15 「珊瑚の毒」
夜に沈んだ林の中を濃く照らす二つの光があった。
一つは闇をより濃くするような黒の光。もう一つは、その闇を焦がさんとする白い光だ。
二つの光は無数に交差しながら光を散らし、踊るように木々の間を駆け巡る。
動きは、はっきりとしていた。避けて、逃げる白を、狩らんとする黒が追う形である。
一見して一方的に攻め続ける黒が優勢な状況だが、その黒の霊気の担い手である咲野寺現は、慎重にならざるを得なかった。
白い霊気を帯びた珊瑚の防御に隙はない。現の攻撃を正確に見抜き、攻撃が当たる瞬間、その部位に対して霊気による防御壁を展開している。
これは攻めあぐねた結果のものではない。そうであれば、現の力押しで既に勝負は決している。廃ビルでの痛手から油断はしないようにしていたが、その程度の自負は残っていた。
相手の狙いが、こちらを焦らすことにあると現は読んでいた。隙を見せたところで反撃に転じる。あるいは、攻撃を繰り返すこちらの霊気が弱まるのを待っているかだ。
霊気を用いた攻撃に対する防御手段として、珊瑚は同じく霊気を壁として使用している。それ自体はよくある手法と言えるが、本来は身体全体を強化してダメージを軽減するのが主流である。
しかし、珊瑚は現の攻撃が当たるポイントのみに霊気を集中させ、確実に防いでいた。
効率が良さそうに思える手だが、現に言わせれば悪手である。裏を返せばそのポイント以外は防御を放棄しているのだから、余程見切りに自信がなければできない芸当だ。
だが、珊瑚はそれをやってのけているのだから、その技量は認めざるを得ないところだろう。
既に何十と爪を相手の防御へと突き立て破っているが、一向に途切れる様子はない。攻撃と防御、互いの集中が切れる様子は今のところなく、根競べは好きではない現にとっては、好ましくはない展開だった。
……それでも、壊し切ってみせる!
戦いが始まる前の熱を冷却させ、現は白の光へ肉迫し、爪を振るう。白と黒が混ざって弾け、その反動を利用して相手はまた遠ざかるが、獲物を追い立てる獣の如く、構わず前進する。
攻撃する気がないのであれば、それはそれで好都合だ。こちらも集中を切らすつもりはないし、落ちるまで攻撃を繰り返すだけのこと。防御だけで、敵を倒し切れるはずもないのだから。
「――オォ……ッ!!」
四肢に纏う霊気の濃度を更に上げる。前傾姿勢で疾駆する現の姿は、徐々に獣じみたものになっていた。
珊瑚は速度を上げた現が攻撃の手を強めてくると思い、その動向を注意深く見据えた。予想の通り、加速した影は闇に黒い霊気の軌跡を残しながら疾走する。
そのまま突っ込んで来るかと思ったが、影は彼女の前で跳躍し、頭上を飛び越えた。
背後に回るつもりかと振り返るが、そうではなかった。珊瑚の後ろ数メートルの位置には大木が立っており、現はそこへ向けて横薙ぎに爪を刻み、更に渾身の蹴りを叩きこんでいた。
爆裂の衝撃で抉られた大木は、自重を支えきれずに内側に倒れ、珊瑚の頭上に影を落とす。ほぼ反射の動作で、珊瑚は左に飛ぶように身を投げて避けた。
大木が周囲に生える草木を割りながら、地響きを上げて地面に沈む。砂埃が舞う中、珊瑚は敵の姿を見失ったことに気付いた。周囲を見渡すが、粉塵の中では霊視をしても物理的に障害があるため効果は減衰する。
そのとき、背中に迫る敵の気配を鋭敏に察知した珊瑚は、振り向きざまに寸でのところで防御の壁を展開した。しかし、反応が遅かったせいで壁は薄い。ガラスが割れるような硬質な音を立て、黒い爪が珊瑚の右肩を穿った。
「――ッ!」
短く息を呑んだ珊瑚は、追撃を逃れるように後方へ大きく飛ぶ。シャツの肩の生地が裂け、流れる彼女の血が尾を引くように空に散り、地面へ染みを作った。
現は自らの攻撃が成した結果を確かめるように、指先に付いた珊瑚の血を見つめる。効果があったことを認めると、彼女は身を低くして追撃の体勢を取った。
「……冷静なのですね」
右肩を左手で押さえながら、珊瑚は戦い始めてから初めて言葉を発した。深追いをしなかったのは、均衡が崩れたことで、こちらが攻撃に転じないか警戒したからだろう。言動から現はもう少し雑な戦いを好むと思っていたが故の感想だった。
「一方的な方が好みであることは否定しませんよ。ただ、あなたはまだ全部を出してなさそうですから。油断するなって、基本ですけど大事ですし。紺乃さんにも注意されたんですよね」
「……どうやら、想像以上に厄介な方のようですね。その紺乃という方も、こちらに来ているのですか?」
「ええ、連絡はしていますから、仕事終わりで、もう着いてるんじゃないですかねえ? それで、この会話は時間稼ぎのつもりですか? 本当にこれで終わりなら、決めちゃいますよ?」
「そうですね……これ以上時間を掛けるのは、私も望むところではありません。終わりにしましょうか」
珊瑚が挑発に応じるとは思っていなかったのか、現は意外そうな顔をした後、好戦的な笑みを浮かべた。
「では、望み通りに!」
そして、地面を蹴って突貫した。今までで一番速度が乗っている。相手は怪我をして集中も今までよりは落ちているはずだ。
攻め切れば勝てる。現はそう断じていた。
しかし、攻撃は届かなかった。
距離の空いた珊瑚へ向けて跳躍した現は、霊気による加速を得ていた。それが途中で消失したのだ。急激にブレーキをかけられた状態になった彼女の身体は、墜落するように肩から地面に激突した。
「――!?」
痛みよりも動揺が先だった。何が起きたのか判らず、敵が目の前にいるにも関わらず、頭は混乱で白くなる。戦闘のために制御していた霊気が消えるなど、余程集中を欠かない限り有り得ない。
「まさか……あなたの仕業ですか?」
訊きながらも、それ以外に原因はないと現は確信する。珊瑚は立ち位置を変えぬまま、倒れた現の姿を見下ろしていた。
「そんなことを訊いているほど、呑気にしていても良いのですか?」
言われて現は、自分が敵の前で無様に倒れている状況に気付き、恥じるように慌てて立ち上がった。
「余裕のつもりですか!」
声を掛ける暇があるのであれば、攻撃の一つでもすればいいものを。現は屈辱に奥歯を強く鳴らした。
即座に爪を形成するため霊気を練り上げようと両手を広げる。しかし、彼女の五指に黒い霊気が収束したところで、形を成す前にそれは破裂するように飛沫を上げて霧散した。
「なん、で……」
「あなたが真さんに行ったのと、似たようなことです」
愕然としながら己の霊気の消える様を見つめる現に対し、珊瑚は冷たく言い放った。
「似たようなこと?」
「そうです。防御に使用した霊気は全て、あなたへ譲渡させて頂きました」
「譲渡!?」
理屈は解る。珊瑚は防御のため霊気を壁として形成していた。現がそれを破壊するため触れたとき、壁を成していた霊気を爪にあえて吸わせたのだ。一つ一つは爪を形成する霊気からすれば微量であるため、その変化に気付かない。
現の霊気に流し込まれた珊瑚の霊気は、異物であり毒となる。そうして、いつの間にか蔓延した霊気の毒が現本人の霊気の流れを淀ませ、形成を阻害しているのだ。
「形成は本来、緻密に霊気を統一させる意志が必要なもの。その爪の霊気の揺らぎからして、あなたはさほど得意ではなさそうだと判断しました」
形を伴わず揺れる現の爪は禍々しさを演出しているが、裏を返せば不完全な形なのだ。故に、多少の変化で容易くその形は砕け散る。
珊瑚はただ防御をしていたわけではない。防御の壁を砕かせることは、同時に攻撃でもあったのだ。
「あなたの霊気の総量が多いので、効果が出るまでには時間が掛かりましたがね。さあ、どうしますか? 大人しく真さんの呪いを解くのならよし。でなければ……ご理解頂けますね?」
「く……そおおおっ!!」
爪はおろか、単純な身体強化も行えない。霊気を行使できない現は、ただの人だ。
それでも敵は怪我を負っているのだ。追い詰めたはずの獲物を諦めきれない、怒りに震える声を上げながら、現は珊瑚に突進する。
それはもはや、引き際を誤った愚策でしかない。振り上げた現の右拳を珊瑚は横に避け、その手首を負傷していない左手で掴み取った。その瞬間、現の視界が回転する。
掴まれた右手首を軸に投げられたのだ。思い切り背中を地面に叩きつけられ、衝撃に全身が揺れた後、痺れるような熱と傷みが駆け巡る。
「……っ!!」
声を出すこともままならず、痛みに襲われながらも、現は見上げる視界に映る木々の中に敵の姿を探そうとする。
今の攻撃は、霊気を使用していないただの体術だ。舐められていると、現は燃えるような屈辱に身を焦がしていた。
「私たちは人間です。殴られれば痛みを感じます。刃物を突き立てられれば血を流して死ぬでしょう。あなたは、その辺りを勘違いされているのではないですか?」
「う……るさい、ですねぇ……」
偉そうに説教をされる筋合いなどはない。現はいまだ痺れる身体を引き摺るようにして、なんとか立ち上がろうとした。
「私たちが脆い存在だなんてことは……百も承知ですよ。だてに魂を食らってきたわけじゃありませんから。知ってますか? 封魔省は霊の魂だけじゃない……生きている人の魂も食らうことがあるんですよ」
嘲るように口を歪めながら、現は言った。
「廃ビルの件もそうです。放火説が有力ですが、犯人は不明で迷宮入り。そのはずですよね。実行犯は既に死んでいるんです。やったのは、封魔省の者ですから」
「なるほど……やはり、そういうことでしたか」
封魔省という組織の考え方について、珊瑚は真には一部を伏せている。彼の組織の者たちは己の魂の補強のために他の魂を食らうが、それが行き過ぎることもある。
それが、生きている者の魂を簒奪する行為だ。もちろん、あからさまな殺人行為を行うわけではない。彼らとて現代に生きる人間には違いないし、法に照らせば罪に問われる。
ただ、事故等による大量の死――そうした工作活動を行う者も少なくはないと聞く。
「まあ、ドジを踏んで自分も死んでしまったようで、その後始末はしましたけれど。言っておきますが、その手の輩は組織でも少数派ですよ。黙認はされていますがね」
「あなたも、そうだと?」
「そうありたいと、願いたいところですがね。私は新参ですので……実力とか、コネとかがないと難しいんですよ。そういう点では、あのお嬢さんを逃がしたのは勿体なかったです」
現は暗に、真の力が足りなければ柄支の魂は犠牲にしていたと言っていた。
「魂の価値は等価……けれど、その器、他人の命なんて総じて軽い……自分の命だって、そうですよ。あなたも、そのクチなんじゃないですか? あの少年のためなら、他の犠牲なんて安いと思うでしょう?」
自身の胸を掴みながら、現は挑発的に言葉を放つ。珊瑚は真の命を救うために現と相対しているのだ。そのために、奪わなければならないものは奪うのだろうと。
「全ての魂には、等しく次の命を与えられ生きる権利があると、私は思います。あくまで思想としては、ですが。もちろん、あなたの言う通り、優先順位は設けさせて頂いております」
しかし、それは奪うか奪わないかの極論だ。
「今はあなたの命を取るまでの事態ではありません。あなたの思想に興味はないので、そろそろ負けを認めて真さんを解放してください」
「あぁ、本当に、癇に障る人ですね……誰も降参なんてしませんよ!」
叫ぶと同時に、強張らせた現の身体から黒い霊気が迸った。
瞬く間に、霊気は燃え広がるように彼女の全身を覆う。黒のロングコートが重力に逆らい激しく揺れ、足元からはのたうつ蛇のように幾本もの影が折り重なって伸びていた。
「退く賢明さは持ち合わせていないのですか!」
「バカですか! そんな心が残っているなら、こんなことに身をやつしてやいませんよ!」
さっきまでの姿が獣であるなら、今の姿は怪物だ。しかも、珊瑚が与えた毒の影響を受けないように、自ら制御の枷を外している。蛇口の栓を全開にして霊気をただ垂れ流しているような状態だ。
爪の形成もなにもない。力任せの、ただの特攻。だが、底が尽きれば霊気の流出も止まり、肉体の活動は停止する。
故に、捨身だ。
「あなたの魂を食らえば、お釣りがきますかね……!」
珊瑚は判断を迫られた。まず頭に浮かんだのは、回避か、防御の二択である。
回避の選択肢は即座に捨てた。迫る霊気の総量は莫大だ。食らいつくと言うよりも、覆い被さってくるといった表現の方が正しい。攻撃全体を避けるには距離を取る他ないが、距離を取るには溜めが必要だ。今からでは間に合わない。
珊瑚は決断し、津波のように押し寄せる霊気の中へと突っ込んだ。
初めて見る彼女の前進に現は虚を突かれたが、構わず前進を貫く。
結果、白と黒の食い合いが生じた。
ぶつかった衝撃で珊瑚の白い霊気は傘のように広範囲に散り、その後に収束する。彼女は可能な限り己の身体に霊気を纏いながら、現の霊気に呑まれた。
黒い霊気はこちらの霊気を侵し、食らいに来ている。放出を続けているが、それと同時にこちらの霊気も食らい続けようという算段だ。しかし、珊瑚の霊気は毒になることは証明済みだ。
ならば、自殺行為かと言えばそうでもない。食った端から毒になる前に吐き出すことで、現はこれ以上己の霊気に毒の被害が広がることをさけているのだ。
捨身ではあるが、無謀ではない。そこまで見通した上で、その策を破るために珊瑚は食われながら前進した。
その先に、現の姿を視界に捉える。
左手を伸ばし、彼女の右腕を掴んだ珊瑚は、強引に引き寄せ、その身体を抱き締めた。
「ぐ……ぁあっ!!」
途端、現の顔から理性の色が消えた。苦悶の声を上げた彼女は珊瑚の腕から逃れようと手足を振り回そうとするが、珊瑚は締め上げるようにきつく力を強める。
発せられる霊気の中心は現本人だ。霊気に呑まれるがままでは、その外郭部しか毒は回らない。故の前進だ。本体に直接毒を与えることで、根本を断つ作戦だった。
当然、中心になるほど霊気の密度は濃くなり危険は高い。珊瑚自身も、現から濁流のように打ち付けられる霊気に食われまいと必死だった。
決着がつくのに、そう長い時間は要さなかった。
先に崩れたのは現だった。抵抗の力が弱まり、やがて糸が切れたように手足が垂れ下がる。珊瑚を覆い、絡みついていた霊気も夜気へ溶けるように、その熱を冷まして消えた。
現の身体を落とさぬように受け止めながら、珊瑚は片膝をついて安堵の息を吐く。
勝てたのは、ひとえに霊気の特性の差だ。現の霊気は食らい、珊瑚の霊気は食らわせることで威力を発揮する。相性が良かったと言うべきだろう。
「……これで、真さんが解放されるといいのですが……」
現は霊気を失い完全に気絶している。元を断ったことで、真の呪いも解けるはずだ。
しばらく休息が必要だと感じるほどに、珊瑚は己の消耗を自覚していたが、すぐに次の行動に移らなければならない。
もう一人の敵、紺乃が真のもとに向かっているはずだ。永治の実力を疑うわけではないが、彼の孫もいるし、真がいつ意識を取り戻すかも判らない以上、守るべきものが多過ぎる。
怪我をしていない方の肩に担ぐように現を抱え、珊瑚は永治の援護のために歩き出した。




