30 「前へ進め」
屍の居城と化した凪浜スカイビルに突入した真とハナコだったが、その内部の派手さとは相反して、障害は多くはなかった。
ビルの内部は城らしく再構成されていた。吹き抜けの円周に巻き付くように掛けられた螺旋階段は赤々と血塗れの様相を呈しており、駆け上がるだけで目眩を起こしそうなほどである。
ただ、どれほど豪華絢爛を装おうが、その構成要素は死骸であり、屍肉だ。死にながら蠢くこの居城にいるだけで、のし掛かるような重圧はある。足下を掴むように屍たちも手を伸ばしてくる。
負担は当然ある。しかしながら、それらを差し引いても、真はある意味での慣れを体感していた。霊気をどの程度割けば対応できるか、最適化できるようになってきたと言うべきなのだろうか。
「……ここまで何もないと、逆に不気味じゃありませんか?」
と、ハナコが疑問を口にする。階段は無限に続くかと思われ、正確に数えていたわけではないが、流石に中程に差し掛かったと思われるところだった。
彼女の疑問はもっともではあった。シオンから念のような言葉はかけられたが、彼女は弐道との戦いに力を注いでいるはずであり、注視はされているが妨害をする余力もないのかとも思われる。あの口ぶりからして、早く真たちが頂上まで来ることを望んでいるよう節もあるように聞こえなくもなかったが、あまりにも順調過ぎやしないだろうか。
「そうだな。まさか、このまま最後まで通してくれるとは思わないが……」
後方では沙也が決死の覚悟で守りを担ってくれている。自分たちは前に塞がる壁を存分に打ち砕いていけばいいと後押しされただけあって、やや肩透かしをくらったような思いもあった。
同じような景色が続き、時間だけが過ぎてゆく中、緊張の糸を張り続けるだけでも疲労となる。
何らかの変化があってもおかしくはない……そう思いながら進む真は、螺旋階段が途切れている事に気がついた。
それとほぼ同時に、頭上の階層から地鳴りのような音が響いていることにも。
「……なんだ!?」
びりびりと襲い来る震動に、階段から転げ落ちないように真は姿勢を低くする。その震動に呼応して屍肉で構成された壁からも重低音が発せられ、城全体が強大な悲鳴を上げているようだった。
このまま階段に留まるのは得策ではない。揺れが僅かに緩んだ隙をみて、真は一気に階段を上る足を速めた。
駆け上がった先に待ち受けていたのは、一面が広大なフロアだった。禍々しい光景はそのままに、血と腐臭が入り交じった空気に満ちている。
その中心に、十メートル以上はあろうかという巨大な赤黒い影が蠢いていた。一見して、その正体が何なのか真には判別がつかずに目を疑う。だが、徐々に視覚が捉えたものが認識され、ぞわりと総毛立つのだった。
大量の骸と屍肉を歪に繋ぎ合わせた人型の怪物。半分くらいは溶けて崩れそうな肉体を重たげに支えるようにして、四肢を床に這いつくばらせている。顔らしき部位の上部には二つ、下部には一つ大きな暗い空洞があり、その闇の奥からは淀んだ鈍い光が渦巻いていた。
「真さん! あれ……あの人は!」
ハナコが叫ぶ。息を呑む真の顔の横から彼女の手が伸ばされて、その怪物の眼前に立ち塞がる小さな人影を指していた。
怪物に比べればあまりにも矮小だが、背中から立ち上る闘志はその姿を数倍にも大きく見せている。目の前の怪物に対して完全に意識を集中していたであろうその人は、聞こえたハナコの声に微かだが反応したようだった。
「静姉!」
「真……!? ハナコも無事だったか!」
その人物は、行方知れずとなっていた浅霧静その人だった。彼女は真たちの存在に驚き、顔を振り向かせる。
その僅かな隙に反応したかのように、怪物の不気味な咆哮がフロアを震撼させた。四肢を引きずらせ、重機のように床を圧壊しながらの前進。巻き込まれれば、たちまち押し潰されて命はないと思わせるには十分は迫力であった。
「静さん! 危ない!」
「ちっ……! お前たちは横へ逃げろ!」
咄嗟に二人へと指示を飛ばした静は、そのまま自身は後ろへと大きく飛び上がり距離を取ろうとする。しかし、怪物の動きは鈍重ではあるが、圧倒的な体躯の差から生じる一歩の間合いは大きい。
迫り来る怪物に、静は追い込まれたかに見えた。唐突な再会を喜ぶ暇も無く、目を覆いたくなるような惨状が繰り広げられようとしている。
だが、真は姉の言うとおりに怪物の進路と直角になるように横へと飛んだ。誰よりその強さを信頼しているからこそ、彼女の言葉は信用できる。
そんなことは、身に染みて分かっていることだ。迷う必要などない。
静の指先から幾重にも束ねられた藍色の煌めきが伸びる。しなやかに、されど霊気を纏い鋼の強靱さを兼ね備えた彼女の武器。突進に対して設置された罠に、怪物の両前脚は切断された。
上半身のバランスを取れなくなった怪物は、そのまま頭から床に突っ込み動きを止めた。自重によって屍肉を潰して撒き散らし、見るも無惨な姿と成り果てる。
「静姉、大丈夫か!?」
「油断するな。こいつは、すぐに復活する」
叱咤するような強い眼差しを向けられて、真は駆け寄ろうと動かし掛けた足を固める。彼女の言葉通り、床にめり込むようにして倒れ伏している怪物であったが、崩壊した肉体の断面はまるで沸騰するように泡立ち始めていたのだった。
ここは屍の居城。骸と屍肉の怪物が、己の肉体の材料とするものは無限にあるに等しいのである。じわじわと切断された前脚は再構成され、今にも上半身が持ち上げられるようとしていた。
「何なんだよ、こいつは……」
「それは、あいつに訊けば分かる」
戦慄に襲われながらの真の当然の疑問に、静は吐き捨てるように言い、忌々しげに視線を上向ける。その先を辿ると、怪物の威容に圧倒されて気付かなかったが、背中に腰を下ろしている男の姿があったのだった。
「誰かと思えば、坊主に嬢ちゃんか。こないなところまで、のこのことよぉ来たもんじゃのぉ」
真たちに気付かれたことに男も気付き、文字通り上から気安く言葉を投げかけていた。腐肉の上で座り心地など望むべくもないだろうに、そこが特等席であるかのように口端に笑みを刻んでいる。
「紺乃! お前の仕業か!」
「くく、まぁ……そうとも言えるかのぉ。じゃが、仕方のないことでな。儂も好きでやっとるっちゅうわけでもないんじゃ」
胡座をかいた膝に頬杖をつきながら、紺乃が分かったような分からないような事を嘯く。目に見えて混乱を表情に浮かべる真とハナコの様子を面白がるように、彼は喉の奥で笑っていた。
「これも、如月の爺さんを追い込むためでなぁ。そこの姉さんには、ちょいと協力してもらっとるわけよ。総長殿の愉しみの邪魔立てをしようっちゅう輩は、排除せんといかんのでな」
「如月? あいつも、ここにいるのか!?」
真は周囲を警戒するように視線を巡らすが、それらしい人影を見つけることはできなかった。そういえば、ビルの屋上で最後に如月と戦っていたのは静のはずと思い至り、問うように顔を向き直らせる。
「……市長の身体は、あれの中にいる」
静が目線を正面へと投げる。彼女の言う『あれ』とは、とうとう前脚を再生させた怪物そのものだった。
怪物の上げる咆哮が、途端に苦悶に満ちたものであるように聞こえてくる。真は気圧されそうになる気持ちを、何とかその場で踏み止まることで押さえつけようとした。
「すまんな、真。市長をとられたのは私の落ち度だ。彼は必ず救出する。お前は先に行け」
『世界』が崩れ、真がこの場に辿り着く間にも、静は凄惨な戦いを繰り広げていたのだろう。血と汚泥が擦りつけられ、刻みつけられた生傷を見ればそれが分かる。余力などあるはずもないのに、彼女は眼前の敵を見据えて言うのだった。
「馬鹿言えよ……そのなりで、よくそんなこと」
「お前たちが消耗していないのを見れば分かる。お前たちに懸けて、行かせてくれた者たちがいるのだろう。ならば、私もそれに倣うまでだ」
詰るようにかけられる弟の言葉を、姉は頑とした背中で撥ね付ける。このまま共闘しようものなら、きっと姉は自分の襟首を掴んで先まで投げ飛ばすくらいのことはするだろう。
家族としての情はある。しかし、生半可な覚悟で足を踏み入れたわけじゃない。仲間たちに背中を任せた段階で、それは分かっていたはずだ。
「……そうだった。皆が俺たちの道を拓いてくれたんだ。今も戦ってくれている」
沙也だけではない。救援に駆けつけてくれた珊瑚、レイナ、フェイの名前を出すと、静は微かに笑ったようだった。
「そうか。ならば尚更、私が不甲斐ないところを見せるわけにはいかないな」
「問題は、素直にあいつが行かせてくれるかってことだが……」
「構うな。お前たちは、前だけ見て進めばいい。ハナコ、弟のことは頼んだぞ」
「静さん……。はい、必ず」
「さあ、行け!」
真とハナコの盾になるように、静は自ら打って出た。狙いは先ほどと同じく、再生したばかりの前脚である。彼女の指先から精巧に強化されて鋼糸と化した髪が、柔らかな鞭のごとき軌跡を描く。
だが、同じ結果には至らなかった。静の放った刃は片脚の途中で動きを止め、中途半端に食い込んだ形となったのである。
意志がないように見えて、怪物もそれなりに学習はしているのか。再生された箇所がより頑強になって対応されている。しかし、そこからの静の判断も速かった。彼女は床を踏み抜くように足を下ろし、反対側の腕を軋らせながらもう一つの刃を叩き込む。両側から刻まれて片方の前脚を斬り飛ばされた怪物は、またしてもバランスを失った。
真とハナコは振り返らずに、怪物の横を抜けて上階へと続く螺旋階段を目指して駆けだす。そして、丁度怪物の背にいる紺乃の真横を通ろうというとき、頭上から声をかけられた。
「坊主に嬢ちゃん。止めはせんから行きゃあええ。お前さんらは総長殿のお気に入りじゃからな。じゃが、腹は決めて行けよ。薄々気付いちょるかもしれんが、本丸やからこそ、有象無象の守りは必要ないっちゅうことをな」
足を止めて問い返す余裕などなかったが、二人はその台詞を確かに聞いていた。
「あいつは儂なんぞより、融通がきかんぞ。総長殿を守るためなら、お前さんらを潰すことに躊躇いはないじゃろぉからな。とはいえ、あの御方を守るっちゅう発想自体が、そもそも愚かなもんなわけじゃが。ま、何にせよ木偶じゃと思っとったら痛い目をみるでな。せいぜい気張れや」
決して激励ではないのだろうが、意味のあるようでないような、例によって煙に巻くような言葉だった。この男の言うことをいちいち気にしていては仕方がないと、振り切るように真は怪物の後方を駆け抜けるのだった。
*
「……ふん、随分と余裕だな。私も甘く見られたものだ」
「別に余裕ぶっとるわけでもないんじゃがなぁ」
斬られた脚を再生させる怪物を前に構えをとる静。紺乃は彼女を見下ろしながら、肩を竦めて苦笑する。
紺乃にとって、真とハナコがシオンのもとに行く事は、別段優先して止めるべき事ではないのだった。そもそも、そのような命令は受けていない。あの二人と戯れる事は、シオン愉しみの一つであろうと彼は判断していた。
紺乃が排除すべきなのは、シオンの愉しみの邪魔をするもの。現状それは、新堂誠二の肉体を乗っ取り、弐道五華に与しようとする如月健一のみだった。
もっとも、本来担っていた監視の目的を越えまでして、この居城にまで出張ったのは、そんな細やかな忠誠心からではない。封魔省副長の立場とは言え、彼はそこまで殊勝な男ではない。
彼は自分が生き残れる目がある方へと動いているだけだ。その中で愉しみを見いだせるならそれでよし。以前、部下の咲野寺現にも言っていた気がするが、これは祭りのようなものだ。『世界』が地獄と化そうとも、存分に興じようではないか。その上で生き残れるなら言うことはない。
なんなら、決して墜ちることのない赤き凶星が、地に墜ちる様も見られるかもしれないのだ。
それならそれで、面白い。
「くく、何はともあれ、まずはこの状況をどないかせんとなぁ。年寄りのしぶとさには参るわい。死骸どもを使って押さえつけてみたはええものの、ここまで往生際が悪いとはなぁ」
新堂誠二は怪しいだろうと踏んでいたが、如月が意識のみを憑依させて生き延びていたとは多少の意外性をもっていた。意識のみで生きていると言えるのかは疑問の残るところではあるが。
シオンの怒りを買ったのは不運という他ないが、同情はできない。わかりやすい言い方をするなら、如月は『やり過ぎた』、と言ったところか。
新堂誠二に関しては同情の余地はあるが、だからといって紺乃が彼を助ける義理もない。可哀想ではあるが、如月ともども消えてもらう事にした。
シオンの気にあてられ、新堂誠二の精神はもはや死の淵に追いやられていたのだ。そこに宿っている如月の意識もまた、言うに及ばない。誠二の魂を消せば、如月の意識を摘み取ることは容易だと思われた。
「させるものか。私たちの勝負に水を差したことも気に食わん。クソ爺との決着は、私がつける」
だが、そのためには誠二の肉体を守ろうとしている浅霧静が邪魔だった。この居城の中でよくもここまで保っていたものだと感心したが、それ以上に危険だとも思った。
そのため紺乃は、屍どもに誠二の魂を喰わせてみることにしたのだ。紺乃と遭遇する前からぼろぼろの彼女ではあったが、まともに相手をしたくないのは、以前の戦いから実感している事である。
一つ誤算があるとすれば、喰われる事に対して如月の精神が思いの他、抵抗を見せた事だった。すぐに終わるだろうと思っていたが、腐っても無色の教団を牛耳っていたのは伊達ではないのか、紺乃が想定した以上の屍どもを寄り集め、肥大化させたのである。
それは自滅の道でしかないが、大人しく消えてなるものかという明確な意志を感じさせる。飽くなき妄執に囚われた、魂の末路だった。
こうなっては紺乃にも制御が難しい。如月の妄執が誠二の魂を辛うじて生かしているというのも皮肉な話だが、静にとってそれが一縷の望みとなっている。
誠二を食い潰そうとしている屍を取り払い、彼の魂に巣くう如月の意識を消す。そのために静は、満身創痍でありながらも気構えを衰えさせなかった。
「格好をつけるのは勝手じゃが、どうするつもりかのぉ。姉さんに打てる手があるとは思えんが」
紺乃の見立てでは、静に残された力はもう僅かしかないはずだ。意地や気迫、精神論でどうにかできる問題ではない。無尽蔵に生み出される屍たちを打ち払う力などあるとは到底思えなかった。
「知れたこと。私も、懸けるべきものを懸けるだけだ」
まだ何かあるのなら見せてみろと、挑発するように紺乃が言葉を吐く。そして、それに応じるように、静はおもむろに自身の髪を束ねていたヘアゴムを外した。
はらりと、彼女の長い髪が真っ直ぐに背に流れ落ちる。休む間もなく戦いを続けていた髪は汚れて艶を失っていたが、それでも鬼気迫る彼女の闘志に輝きを灯しているように見えるのだった。
「懸ける……のぉ。何を懸けるというんじゃ」
「命だ」
その端的な答えに、紺乃は眉を上げる。静の鷹の目は鋭く研ぎ澄まされ、掛け値なしの本気の言葉であることを物語っていた。
「私の命を、くれてやる」




