12 「戦うべき壁」
「古宮先輩」
社務所から出てすぐ、声を掛けられて麻希は振り返った。
「先輩、そんな恰好で表に出て大丈夫なんですか?」
新堂進だった。言われて彼女は自分の姿を見下ろしてみる。普段着として使用しているジャージだった。
「構わん。参拝客もいないからな」
参道を一瞥して麻希は興味なさげに言った。
「それで、何か用か?」
「いえ……ただ、後ろ姿が見えたものだったので。僕もご一緒していいですかね?」
「……好きにしろ」
麻希は構わず言うとさっさと歩みを再開する。進も付き従うように彼女の数歩後をついて歩き、二人は境内の奥にある拝殿へ向かっていった。
さほど大きくはないが、年期を感じさせる風情だった。周囲を覆う木々からは鳥の声が聞こえ、心地よい静寂と木漏れ日になった午後の陽射しに麻希の気持ちは自然と落ち着いていった。
麻希は短い石段を上ると鈴を鳴らし、一度息を整えた後、二礼二拍手一拝を行った。流石に慣れているのか、麻希の控えめながらも洗練された動作に進は感心しつつ、彼も彼女に倣って参拝をする。
「すいません。財布は荷物の中に置いて来てしまいました」
礼を終えた後、進は賽銭を入れられないことを麻希に謝った。麻希は「気にするな」と一笑し、石段へと腰を下ろした。
「そんなところに座っていいんですか?」
「子供の頃はこの辺りでよく遊んでいたものだ。神様も大目にみてくれるだろう」
「子供の先輩ですか。なんだか想像がつきませんね」
「どういう意味かは聞かないでおいてやる」
そこで麻希は飽き飽きしたと言った風に吐息し、隣に立つ進に視線を向けた。
「お前、私と御爺の会話を聞いていたな?」
「はい。盗み聞きする形になってすいませんでした」
下手な言い訳をすることなく、進は麻希に頭を下げた。そのことについて麻希は特に腹を立てていたわけではなかったので、片手を振って謝罪を受け入れる。
「私が退魔師になるなど、お前も馬鹿な話だと思うか?」
「そうですね。失礼を承知で言うと、古宮先輩はもう少し頭の良い方だと思っていました」
歯に衣着せぬ後輩の物言いに、麻希は思わず笑みを零した。
「まったく、可愛げのない後輩だ。お前は、私よりよっぽど大人だな」
「そうですかね。大人に抑えつけられるのには慣れているから、そう見えるだけだと思いますよ。基本的に、聞き訳が良いだけなんですよ。まあ、それも最近なくなりましたが」
父親のことを思いながら進は言った。
「なので、今は自分というものを少し持て余しているんです。つい考えてしまうんですよ。本当の自分とは何なのかって」
「それは哲学的な問いか?」
白けた様子で麻希が訊ねる。進は「いやいや」と首を横に振って、自らの言葉に対して苦笑した。
「そこまで大したものじゃないですよ。もうご存知だとは思いますが、僕は霊なんてものは信じていなかった。けど、この間のことを切っ掛けに変わりました。僕の芯にしていた価値観が崩れてしまったわけです」
「ふむ……それで、お前は昨日までの自分が自分でなくなったとでも言いたいわけか?」
相槌を打って更に訊ねる麻希に、少し考える間を取って進は頷いた。
「そうですね……それに近いかもしれません。浅霧を嫌いだった自分が、今は友人だと思っているわけですからね。こんな人間、自分でも信用できるか不安ですよ」
「なるほどな。だが、私からすればお前は変わってなどいないぞ」
「そう、ですかね?」
「ああ、お前は繊細で臆病な人間だ」
「それは、ずいぶんな評価ですね」
「自分の変化に戸惑っているのが良い証拠だろう。そうやって自分のことを話して、私に踏み込むための距離を計ろうとするところなどな」
「あはは、流石に敵いませんね」
決まりが悪そうに頬を掻きつつ、進は石段を下りて麻希の前へと移動した。
「言いたいことがあるならさっさと言え」
「では、お言葉に甘えて……。退魔師になるなんて、馬鹿な考えは捨てた方が良いと思います」
「今度は馬鹿呼ばわりか。私も面目丸潰れだな」
「諫言も下につく者の務めじゃないかと思いましてね」
「今のお前の中の私は、その諫言を聞き入れると思うのか?」
「半々でしょうか。そもそも、どうして急に?」
「急というわけでもない。以前から考えていたことだ」
麻希はそこで言葉を切り、目を閉じて吐息した。
「私は不条理なことが嫌いなのだ」
「不条理……ですか」
「そうだ。さっき、子供の頃に境内で遊んでいたという話はしたが、私の両親はそれに反対していた。『お爺ちゃんのところに遊びに行ってはいけない』と、耳にたこができる程言われたよ」
「でも、遊んでいたわけですよね」
「何故、両親がそんなことを言うのか私には理解できなかった。御爺の存在自体を伏せられてはいなかった分、そこまで両親も非道ではなかったとは思うが、極力関わり合いになろうとはしていなかった」
「ご両親は、永治さんが退魔師だってことを知っていたってことですか?」
「さあな。しかし、今となってはそれも無関係ではないのだろうよ。ともあれ、幼い子供にそんな事情は知る術もないし理解もできない。私の目には、何故かは解らないが御爺が仲間外れにされているという風にしか映らなかった」
当時の光景を麻希は思い浮かべる。一人境内を掃除する祖父が、やってきた自分を見て困ったように笑っていた。一緒には遊んではくれなかったが、お菓子をくれたり、昔話のようなものもしてもらえた気がする。
仲間外れは良くないと、子供心に思った彼女は一人寂しい思いをしているであろう祖父の元へと頻繁に足を運ぶようになった。祖父の笑顔は好きだったし、そうすることで、なんとなく心が満たされる気がしていたのだ。
「私が御爺と仲良くしていれば、自ずと両親との軋轢もなくなるのではないかと、そんな風に思っていたのかもしれん。だが、実際はその逆だ。御爺への風当たりは強くなり、私も外出を制限されるようになってしまった」
「それは、きっとご両親は先輩の事を心配していたんじゃないんですか?」
「流石に今は理解している。だが、それを納得できるかどうかは話は別だ。子供の……いや、今の私にとっても、それは不条理なことなのだ。世の中には、何だかよくわからない理屈が働いていて、私は抑えつけられているのだとな」
「気持ちは、なんとなくですが解かりますよ。僕も似たようなものでしたから」
「私は御爺の元に居候しているのも、その不条理に対して何とか抗おうとした結果だ。成長すれば、そのよくわからない抑圧から抜け出せると根拠もなく信じていたが、どうやらそうでもないらしい」
麻希は膝に乗せた拳を握り、顔を上げて空を見た。
「ようやく、私の知りたかった不条理が見えたのだ。乗り越えるべき壁が目の前にある。手段も分かっている。だが、私にはそれを成すための力がない。そのための力を得る努力すらも許されないというのか?」
その先に、自分が打倒すべき相手を幻視するかのように、挑むように眦を強くする。
「一度は任せたつもりだったが、やはり浅霧にだけ任せておけるか。私は、私を抑えつける何かを許さない」
「先輩は、友人を守るためだけに……退魔師になることでそのしがらみから解放されると思っているんですね」
「駄目と言われるとな、分不相応なものを望んで反抗してしまうんだ。呆れた子供だろう?」
進は古宮麻希という人物をいくらか誤解していたと思っていた。学校で風紀委員としての彼女は規律を重んじる真面目なものであり、何かに反抗するというのは想像できないことだ。
しかし、風紀委員という立場も麻希にとっては反抗の一つでしかない。不条理に対抗するのは更なる不条理ではなく、条理ではなくてはならい。悪を悪で打倒するのではなく、悪を挫くのは善であれというのが彼女の信条だった。
そして麻希は、彼女が感じていた不条理の存在する世界を知ってしまった。それは進や麻希が知る常識では打倒できないものであり、どうしようもないものだ。
ただし、今はまだ、である。
異なる世界の条理が、麻希の知る世界に対して不条理となるのであれば、彼女は世界の境界を越えることを望む。そのための力を彼女は欲していた。
「そうですね……君はどう思う? 浅霧」
「何?」
「おい、新堂……ここで俺に振るのはずるくないか?」
進の問い掛けに、拝殿の側面の影から真が姿を現した。真は部屋で休んでいるはずと思っていた麻希は、彼の登場に若干驚いた表情を見せたが、それはすぐに険のあるものへと引き締められた。
「悪趣味な後輩ばかりだな。一度思い知らせた方がいいかもしれん……浅霧、どこから聞いていた?」
「不条理が嫌いというところあたりですかね……」
麻希の不穏な発言には触れず、真は気まずそうに形ばかりの笑みを浮かべた。
「すいません。俺は二人を呼びに来たんですが、何か真剣な話をしているようだったので」
「お前は人が真剣な話をしていたら盗み聞きをするのか?」
「す、すいません。先輩、もしかしてかなり怒ってます?」
「ああ。ちょっとした記念日にでもなりそうなくらいにな」
麻希は片手でこめかみを押さえながら真を睨みつけた。
「まあいい。私たちを呼びに来たと言ったが、用件はなんだ?」
「はい。一度居間に集まってください。珊瑚さんから話があります。今までの事と、これからの事について」
「それは、もう隠し事はなしということか?」
「そうですね。俺も珊瑚さんのことは全部知っているわけじゃないですけど、珊瑚さんが知り得る限りのことは、包み隠さず話してくれるそうです」
「そうか。なら、油を売っている場合ではないな」
立ち上がった麻希は進と真に背を向けて先に歩き出す。が、少し進んだ先で足を止め、顔だけを振り向かせた。
「浅霧。話を聞いていたのならお前にも訊ねるが、私が退魔師になりたいと聞いてお前はどう思うんだ?」
「先輩、もう進学はほぼ決めているんでしょう。将来を棒にふることはないですよ」
「真面目かお前は」
「気持ちはありがたいですけど、今は俺に任せてください。芳月先輩のことは、ちゃんと見れていなくてすいませんでした」
「あいつのことは関係が……いや、今はいい。私ももう少し考える。そのときに、また改めて答えを聞かせろ」
柄支の名前を出されて眉を顰め、麻希は前に向き直ってさっさと社務所へと戻って行ってしまった。
「じゃあ、僕たちも行こうか」
「俺への謝罪はなしか」
「盗み聞きをしていた浅霧が悪いんだろう。僕も人のことは言えないけどね」
溜息を吐く真に対し、進は肩を竦めて見せた。
「ところで古宮先輩の動機って、やっぱり芳月先輩なんだろうか?」
「それだけじゃないとは思うが、今回火が付いた理由はそうだろうな。結果的に無事だったとはいえ、危険に晒してしまったわけだし……落ち度が俺にある以上、強くは言いづらいな」
埠頭での戦いの際に、危険とはいえ真は柄支を一人にした。相手が悪ければどうなっていたかは分からない。
真についていったのは柄支の独断専行の気もあるにはあったが、麻希はそれについては責めるつもりはなかった。彼女が本当に責めたいのは、力のない自分自身なのだ。
それが彼女の言うところの不条理であり、それを覆せる力を持つのは現状、真や珊瑚しかいないのだ。だからこそ、真も責任を痛いほど感じていた。
力にはその大きさに応じた責任が伴う。永治が退魔師をやめたことも、その重さ故であるし、自分に背負いきれなかった道に孫を導いてやれるはずもないと彼は思っている。
「難しいよな。色々と、本当に……」
「あの人は手綱を握らせてくれるタイプじゃないからね。覚悟しておいた方がいいかもしれないよ」
麻希に対する評価を修正した進は先行き不安になりそうな台詞を言いつつ、項垂れる真の肩を励ますように軽く叩いた。




