32 「リヒト」
リヒト・ラダマンテュスは、この世の表と裏を繋げる事に成功した、稀代の術士である。
そう、彼自身は、最期の時まで信じて疑わなかった。
表とは、すなわち肉体を持つ者が生きる現世であり――
裏とは、肉体が滅んだ後に、魂が行き着く常世である。
この世に留まる霊魂らが、地上に災いを起こす前に浄化し、秩序を保つことを己が使命として掲げる者たちがいた。
退魔師が退魔師と呼ばれる以前――それも、遠く海を隔てた東の島国での呼称である――しかし、その力を持つ者達が暗躍していた時代。黎明というには、あまりに暗い世界であるが、ともかく彼らは存在していた。
彼らは脈々と受け継がれてきた血筋に誇りを持っていた。それはもう一つの社会であり、閉ざされた世界でもあった。彼らはそこで世の平穏を影から支えるという大義を謳っていたのである。
たとえ時代が進み、世の常識という理を振りかざす者たちから異端と誹られようとも、その理念は変わらなかった。
一部の同胞たちが捕らえられて、暴力に曝され、業火に焼かれようとも、である。
目に見えぬ存在を信じる……という意味で、彼らは神を信奉する者たちと同じと言えたかもしれないが、彼らが信ずるのは神ではなかった。神は見えぬが、霊魂は彼らの目に見える存在であり、そもそも信じるという行為は発生しない。
霊は、魂は――その存在は、現実なのだ。
彼らは理解を求めず、粛々と己が使命を全うする事だけを考えていた。その力は悪戯に用いてはならないものであり、秘匿すべきだという考えが根底にあったというのも一つの理由である。
それ故に、彼らこそが災いの元凶であると、悪魔の力を崇拝する異教徒であると声高に糾弾され、淘汰される事になったのは、当然の帰結とも言えた。
ただ、それでも彼らは誇りだけを抱えて、己が信ずるもののために存在していたのである。
そのような旧態依然とした在り方に異を唱えたのが、リヒトであった。
彼は異教徒と嬲られ続ける、同胞らの現状を嘆いていた。何故、殺された同胞らの魂さえをも自分たちの手で鎮めねばならぬのか。この力は世に正しく知らしめるべきものであり、我らこそが世の平穏を担っていることを認めさせるべきだと訴えた。
しかし、誰もリヒトの言葉には耳を貸さなかった。
それもむべなるかな。彼の訴えることは、彼らを排斥しようとする者たちとの全面戦争に他ならなかったからである。いくら彼らが特別な力を用いることができるといっても、相手とは数が違う。少数派である彼らが、数の暴力に勝てる道理はなかった。
そうでなくとも、力は秘匿すべきものだという考えが根強く残っている以上、リヒトの考えが受け入れられるはずもなかったのである。
だが、訴えを拒絶されてもなお、リヒトは考えを改めなかった。次第に同胞たちさえからも妄想家、あるいは彼こそが狂信者だと憐憫を込めて呼ばれるようにまでなっていた。
それでも、リヒトは頑なに認めなかった。時として、間違いを正す事こそが間違いになるのだと、彼は理解することを拒んでいたのだ。
己の言葉の価値を軽んじる者たちにこそ、価値がないと心を閉ざした。
他人の声などあてにはならない。我が意志を貫き通した先にこそ、真に価値のある未来が生み出されると、信じて疑わなかった。
狂っている。
自分たちを異教徒として抹殺しようとする者たちも、その流れを甘んじて受け入れて逃げ延びることしか考えていない同胞たちも。
どいつもこいつも、度し難い。愚者でしかない。狂っているのは奴らの方だ。
でなければ、救われない。
妻と娘が殺されてしまった事も、全てを仕方がないと、なかったことにして生きろというのか。
死ななければならない理由など、納得できる理由など、何一つなかった。
この感情の前には、哀しみなど消し飛んだ。絶望だ。マグマのような絶望の中で、彼の心は形を変えてしまっていた。
狂っているのは世界か、己か。
これはそういう復讐であると、彼は自身の生涯を定めたのである。
………………
…………
……
始まりの記憶。
擦り切れるほどに再生されて、今はもう、そこにあったはずの感情は褪せていた。
鈍色に塗り込められた、高い空。
風に混じる白いものが積もった大地に、幼子が佇んでいる。
幼子は雪に負けぬ白い肌を深紅のドレスに包み、見開いた血のような両眼で空を仰いでいた。
紫水晶を思わせる緩く波打つ髪が、きらきらと舞い散る白に混じって輝いている。
その日、とある国の一つの都市が滅びた。
幼子の周囲には崩壊し、瓦礫と化した家屋が続いていた。荒涼とした風の唸りだけが響くばかりで、生物の気配は皆無だった。
幼子を含めて、生けるものはここにはいない。
この世の条理に照らし合わせれば、彼女は確かに死んでいた。彼女の父も肉体が滅び、この世のものではなくなっていたはずだった。
けれど、そのような条理は無きに等しい。彼女はその条理にこそ反逆するためにこそ生み出された存在であったからだ。
幼子の眼には、常にその世界が映っている。
赤い、紅い、血の世界が。
現実ではない遠い世界へと旅立った――肉体を失った者たちのことを、そんな風に語ることもあるらしいが、幼子にとってそのような虚構じみた話に、現実味などあるはずもなかった。
何故なら、幼子にとってその世界とは常に身近にあり続けるものだったからだ。決して遠いものではなく、ましてや虚構などではないのである。
その世界が『死』と呼ばれるものであることを、幼子は知っていた。
そこには特定の形を持たず、靄のように揺らめいているものもあれば、はっきりと人の形をしたものもいる。青、赤、白、黒、色だって様々だ。
今もそう。滅びた都市の人々の魂が蠢いている。幼子の見る赤の世界で、生きている。
死は終わりではない。死とは生の先にある一つの世界に過ぎず、彼女の価値観でいえば、それは間違いなく生きているモノたちなのだった。
ちゃんとそこに、存在している。肉体が滅びても、生きている世界が変わっただけのこと。
だから、父もそばにいる。
「行きましょう、お父様――」
幼子の口から短く呟かれた声は、容易く風に掻き消される。
けれど、すぐ傍で空気がゆらりと動き、彼女は冷たい両腕に抱えられた。
この世界にいる限り、魂は永劫不滅。共に生き続けることができるのだ。
死が魂を別つのが世界の理というのであれば、そのような世界は必要ない。
ならば、全てを喰らい一つにしよう。
永遠に、この世界に閉じ込めて、生き続けよう。
それが、幼子が抱く世界の、唯一の理であった。
*
「…………」
弐道五華は、混沌とした記憶に馳せていた意識を引き戻した。
虚無と化した『世界』の中心――虚無である以上、そのような場が存在するのかも定かではないが――に、彼の者はいた。
表現すべき色は黒か白か、あるいは全てを混ぜ合わされた結果、どの色の特徴も掻き消えて、何ものにもなれないような不定の色。上も下も奥行きもなく、三次元ですらないのかもしれない空間。
あらゆるものが平等に揺蕩い、濁っていく。およそ生半可な自我では、触れた途端に容易く消えてしまうであろう世界。
本来持ち得ぬはずの記憶を弐道が垣間見たのは、この『世界』を侵そうとする者の意識が混ざり込んだせいだろう。
そして、弐道はそこに登場する、ある男のことを思い出していた。
淀んだ水底に埋没していたはずの己の古い記憶が、ふわりと砂埃を巻き上げられるようにして、掘り起こされたのである。
それは驚くべきことではあったが、喜ぶようなことではなかった。弐道にとっては、そういうこともあったな、という程度のものでしかない。思い出すのも一瞬、砂埃はすぐに沈下し、夢のように儚く消えゆくことだろう。
この国から遠く離れた地に、一人の男がいたのだ。
男は、ひたすらに渇き、飢えていた。
伸びきった黒い髪に顔は覆われていた。その奥で紅く濁った両眼は爛々と不気味な輝きを宿しており、恐るべき幽鬼のごとき形相。
幼き子の亡骸を抱きながら、この世の全てを呪うかのような怒りを撒き散らしている様は、一目見て狂気に侵されているのは明らかだった。
そして、正気を失っていたからこそ、辿り着ける境地もあったのだろう。
死した肉体から解放された魂は、輪廻の環へと戻り、次の肉体へ導かれる時を待つ。
その浄化された魂が行き着く先の世界への扉を、狂気に堕ちた男は抉じ開けたのだった。
魂に残留し、転生の時を待っていた弐道の意識が男を認識できたのは、そのためであった。
男の願いは、己を認めなかった世界への復讐。
そのための力を彼は望み、それを成し得る力こそ、この世ならざる者たちの力をおいて他にないという結論に達していた。
異教と迫害された力は、ここにある。その力をこそ鉄槌として、世に知らしめ、認めさせるのだと狂おしいまでに求めていた。
その男の想念に触れて一つの閃きを得た弐道は、ほんの気まぐれを起こして男に接触した。
男が姿なき彼の者を、悪魔か、あるいは憎悪する者たちが崇める神と呼ばれる存在と思ったのかは分からない。それは男にとって、どちらでも良かったのかも知れない。そのような正常な判断を下す理性を、この期に及んで彼は持ち合わせてはいなかった。
求めに応じて、弐道はそれこそ、神さながらに男に知識を与えた。
死した先の魂の世界のこと。輪廻が実在すること。この世の裏側とも呼べる世界の理を教授し、自身がその中に囚われているのだということも話して聞かせた。
その中で、男が殊更に興味を見せたのは、魂が転生する際、培われた記憶が失われるという点であった。
男は輪廻の中から、亡くした娘の魂を欲していた。
妻の肉体は灰となった。だが、娘の亡骸だけは、離さず抱えていたのだった。
肉体が滅んだ時点で、魂から記憶は失われつつある。ましてや死体に魂を戻したところで、蘇るはずもない。
仮に魂を宿せたとしても、それは生前の存在とは違うものとなるに違いない。
それでも構わないのかと問う弐道に、男は一も二もなく頷いた。
それもそのはず――男の真実の願いは、娘を取り戻すことなどではなかったのだ。
彼の胸中は、この世の全てを呑み込まんとする怨念に満ちていた。
この時の男には、もう理性などなかったのだから。
男は娘の亡骸に輪廻の環から引きずり出した魂を植え付けた。
子に夢を託す、などという生易しいものではない。
殺したものに殺される。それこそが復讐劇にふさわしいと――男は娘を復讐のための道具とした。
その修羅のごとき妄執は、世界を喰らい尽くすまで消えないだろう。弐道が着想を得たのは、その点にこそあった。
もしかすると、この男の狂気の行き着く先で、魂が全て滅びることもあるかもしれない。
可能性のあるところに種を蒔いた。ただ、それだけの理由だ。
……因果は巡る、か。
記憶は摩耗しても、己の軌跡が現在に至るまで影響を残して続いている。その事実に、弐道は薄く微笑むのだった。
*
「やっと……出れたか」
真とハナコは、やっとの思いで居城の頂上へと続く螺旋階段を上り終えていた。
一度崩れたはずの屋上の床は、変質を遂げた居城の屋上として再構成されている。泥濘のような赤が広がる場に天井はなく、昏い虚無の空が、呑み込まれそうな距離にまでなっていた。
そして、その空に穿たれ、胎動するように蠢く大穴の中心――更なる頂きへと通じる階段が、吸い込まれるようにして伸びていた。
半透明のガラスのような階段は、一段一段が宙に浮いており、終点は霞んで見えやしない。
まるで天上へと続く道のようであるが、その先こそが決戦場なのだろう。シオンも弐道も、この場にいない。となれば、おあつらえ向きに用意された目の前の道こそが、最後の道程に違いない。
今更、そこに踏み込むことに怖じ気づきはしない。だが、階段の始まりに佇む男の姿に、真もハナコも気付いていた。
「真さん、あの人は」
「ああ、黙って通してくれは……しないんだろうな」
二メートルを超える体躯。両手に嵌めた白手袋を除き、常に全身黒ずくめの装い。鍔の広い帽子を目深に被り、その下は無造作に伸びた髪によって更に隠されている。
外見は巌のようでもあるが、朽ち果てた巨木のような印象も受ける――主人からエクスと呼ばれていた、壮年の男である。
主人の戦いに水を差そうという二人を止めるためか。はたまた、そこへ参加する資格があるかを見定めるためか。
沈黙を貫く男の意志は分からないが、言える確かなことは一つしかない。
男は忠実なる番人として、二人の前に立ちはだかっているのだった。




