすり抜けて部屋に入ることもできる。生きている存在が触れることは、基本的に有り得ない。
だが、物事に『基本的に』とつけられることがままあるように、例外は何事にも存在する。
生きている浅霧真は、霊体のハナコに触れることはできない。
それでも、見ることはできる。存在を認めることができれば、干渉する術はあるのだ。
「お、お助け!」
背中を向けて退散しようとするハナコだったが、彼女の身体はその場に釘付けになったように動かなかった。恐る恐る振り返れば、こちらを睨んでいる真の顔がある。
「お前は俺に憑いているんだから、逃げられるわけないだろ」
「はは、ですよねぇ」
渇いた笑い声を上げるが、それで許されるはずもない。真は木箱を手に取って立ち上がり、ゆっくりとハナコに歩み寄る。
彼の怒気がそのまま空気の圧力となり、彼女に重く圧し掛かった。
それに耐え切れずに膝から崩れ落ちたハナコは祈るように両手を重ね、間近に迫って見下ろしてくる真を上目遣いで見上げた。
「ゆ、許してくれませんか? 成仏だけはご勘弁を……」
「安心しろ。今の俺にはお前を成仏させられない。それは、お前も理解してるだろ?」
「そ、それでは」
希望の光が目に宿ったところで、真はそれを閉ざすように口を開いた。
「だが、多少痛い目に合わせることはできる」
「うわぁん!」
「調子に乗った報いだ。甘んじて受けろ」
真が木箱の蓋を開けようとする。その時だった。
「真さん。夕食ができましたので、お越し下さい」
控え目なノックの音と共に聞こえる珊瑚の穏やかな声に、部屋の空気が瞬時に沈静化した。
「……分かりました。すぐに行きます」
真は怒りを吐き出すように大袈裟な溜息を吐いて、表情からもその感情を削いだ。
蓋を開けかけた木箱をリュックに戻し、制止したハナコを尻目にドアを開ける。
廊下には、変わらぬ笑みを浮かべた珊瑚が立っていた。
「珊瑚さんは、ハナコに甘いですね」
「さて、何の事でしょう?」
少し皮肉を込めて言ったつもりだったが、珊瑚は首を傾げて微笑むだけだった。
「タイミングが良すぎです」
「どうやら、お邪魔だったみたいですね。ですが――」
「うわぁん! 珊瑚さん、ありがとうございます!」
硬直から解けたハナコが情けない声を上げて珊瑚に飛びついた。珊瑚は「あらあら」と困った顔で目を細めながらハナコの身体に抱きしめる風に手を回し、頭を撫でる仕草を取る。
「真さん、女の子を苛めてはいけませんよ」
珊瑚はハナコをあやしながら、真を窘める。決して悪いことをしたつもりはないのだが、彼女に言われると不思議と心に罪悪感が湧いてしまうのだから敵わない。
「……やり過ぎた。ハナコ、悪かったな」
そうして、真の口から歯切れ悪く謝罪の言葉が告げられる。
「ほら、ハナコさんも」
珊瑚に促され、身体の震えを止めたハナコが不安げな顔を振り向かせた。
「わたしも、少し調子に乗りました。ごめんなさい」
真は謝罪を受け入れて頷いた。ひとまず、珍しく殊勝に頭を下げる少女の姿が落としどころだろう。
「ふふ、二人ともよくできました。それではご飯にしましょう」
空気を変えるようにポンと両手を合わせ、珊瑚の明るい声が廊下に響く。状況に追いついていない二人を置いて、彼女は先にキッチンへと引き返していった。
「あの、真さん……」
「そんな顔するなよ、まったく」
探るような目で声をかけてくるハナコの頭に真は手を乗せる。実際は真似でしかないが、微かな感触らしきものはあるので多少の効果はあるだろう。
「とにかく、この話は終わりだ。飯を食って、休憩したら仕事だからな。気を引き締めておけ」
「あ……は、はい! お任せください!」
表情と声に調子を戻し、両手を力強く握ってハナコが言う。そんな彼女の様子に、真は心の内で苦笑した。