10 「過去の暗示」
「芳月……?」
名乗り終えた沙也を見ながら、真は彼女の苗字を口にした。珊瑚もまた答えに至ったのか、口を噤み真と同様彼女を見つめていた。
「言っておくけど偶然じゃないわよ」
重い沈黙と二人の視線にうんざりしたように、沙也は自ら結論を口にした。
「芳月柄支は、あたしの実の姉よ」
「本当、なのか?」
真はそう言いながらも、沙也が敢えてここで嘘を吐く必要性があるとは思わなかった。言われてみれば顔は似ていなくもない。柄支の容姿からして、沙也が姉だと言われた方がまだしっくりくるかもしれないという程度だ。
「別に証拠まで見せて信じてもらおうとは思わないわよ。けど、これで分かったでしょ。あたしが、あんたを許さない理由が」
「ああ。だいたいな……」
「そう……じゃあ、ここであたしが、あんたを殺さない理由も分かるわね?」
そう言って、沙也はパーカーのポケットから取り出した何かを真に向かって投げてよこした。咄嗟に真は片手で掴み取り、それが何であるかに気が付いた。
柄支が身に着けていたペンダントである。真は顔を上げて沙也を見たが、彼女の表情からは何を考えているのか読み取ることはできなかった。
「それを持っているということは……柄支様に何かしたのですか?」
「あんた、人の話聞いてたの?」
珊瑚の問いに沙也は顔を歪めた。
「あたしがお姉ちゃんに危害を加えるわけがない。それは警告よ」
「どういう意味だ?」
「浅霧真、あたしはあんたを許さない。けれど、それとは別に貸しがあるからね……それを返させてもらうわ」
「――真さん! それを離してください!」
沙也の言葉にいち早く異変を感じ取った珊瑚が、真に向かって叫んだ。
「遅いわよ」
真の持ったペンダントの黒い宝石が微かに震えたかと思った瞬間、その奥から赤い光が迸った。光の噴出に耐え切れず宝石は真の手の中で砕け散り、光が真と珊瑚の視界を覆い尽くす。
「安心していいわよ。ただの目眩ましだから害はないわ」
咄嗟に珊瑚はフェイの身柄を確保しようとしたが、脇腹に衝撃を受けて身体を飛ばされた。倒れることはしなかったが、消耗し切った状況に追い打ちをかけられ彼女の呼吸が乱れる。
「悪いわね。殺さないとは言ったけど、抵抗するなら容赦なく痛めつけさせてもらうから」
蹴りに伸ばした足を下ろしながら冷めた声で言い放ち、沙也は倒れたフェイの右腕を持ち上げた。
「くそ!」
光に目を細めながら、真は苦し紛れに沙也へと手を伸ばそうとした。しかし、沙也が顔を上げて真に瞳を向けた瞬間、彼の身体は固まった。
「あたしに触るな」
沙也の髪が重力に反するように持ち上がる。見開かれた黒い瞳から発せられる威圧の霊気が、真の身体を押しのけていた。
「ふん……情けないわね。半端な力で何かを守れると思っている。あんたみたいな思い上がった奴が、あたしは嫌いなのよ」
呑まれた様子の真を見て、沙也は忌々し気に吐き捨てながらフェイを肩に担いだ。光が晴れたときには既に彼女は真と珊瑚から離れ、立ち去る準備を終えていた。
「待ちなさい。何故この場で始末をつけようとしないのですか? 情けをかけたつもりですか?」
「……たぶん、封魔省の件だろ。俺が、先輩を巻き込んだ」
疑問をぶつける珊瑚に、沙也の代わりに真が口を開く。たぶんとは言ったが、それしか思い当たることが彼にはなかった。
廃ビルの一件で柄支は危うく命を落とすところだった。たまたま居合わせた真が彼女を救う形となったが、その件をきっかけとして彼女は退魔師としての真と関わりを持つようになったのである。
「お前は、先輩が俺たち退魔の世界に関わりを持つようになったことが気に入らないんだな」
「そうよ。何のつもりかは知らないけど、あんたはこんな場所にまでお姉ちゃんを連れてきた。それだけでも、殺してやりたいくらいに腹が立つ」
「……それは逆恨みでしょう。真さんは、柄支さんの命を助けたのですよ」
沙也の言い分を理解した珊瑚は反論する。しかし、それは沙也の暗く燃える感情に油を注ぐようなものでしかなかった。
「だから貸しを返すのよ。それで、心置きなくあたしはあんたたちを始末できる」
「ここで俺たちを見逃して、その後にまた殺しに来るってことかよ」
「そういうことよ。お姉ちゃんに血生臭いものは見せたくないからね」
封魔省の件で真が柄支を助けたことに関しては感謝しているが、沙也の心情は理屈とは別のところにあった。また、真は見逃す理由は後者の方が強いのではないかと予想する。
柄支のことを語る彼女の口調に滲む感情は雄弁だった。話している内容はおよそ平和とは言えないが、純粋に姉を慕っているのだろう。
「一日だけ待つわ。あんたに取り憑いている霊と会った場所に来なさい。そこで決着をつけるわよ」
「何?」
「北の山奥にあった洋館よ。今年の夏、あんたはそこで『そんな風』になったんでしょ。ついででね。あんたたちを始末することとは別に、調べなきゃいけないことがあるのよ。もしかしたら、あんたの霊の由来が分かるかもね」
突然の話に真は返す言葉が見当たらなかった。沙也は言うことは言ったと、後の事は気にした素振りを見せずに背を向ける。
「ああそうだ。わかってるとは思うけど、お姉ちゃんに余計なことを言うんじゃないわよ」
「……ああ。お前のことは先輩には伏せておく。それと、今の話は本当なんだな? ハナコの由来が分かるっていうのは」
「ハナコって言うのね。まあ、どっちかというと空振りの可能性の方が高いかもしれないけど」
真は珊瑚に視線を向ける。見返す珊瑚の瞳から受けた答えは否定だった。それも当然だと真は思う。罠である可能性を考えれば、向こうから提示された内容に素直に乗るほど愚かなことはないだろう。
しかし、彼の答えは聞くまでもなく決まっていた。
「わかった。明日だな」
「ええ。明朝……それまでに精々準備をしときなさい」
肩に担いだフェイを背負い直した沙也は、そう言い残してその場を去った。
「真さん……いえ、今はやめておきましょう。柄支様の無事を確認しなければ」
真の答えを予想していた珊瑚は何か言いたげに彼を見たが口を噤んだ。それよりも、優先しなければならないことが今はある。
「すいません、我儘を言って」
真は一言謝り、珊瑚の言う通り柄支の無事を確認するため足を動かそうとした。
が、真は急激な動悸の高まりを感じて足をもつれされた。身体は前のめりに倒れ、なんとか両手を地面につけて顔は打たずに済んだが、酸欠にでもなってしまったかのように呼吸が苦しくなっていた。
「真さん!」
「だ、大丈夫です……」
珊瑚の慌てた声も真の耳には遠くから聞こえていた。彼女を安心させるためになんとか笑みらしきものを浮かべようとしたが、それも唇を歪めただけでうまく形にはなっていなかった。
大量の、それこそ身体に残った霊気を出し切る勢いで使った反動だった。脅威が去ったことで張っていた気が一時緩んだこともある。
「ハナコに頼っていたツケですかね……少し、休めば持ち直すはずですから……珊瑚さんは先輩を頼みます。入口近くの倉庫で別れました」
「わかりました。すぐに戻ります」
「あ……珊瑚さん」
真をその場で仰向けに寝かせた珊瑚は、柄支の無事を確認するため動き出そうとした。その背中を見送ろうとした真が、不意に言葉を掛ける。
「はい、何でしょう?」
足を止めて振り返る珊瑚に、真は何と言うべきか迷った。呼び止めたのは意識したのではなく、自然と口をついてしまったためだった。
「その……今度は何処にも行きませんよね?」
そして逡巡の末、真は自分でも恥ずかしいと思う質問を珊瑚にしていた。これでは、まるで心細さに耐え兼ねた子供のようではないかと。
しかし、珊瑚はその言葉を笑うことはなかった。彼女は真の気持ちを噛み締めるように頷き、彼の心を包むように穏やかな微笑みを浮かべた。
「もちろんです。私の今の居場所は、もう決まっています」
その微笑みを見て安堵した真は、今度こそ彼女の背中を見送った。そうして、視界に広がる空を見上げながら深く息を吐く。
「ハナコ……聞こえているか?」
真は声に出してはみたが、当然のように返事はなかった。
「明日だ。お前のことが、何かわかるかもしれない。なら、行くしかないだろ」
明日までにどれほど回復するのか、それで戦いに臨めるのか、今更ながら不安材料しかないが、真は考えることをひとまず止めた。
なるべくハナコの負担にならぬよう、深く目を閉じて休息の体勢に入る。そうすると、身体の隅々にじわりと疲労感が広がり始め、次第に意識は落ちていった。




