終章 「二度目の契り」
春風がそよそよと吹いている。
桜が淡く色づき始める時節。鼻先をくすぐる気持ちの良い薫りに、千島凛は上機嫌に目を細めた。
「礼さーん! 早くしてくださいよ。間に合わなくなっちゃう!」
「はいはい。大丈夫、時間には十分余裕はあるから」
浅霧家の玄関先で振り返る凛に、浅霧礼は苦笑を返す。革靴を履き終えて立ち上がった礼は外に出て、玄関の鍵を締めた。
「浮かれる気持ちは分かるが、翼を見習って少しは落ち着きなさい」
凛と手を繋いで、彼女とは対照的に大人しくしている妹へと礼は目を向けた。翼は小さな顔を上げて兄を見つめ返して、楽しげに頬を綻ばせている。
「礼お兄ちゃん、キまってるね。かっこいいよ」
「そうか? 少しばかり窮屈なんだがなぁ。しかし翼、その言葉遣いはどこで……まあいいか。翼も凛も、よく似合ってるよ」
普段の緩い作務衣ではなく、今日の礼はフォーマルなスーツ姿だった。対する翼と凛も、それぞれ空色と薄紅のワンピースタイプのドレスを着ている。
「ふふん、わたしも十八になりましたから。高校も卒業しましたから、もう大人ですよ、大人」
短く整えた栗色の髪をさらりと撫でて胸を張り、凛が笑う。
「と――わたしのことはさておき、礼さんは落ち着き過ぎなんですよ。放っておいたら勝手に一人で老成しちゃいそうで心配なんですよねぇ。家には姉さんが居るとはいえ、わたしが居なくなっても、本当に大丈夫かなぁ」
「大丈夫だよ、凛お姉ちゃん。私もいるから」
「ん、そうだね。中学生になった、しっかりものの翼ちゃんには期待しているよ。わたしが培ってきた浅霧家における家事の真髄を教えたわけだし」
「やれやれ。やはり、我が家の女性たちは逞しいな」
ころころと表情を変えて、はしゃぎあう凜と翼を見守りながら礼は肩を竦める。仲睦まじく瑞々しさを振りまく着飾った少女二人は、まるで悪戯好きの春の精のようにも見える。
十分に絵になり、見ていて飽きない二人だ。
しかし、残念ながら今日の主役は彼女たちではないのである。
「それでは、お嬢様方。新しい家族を迎えに出発致しますか」
礼は指先で車のキーを弄ぶと、軽く両手を広げておどけた風に言うのだった。
*
式場は静謐で澄んだ陽気と、厳かな緊張感に満たされている。洗われるような、程よい心地良さを感じさせてくれる空気だ。
浅霧静は段取りの最終確認をするべく、慣れないパンプスを履いた足で廊下を進む。慣れないと言えば、こんな日でもない限り着用しないスカートもそうだった。
礼装というのは窮屈で性に合わないと冗談まじりの愚痴を零したところ、「そんな風に言えるのは平和な証ですね」と友人に返され、違いないと笑い合ったのは今朝のことである。
「私だ。そちらの支度はどうだ?」
控え室の前に着いた静は回想を中断し、扉をノックして中からの返事を待つ。
「静さん。そちらの方は、もうよいのですか?」
すると、ややあってから中から応える友人の声と動く気配がして、ゆっくりと扉が開かれた。
顔を覗かせたのは千島珊瑚である。静はすっかり伸ばすことを諦めて久しい、こざっぱりとした髪を小さく揺らしつつ、口端を持ち上げて頷いた。
「男の方はたいした手間ではないさ。いかにも馬子にも衣装といった感じだったが、まあ見てのお楽しみだな」
「そのようなことを言っては悪いですよ。こちらの支度はできています。お会いになりますか?」
「もちろん。後見人としての役得だ」
「では、どうぞ」
珊瑚が扉を最後まで押し開け、静が通れるように身をずらす。緩く編んだ髪を片側に寄せて、落ち着いた正装姿で佇む珊瑚は、いかにも弁えているという感じである。
控えめな彼女らしいと、本人にとっては要らぬ気遣いでしかないだろうが、静は多少心配になりながらも微苦笑する。
「失礼するぞ」
静は一呼吸間を置いて、息を整えてから控え室の中へと入る。
「――静さん」
そして、花が咲くような声に呼ばれて、はたと足を止める。
純白の花嫁。
姿見の前で慎ましやかに椅子に座っていた本日の主役が、静の方へと向き直っていた。
今も過ぎゆく一刻を噛み締めながら、少しはにかんだ微笑みは幸福の香りに包まれている。
白いウェディングドレスは簡素であるが故に自然な美しさが引き立っていて、その無垢な可憐さは、白百合の例えが相応しく思えた。
「……驚いた。溜息が出るとは、まさにこのことだな。あぁ、そのままでいいぞ」
感嘆に息を零した静は、立ち上がろうとする花嫁に片手を上げて制しながら歩み寄る。
「素敵だよ、『華』。できることなら、このまま私が攫ってしまいたいくらいだ」
「静さん、滅多なことを言うものではありませんよ」
「分かっているよ。ほんの冗談だ」
珊瑚に窘められて静が肩を竦める。友人同士の他愛ないやりとりを、花嫁もまた笑って見守っていた。
「珊瑚さん、静さん。わたしのために、本当にありがとうございました」
と、そこで花嫁が深く二人へと頭を下げた。万感が胸に迫り、思いがけずに瞳が揺れているようであった。
「とんでもない。勿体ないですよ、華さん。どうぞ、涙はあとにとっておいてください。せっかくのお化粧が落ちてしまいます」
「はい……すみません」
珊瑚は花嫁の顔を覗き込む形で膝を折り、その目尻を指先で丁寧になぞる。花嫁も気持ちを落ち着けるように深呼吸をして、表情に笑みを戻した。
「そうだな。私たちは特に何もしていないよ。お前の立場については、あの局長が裏でほとんど手を回したお陰だからな」
花嫁につられてというわけでもないが、感慨深い思いを抱きながら静が笑みを漏らす。
「ともあれ、これで一段落つけるだろう。二年か……短いようだが、待つ身としては長かったのではないか?」
「いえ、そんなことは……本当のところを言うと、少しは、あったりもしましたけど」
問い掛けられた花嫁は少し迷うような素振りを見せると、口元に両手を重ねて悪戯っぽい笑みを咲かせる。
「でも、心配はこれっぽっちもしていませんでしたよ。もちろん、この先もです」
「お熱いことで何よりだな。さて、花嫁にも問題ないと確認できたことだし、私は会場で他の皆とゆっくりと待たせてもらうとするよ」
曇りのない言葉に、静は笑い返しながら首肯する。そして、ふと表情を正して花嫁の目を真摯に見つめた。
「華。改めて、弟のことをよろしく頼む。あいつに泣かせられるようなことがあれば、遠慮なく私に言えよ」
「……はい。ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
頼もしい義姉へと、花嫁はもう一度深くお辞儀をする。彼女に信頼を寄せられることに、くすぐったいような誇らしさを覚えながら、静は控え室を後にした。
*
あれから――弐道五華との戦いから、二年が経ちました。
不幸中の幸いと言っても良いのでしょうか。あれだけの規模であったにも関わらず、伝え聞いたところによると一般の人たちの中から死者はでなかったようです。
集団幻覚、テロ、陰謀説……なんて、事件の真実は様々な裏工作の結果、隠蔽されました。これも聞いた話ですけれどね。
でも、全てが終わったことです。事が明るみになればいいなんて言うつもりもありません。
わたしにとっては、その後に待ち受けていた現実の方が、遙かに大きな問題だったのですから。
なにせ、身体を取り戻したのは良いものの、わたしは過去の全てを失っているのです。
霊体でいられたうちは気にする必要がありませんでしたけれど、自分が何処の誰かも分からないという状況は、やっぱり色々な問題を抱えるということで。
そこは静さんが仰っていたように、退魔省のラオさんが裏で方々手を尽くしてくれました。一度、お礼を兼ねてラオさんともお話させて頂きましたが、弐道さんの魂に意識を宿している今のわたしの状況は要保護観察対象みたいなもので、そういう意味でも、わたしの立場を保護することは当然の処置なのだとか。
そうは言っても、あの戦いで力を使い切ってしまったので、わたしにはもう以前のような力は残っていないのですがね。
完全に……とはいかないのかもしれませんが、少なくとも脅威とはみなすことができない、というのが向こう側の本音なのかもしれません。
それは、わたしの魂の方も同じです。
途方もなく多くの魂と意識たちが、あの戦いの果てに旅立っていったのです。わたしの中に宿っていた別の意識である彼女たちもまた、弐道さんの意識と一緒に。
だから、今のわたしの意識は一つだけ。
でも、記憶は刻まれている。
失ったものはあるけれど、完全になくなったわけではありません。
この想いをこの魂に刻みつけていくことが、この世に残ることを許された、わたしの意味。
いつか彼女たちが旅を終えて、この魂に戻ることがあったときのために――です。
ええ、わかっています。こんなことを考えていると、そこまで気負う必要はないと誰かさんに怒られてしまいますね。
ともあれ、一人の人として地に足を着けるためにも、わたしは頑張らなければならないのでした。
もともとは自分のものとはいえ、この身体に慣れるのには時間が必要でした。時間は待ってはくれずに、目まぐるしく過ぎていくばかりの毎日です。
わたしの不安定な立場について、皆さんにご迷惑をお掛けすることになるのは忍びなかったです。けれど、今日まで頑張ってこることができたのは間違いなく、知り合えた皆さんが支えてくれたお陰です。
そして何より、『彼』が傍に居てくれたから。
その彼と今日、わたしは新しく契りを交わします。
もうとっくに運命を共にしているわたしたちですが、わたしの置かれている境遇といいますか、足場を固めるためには、こうした形を取るのが一番早いということで……事情は色々ですけれど、ちゃんと話し合って決めたことです。
一部からは「早すぎる!」なんて驚かれもしましたけれど、今更ですよね。決意は揺るぎませんでしたし、皆さんも祝福してくださいました。
これからも、わたしたちは寄り添い、支え合いながら生きていく。
わたしと彼は、生涯をかけて、共に戦うと決めた盟友なのですから。
新しい名前と、新しい人生。
ハナコではなく、浅霧華として。
そうですよね――真さん。
壇上で向かい合い、彼の顔を見上げる。
少し緊張した固い表情。でも、わたしを見つめ返す彼は、優しく微笑みを浮かべてくれた。
「綺麗だ。華」
「ありがとうございます。あなたも素敵ですよ、真さん」
ちゃんと笑えているか自信がないですけれど、大丈夫ですよね。
わたしは幸せですよ。
それはこの先も、ずっと変わらない。あなたと一緒なら、どんなときであろうとも。
わたしたちは、二度目の生を誓い合う。
永遠に、刹那に。迷わぬように。
その未来へと生きていくのだ。
『退魔師の二度目の生は幽霊少女と』 ―完―
執筆期間:2015.08.19~2017.08.31
ここまでご愛読くださいました皆様には、特段の感謝を述べさせて頂きます。
誠にありがとうございました。また、いつかどこかでお逢いしましょう。




