20 「哭く都市 5」
展望台から屋上へと抜ける階段を見つけた真たちは、『人形』の包囲網をどうにか突破する事に成功した。
黒い霧が這いずる通路は、途中で外へと繋がる。眼下二百メートルに及ぶ絶景――黒く染まる都市を目の当たりにしながら、靴音を鳴り響かせて狭い階段を駆け上がる。
全身に纏わり付くような不快な霊気を孕んだ風が吹き荒び、不意に足下を掬われそうな不安が胸を過ぎる。だが、いくら煽られようとも先を行く姉の足取りが乱れることはなく、真も負けじと彼女の背に食らいつくようにして前へと進んだ。
真としては不本意ではあるが、静はこれ以上なく頼もしく思える存在だった。もしもハナコと二人だけであったのなら、ここまで辿り着けていたかも怪しく思う。
彼女の存在は力だけではなく、むしろその精神に寄るところが大きい。
「――ちっ、越えて来やがったか」
そして――その声を真が聞いたのは、とうとう階段を上りきり、屋上へと到達したのとほぼ同時だった。
縦と横に二十メートル以上はあるだろう四角いコンクリートの敷地の中央に、黒い霊気の流れは収束している。そこに立つだけでもどれだけの精神が削られることか計り知れないものがあったが、確かに人影が二人分ある。
服装が代わっているようだが、弐道五華に間違いない。ハナコにより近い装いになっているのは何かの暗喩か。こちらを揺さぶろうという魂胆であるのなら趣味が悪いことこの上なく、真は奥歯を噛む。
そして、今し方聞こえた声の主である、弐道の隣に佇んでいるスーツ姿の壮年の男。
「静姉、あいつは……」
「分かっている。姿は違えど、この胸糞の悪さは忘れようもない」
その男が見た目通りの姿――新堂誠二ではなく、中身が違う事を静はとっくに見抜いていた。吐き捨てられる言葉には、あらん限りの嫌悪が含められている。
「丁度いい。私の手で直接引導が渡せなかったのは、唯一の心残りだったからな。二度と迷い出て来ぬよう、現世から叩き出してやる」
「取り繕う必要もないってわけか。余計な手間が省けて、こっちとしても丁度いいぜ」
最初からそんな気などない癖に、新堂誠二の姿を借りたその男――如月は歪に口端を吊り上げながら真たちを出迎えたのだった。
「とはいえだ。正直なところ、静……お前を釣る気はなかったんだがなぁ。まさか、真について凪浜市に移るとはよ」
「ご託はいい。お前は私に消される覚悟だけしていろ」
静は全身から闘志を漲らせて如月を睨み付ける。しかし、不用意に相手の懐に飛び込むような真似はしない。そこのところの冷静さは、しっかりと持ち合わせていた。
「はは、おっかねえなぁ、まったくよ。真も、わざわざ追ってくるとはご苦労なこったな。さっさと逃げた方が賢明だったろうに」
「ふざけるなよ! 話の途中で勝手に消えたのは、お前らだろうが!」
肩を竦めてみせる如月に真が叫び、その視線を弐道へと移す。弐道は真たちのやりとりに興味を持っていないのか、その身を闇に任せるままに両手を広げて受け止めていた。
弐道の肉体からは、滲み出るように霊気による入れ墨のような痕が刻まれている。許容範囲を超えているのか、見ているだけで痛々しい。それがハナコの肉体である事を思えば尚更だった。
「弐道!! その身体……返してもらうぞッ!」
「それは、ボクを殺してくれるという意味かな?」
真の声を受けて、ようやく弐道の視線が動いた。彼の者の顔に浮かぶのは、いかなる痛痒も感じさせない平然とした――穏やかさすら感じさせる表情であり、真は自身の内でハナコの存在が動揺するように震えたのを、確かに感じとっていた。
「お前が生きようが死のうが、興味なんてないんだよ! この結界も止めて、ハナコの身体を返してもらう。それだけだ!」
「…………多くを望むんだね。けれど、その気になってくれたのなら嬉しいよ。やれるものならやるといい。いや、やってみせれくれ」
挑発する風でもなく、真の決意を心から言祝ぐように弐道は口元に弧を描く。その言葉に応えるように、目端を吊り上げた真は木刀を構えようとする。
だが、彼が動き出す前に両者の間に如月が立ち塞がった。
「そう死に急ぐもんじゃねえよ、真」
「如月……!」
「あなたも、ここまで来たら引き返せないと言ったはずですよ。勝手に殺されようとしないでくれませんかね」
真の怒りの眼差しを受け流し、如月は顔を振り向かせて呆れ混じりに弐道を諫める。言われた当人は如月を一瞥し、ふと頬を緩めた。
「彼らがボクの意識を消してくれるというのなら、それはボクの本懐なのだけれどね」
「無理ですよ。あなたにも分かるでしょう。その身体の本来の持ち主が、真と同調していないってことが」
「……そうだね。残念ながら、それは君の言うとおりだ」
「ご納得いただけたのなら、ここは俺に任せてもらいましょうか。あなたはそのまま、結界の維持をお願いしますよ」
納得したというより言いくるめたに近いのだろうが、どうにか弐道を説き伏せた如月は再び真へと向き直る。彼の口端に刻まれた嫌らしい笑みに、だいたい何を言われるのか想像して真の胸はむかついた。
「なあ、そうだろう? 真よ、お前がどれだけ意気込んだところで、ハナコがそれを望んでいるのかって話だ」
「……黙れよ」
果たして予想通りの如月の台詞に、真は奥歯を軋らせる。木刀の柄を握る両手に、自然と力がこもった。
「お前がハナコの気持ちを語るな。言われるまでもねえんだよ。そんなことは、俺が一番分かってるんだ!」
ハナコは直接言葉にしたわけではない。しかし、言葉はなくとも迷いは伝わるのだ。
生きたくないはずがないのだ。
好きな人と共に在りたいと、当たり前の願いすら叶えられずに、それでも自分は本来ならばこの世に存在してはいけないのだからと。
何より真を生かすために魂を明け渡すと言った、彼女の願い。彼女の想い。
自分の事などどうでもいいのだ。彼女の決意を踏みにじり、滅茶苦茶にした存在を、赦せるものか。
「けどな、これだけは言っておく」
燃え滾る意志を両眼に込めて、真は敵を瞳の内へ捉える。
ただのエゴだろうと、欺瞞だろうと、ハナコにもはっきりと示しておかねばならない意志がある。
「好きな女の命が懸かってるんだ。たとえそいつが何を思おうと、言おうと退けるかよ。ここで逃げたら、そんな奴は男じゃねえ!」
ハナコは自分のために消え去る決意をしてくれた。それと何一つ違わない心で、真は吼える。
彼女に死を押しつけたりはしない。諦めさせたりなどさせてたまるものかと。
『真さん……』
魂の芯から発せられる熱が、凍えそうなハナコの心を温めた。
本当ならば、顔を見るだけでも怖い。恐ろしい。生きている自分自身の姿を、まだはっきりと見つめることなどできない。
でも、彼が――大好きな人の想いが支えてくれるなら。
「は……そうかよ。だが、簡単に押し通せるとは思うなよ。俺がさせねえからな」
真の啖呵に如月も嘲笑を引かせる。一触即発。睨み合う二人であったが、不意に真の頭に横合いから伸ばされた手の影が落ちた。
「よく言ったな。流石は私の弟だ」
「ちょ、静姉! 水を差すなよ!」
ぐりぐりと髪を乱されて、真は慌てて姉の手を振り払い抗議の声を上げようと顔を上げる。が、その先を続けることができなかった。
なぜなら、静の横顔に刻まれた笑みの裏に秘められた、獰猛な感情を読んでしまったからだ。
ぞくりと背筋を震わせて息を呑む。真の頭を最後に軽く叩くように撫で、静は如月を見据えるのだった。
「そういうことだ。私の獲物を横取りするのは感心せんぞ。お前の相手は、弐道のはずだ」
「……悪かったよ。それじゃあ、如月は静姉に任せるぞ。俺だけじゃない、皆の分もぶちかましてくれよな」
「無論だ。誰にものを言っている」
鷹の目を鋭く光らせて静は笑う。そして、お返しとばかりに真と彼の中にいる少女に向けて言葉を投げた。
「お前たちの迷いは当然の事だ。だが、この状況を作り出しているこいつらを止めなければ何も始まらん。ハナコ、不甲斐ない奴だが、今は真を信じて力を貸してやってくれ」
『静さん……。もちろんです。わたしは、全力で真さんを支えます』
「ああ、その言葉を聞けて安心したよ。これで、心置きなく戦える」
真とハナコに背を向けて、静は前に進み出た。そんな彼女に対して如月は油断なく目を細め、口を開く。
「相談は終わりか? 結局、俺の相手はお前かよ」
「ふん、待たせてすまなかったな。すぐにその減らず口を叩けなくしてやる」
黒い霊気が蔓延る中で張り詰めさせていた気を、そこで静は一瞬解いた。
潮が引くように漲らせていた霊気が内側へと鎮まる。だが、それは本当に瞬く間の事であった。
次の瞬間、静は藍色の霊気を目に見える形で己が身に纏わせる。彼女の足下に這いずっていた黒い霊気はその強烈な圧に散らされ、触れることすらできなくなるのだった。
「本気だな……。一応分かっていると思うが、念のために言っといてやる。俺の身体の持ち主の意識は、まだ完全に消えちゃいないんだぜ?」
「今更そんな脅しが通用すると思うなよ。クソ爺!」
コンクリートを踏み割るが如く勢いで、静は床を蹴って飛び出した。電光石火――真は静の動きに目を見張る。
常人ではとても反応しきれるものではない。如月も手練れといえど、真は本気の静の攻撃をまともに受けて耐えられる姿は想像できず、勝負はまさに瞬く間につくものかと思われた。
「真っ向来るとは勇ましいにも程があるだろう。なめてんじゃねえ」
しかし、如月が言葉を発すると同時に、静の視界を覆うように黒い霊気が広がる。それは霧状に散りばめられていたものとは異なり、強度を兼ね備えた実像を伴っていた。
「形成――だ。ようやくこの身体も慣らしができてきたところだ。色々と試させてもらうぜ」
「しゃらくさい!!」
静が怯むことなく大きく一歩踏み込み、突進の勢いを全て拳に乗せて前面に撃ち放つ。その衝撃に黒い霊気の壁は呆気なく爆散したかに見えたが、そうではなかった。
まるで泥を殴ったみたいな違和感が静の拳には残っていた。四散した霊気はそのまま投網のように広げられ、彼女に覆い被さらんと迫るのだった。
「『人形』みたいに単純な命令しかきけない代物じゃ、お前の力技には対抗できねえだろうが、直接操作だとそうはいかねえぞ」
如月は黒い霊気を泥に見立て、自在な形に変えて操っている。しかもその霊気は彼自身が生み出しているわけではなく、結界から吸い上げたものを利用しているため際限がないのだった。
弐道の頭上で黒々と渦巻く巨大な力の塊。その更に中心こそが結界の核に違いない。
「近づかせやしねえよ。大人しく引っ込んでな!」
「静姉!」
迫り来る黒い霊気の波に静の姿が呑み込まれる。まさか――と真は前に飛び出しかけたが、その考えが愚かなものであるとすぐに思い知らされた。
「誰が退くものか」
黒い泥と化した霊気の中から藍色の霊気の輝きが迸る。床に膝をついた静はいつの間にか己の髪で編み上げた堅牢な檻を築いており、覆い被さる泥を一切触れさせていなかったのである。
「後ろにさがっては……お前を殴れんだろうが!」
そして、陸上選手さながら、しゃがんだ体勢から弾丸のごとく疾走する。攻撃が凌がれた事に動揺こそしなかったが、次の一手に如月は出遅れた。数秒でしかない隙だが、静を相手には致命的とも言える。間合いを詰めさせるには十分過ぎた。
「お前が下がれ、外道が」
「っ!!」
間一髪で如月は護りの盾にと形成した泥を突き出す。盾は静の拳と激突。互いの霊気が飛沫を撒き散らし、火花のように周囲を照らす。
「ああ、やっぱりお前は面倒臭えな! だが、何度やっても同じだぜ!」
泥の盾は静の拳に纏わり付くようにして衝撃を受け流していた。柔よく剛を制すと言ったところか、泥をいくら殴ったところで破壊はできず、散らされた分はすぐに修復される。
「ふん、いい気になるなよ。確かに打撃に対しては厄介なようだが――」
「何?」
盾越しに静の声を聞き――如月は凍てつく殺気を全身に浴びせかけられた。
「斬る分には何の支障もない」
殴打の通用せぬ泥を、静は神速をもって切り裂いていた。得物は先ほど防御として編み上げた形状とはまた違うが、強化と形成の複合により強靱な鋼糸と化した髪である。
「一度見せた技が、私に二度通用すると思うなよ」
藍色の極薄の刃が縦横無尽に飛び交い、霊気で構成された泥の盾を裂いていく。泥が拳を覆い捕まえようというのなら、鋭利さをもって断ち切るという理屈だ。
「く……ならよぉ!」
完全に間合いを詰められ、苛烈極まる静の攻めに如月は護りのための霊気の形状を変える。泥のように展開するのではなく、強固な盾とした。
ギン、と金属を打ち付けるような音が鳴り響き、その盾の強度が決して刃を通さぬものだと物語る。
「しゃらくさいと……言っているだろうがッ!」
だが、それすらも静の攻め手を防ぐには足りない。
如月が盾の形状を変えた瞬間に、静もまた攻撃の方法を変化させた。髪の刃を捨て去り、拳の一点に霊気を集中させて振りかぶる。
その威力は砲弾に匹敵する。生半可な強度で防げるものではない。
「――ッ……おおぉ!」
両腕に雷でも叩きつけられたみたいな衝撃に、如月は腰を落として耐えようとしたが儚い努力であった。辛うじて盾は破壊を免れたものの、身体は完全に後方へと吹っ飛ばされる。
「慣らしと言ったな。実際のところ、お前はその身体を完璧に使いこなせてないのだろう。お前自身に霊気を扱う知識はあっても、肉体がついてこなければ意味はないからな」
追い打ちをかけるべく静が如月へと肉薄する。全身の骨という骨に痺れが残留し、身体の自由が数秒奪われた如月には逃れる術はなかった。
「万人の霊気をいくら集めようが、たかが一人で――それも半端な状態で私を倒せると思うなよ!」
遠慮も呵責もなく、繰り出された膝蹴りが如月の脇腹に突き刺さる。しかし如月にも意地はあった。彼は霊気による盾を即座に移動させて致命傷を免れる。それでも静の重き一撃は相当な痛手には違いなかっただろうが、膝をつくことはなかった。
「……かはっ……くそったれめ……。あぁ、そうだよ。俺の身体じゃねえって言ってんだろうが。本気で殺す気か」
「お前を叩き出せたら、治療費くらいは出すつもりだ。その様子だと、疲労や痛みは感じるらしいな」
荒い呼吸となった如月に、静は口端に高揚した笑みを刻む。如月もそれに応じるように、口端を引き攣らせた。
「真! いつまで私の戦いに気を取られているつもりだ! 道は開けた! お前はお前の戦いをしろ!」
「――あ……!」
真はその段階になって、ようやく呆けている場合ではない事に気付く。静が如月を全力で吹き飛ばしたため、弐道の前を塞ぐ障害はなくなっていたのだった。
彼女が如月を抑えている今が、絶好の好機。
「ハナコ」
『真さん……結界を止めましょう。あとのことは、それからです』
「…………わかってる。行くぞ!」
瞬間、真とハナコの意識は合一し、高まった霊気は蒼炎となって立ち昇る。
掛け値なしの全力。今まさに、二人は己の存亡をかけた戦いへと踏み出すのだった。




